序1
この街で空を見上げる人がいたら、きっとその人は同業者だ。
今日の天気は晴れ。昨日と全く同じ、人工的なグラフィックの空を見上げる。スプリンクラーからの雨は降らないらしい。
ニューロンドン市の中心地にそびえ立つ時計塔。ビッグベンを背に、脱いだコートを肩にかけ、歩き出した。
「このままの歩調でニューロンドン駅まで歩いたとすれば、二五分と一四秒九六も待つことになるわ。メルン」
「細かいな」
「半分機械だからね」
僕の名前を呼びながら、しゅるりと、僕の背後から黒い影が前に滑り出した。僕の腰よりもちょっと高い位置から、真ん丸な金色の目が見上げてくる。
彼女に気付いた通行人が息をのみ、口元を押さえて後ずさった。
立ち上がれば僕よりも大きい黒ヒョウ。それが、街中をしれっと歩いているのだ。
ほつれ一つない、滑らかで短い黒の体毛。しなやかな、女性のくびれを思わせるようなボディライン。くねるような足腰の動き。慣れれば色気すら感じるが、初めて見た人には恐怖しか与えないだろう。
なんでそんなモノ連れているんだ、という非難の視線を僕に飛ばす人もいるが、首元にかかっている金時計を見ると、サッと視線を下げる。ぎらり、と光を剣呑に反射するそれは、権力の象徴だ。
「ふふふ。迷惑がられているわよ」
黒ヒョウが忍び笑いを漏らす。僕はそれに、ため息を返した。
「サイボーグが実用化されたのはずいぶんと昔のことだけど、市民にはまだ馴染みが薄いからね」
彼女の名前はハーム。黒ヒョウの受精卵にナノマシンを組み込み、成長してからもまた、体の各所に機械を組み込んだ、半分生物で半分機械のヒョウである。偵察や薬物探知、戦闘のような物騒なことから、暇な夜の話し相手までこなせる万能な相棒だ。特級国家公務員のみに、管理局から支給される。一度支給されたら、退職まで共に過ごすことになる、まさに片腕だ。
整然とした街並みを歩く。まるで、大人がブロック遊びをしたような。面白味のかけらもない、合理性の塊の隙間を縫うようにして。
「せっかくの天気だし、オープンテラスがあるところにしようか」
「あんまり皮肉めいたことを言うものじゃないよ? 報告を上げるわたしの身にもなって欲しいところね」
ハームはそう言って、くぁぁとあくびをした。
駅のすぐ近くにあるカフェにはいる。こちらから言う前に、店員の若い女性に「オープンテラスのみのご利用になります」と言われた。そりゃそうだ。動物を、飲食店の店内に長居させるわけにはいかない。
コーヒーと、サンドイッチ二つを頼む。ハームは頑丈で、何でも食べられる。玉ねぎだって平気だし、チョコレートを食べてもけろりとしている。それどころか、コンクリートだって食べられる。そんなことをさせたら、押し倒されてザラザラの舌で舐め回されることになるけれど。あれ、けっこう痛いんだ。
「お砂糖とミルクはいかがなさいますか?」
「要りませんよ」
「大丈夫ですか? ブラックのコーヒーは苦いですよ?」
店員の女性は、微笑ましいものを見るように、さりげなく砂糖とミルクをトレーに乗せる。
「子ども扱いされてるよ、メルン」
ハームが喉の奥を鳴らした。楽しそうにしやがって。
受け取ったトレーの上の小物二つに、なんともいえない気分になりながら、ぬるい風が吹き抜けるテラスに座る。
僕はとっくに成人しているのに、女性の平均以下の身長のせいで、しょっちゅう子ども扱いされる。その度にハームが大喜びするものだから、始末に負えない。
ちびちびとコーヒーを啜りながら通りを眺めていると、駅から降りてきた中年の女性と視線が合う。ハイスクールに通っているくらいの年頃の男の子を連れている。僕には見覚えのない人だが、向こうはじっとこちらを見ている。
「あの……もしかして、メルン君?」
「あっはい。えーと、もしかしてどこかで会ったことがありますか?」
「やっぱりメルン君だった! 覚えてない? 私、カレッジで同じクラスにいたフィーナ」
「フィーナ!?」
そう言われてみれば、昔の面影がある。
生まれた年も、誕生日も同じで、なんとなく仲良くしていた。そうか。もう彼女は、大きな子どもがいる歳になったんだ。
「メルン君は相変わらず小さいねえ」
「うるさいなぁ。たったさっきも、子ども扱いされたばかりなんだ」
つまんだシュガースティックをぷらぷらと振ってみせると、フィーナはころころと笑った。
悔しまぎれに、コートのポケットにいれてやった。持って帰ってやる。
「昔からそうだもん。本当に変わらないね……。その童顔も、男の子にしてはちょっと長すぎる黒髪も、ちょっと怒ったような顔も。卒業した日に戻ったみたい」
「……そうだね。僕にとっては、あの日からまだ三年しか経っていないよ」
「こっちは二〇年。もう、メルン君の倍近く歳とって、すっかりおばさんになっちゃった」
なんて、状況が分からず困り顔の少年を見ながら笑うフィーナに、ひとかけらの寂しさを感じた。
「ウォッチメイカー、どう?」
「いざなってみたら、後悔の連続だよ。仕事もそうだし、みんなに置いてけぼりにされる」
「そうね。いつまでも若々しいのは羨ましいけれど」
ハームが僕の膝を肉球で叩いた。
「メルン。そろそろ仕事の時間よ」
「もうそんな時間か。ごめん、行くよ」
「あら、邪魔してごめんなさいね。またね。次に会うときは、おばあちゃんになって、メルン君のこと忘れてるかもしれないけれど」
手を振りかわし、僕は駅の雑踏に足を踏み入れた。
さっと人混みが割れる。皆、ハームの凶暴なルックスと、僕の金時計を恐れ、逃げるように避けていく。駅員が敬礼し、専用のゲートを開けた。
僕専用に用意された、市街に向かう列車のドアが開く。圧縮空気の抜ける音が、ぷしゅうと寂しげなホームに飛び出して消えていく。
この世界では、都市ごとに違う速さで時間が流れている。その都市を渡り、都市に流れる時間を調節して回るのが、ウォッチメイカーの仕事だ。
ニューロンドン市に流れている時間は、他のどの都市よりも圧倒的に速い。だから、ニューロンドン市から離れるたびに、僕は時間から取り残されていく。帰ってくるたびに、友人たちは年をとり、知っているものが一つ減り、知らない何かが増えている。
最初は驚いた。二回目には感動し、三回目には寂しさを感じた。でも、姪っ子が僕よりも年上になったときに、諦めた。
先頭車両の椅子に腰かけ、窓の外を眺める。
流れていくのは、今日のニューロンドン市。
ハームが、前脚で僕をつつく。
「どうしたの?」
「いや、何もないさ」
「なら、どうして無表情なの?」
「何もないから無表情なんだよ」
「そう」
ハームは隣の席から身を傾け、僕のふとももにその端正なあごを乗せた。奇麗な金色の瞳が閉じられる。
列車はニューロンドン市内を抜け、何もない都市と都市の間を走る。
都市の外を流れる時間はひどく緩慢だ。急降下する隼が、一枚の静止画のように宙にたゆたう。
都市から漏れ出したかすかな時間が漂い、溶けて消えていくだけの空間。そこではすべてが遅々としていて、どんなにか必死で動いたところで、列車から眺めれば氷河の流れのように止まって見える。
タバコを咥えながら、ガソリンエンジンの自動車を運転している男性が見えた。もちろん彼の車は進まないし、今吐き出している煙は、僕が前の仕事をしたときと、全く同じ形をしている。彼のタバコは、きっと僕が死ぬまで燃え尽きることがないだろう。
今というこの一瞬を、同じように生きているはずなのに。彼の一秒前は、すっかり歴史の底に埋もれてしまっている。
僕が見ているこの光は。引き延ばされ、すっかり薄くなってしまったこの光は。一体何年前の世界から反射してきたものなのだろうか。悠久の時の果て。僕が思い出すのは、すっかり年をとった同級生のことだった。






