看取り
実在の病院などは参考にしていますが、あくまでフィクションです。
海辺にほど近い、ホテルかと見紛う全室個室の総合病院。
その病院の緩和ケア病棟の一室で、最期を迎えようとする男がいた。
男の周りには誰もいない。
時おり、看護師が呼吸状態の確認や世話をするために訪れるのみ。
◇◇◇
男は独りだった。
友人や家族、親戚の誰も、面会に来ることはない。
年の頃、60代前半。
1日3万円の個室に入れることができる男に、知人が一人もいないことはないだろう。
ある時、不躾だと思ったが、看護師の一人が尋ねた。
「林さん、もしかして、入院されていることを、弟さん以外、誰にも話されていないんですか?」
男は、「弟以外に、他は…」と言い淀み、「いないんだ」と、ぽつりと呟いた。
看護師は、「そうですか…」としか言えなかった。
男の保証人欄には、彼の弟の名前があった。
その弟すら、来院したことはない。
多忙を理由に病状説明も電話で済ませている。
かろうじて歩いて入院してきた男も、徐々に動けなくなった。
病室から出ることもなくなり、食事量も少なくなった。
次いで、トイレにも行けなくなり、水分を摂ることもままならなくなり、寝ていることが多くなった。
苦痛は医療用麻薬や鎮痛薬などで抑えられていることだけが救いだろう。
一度、看護師は男の弟に電話をしたことがある。
「だんだんと眠っている時間が増えてきています。ご面会にはいらっしゃいませんか?」
「いや〜忙しくてね〜そちらで何でも揃ってるでしょ。死んだら連絡ください。引き取りくらいは行きますよ。じゃあ」
男の弟は看護師に口を挟ませることなく電話を切った。
病院のサービスは充実していて、クリーニングや買い物など、料金を払えば、家族がすることを全てまかなえた。
しかし、ここまで誰も来ないのは珍しい。
病棟の方針で、心電図などのモニター類や、小水や点滴などの管類は、極力、着けないようにしている。
体温や脈、体内酸素飽和度くらいは状態を把握し、症状を緩和するための判断材料に測定するが、治療につながらない血圧は測らない。
苦痛を取り除く治療は別だが、患者の負担になる処置や世話さえも、できるだけ排除する。
最低限の点滴は家族や本人の希望があればするが、男は望まなかった。
◇◇◇
午後9時頃。男にいよいよ最期の時が迫ってきていた。
緩和ケア病棟に勤める看護師は、患者の状態から、ある程度、死期を予測することができる。
奇跡的に予想を裏切り、3日から1週間近く頑張る患者もいるが、9割がた的中する。
男の意識はもうほとんどない。
胸が上下に動き、ハッハッと肩で呼吸をしている。
点滴をしていないため、痰が多く絡むことはなく、小水もほぼ出ない。
眼窩は落ち窪み、頬骨や顎、えらも突き出ている。
身体はやせ細り、骨と皮だけ。
唇や伸びた皮膚は乾燥しており、顔色は到底、生きている人間には見えない。
シューシューと音のする酸素マスクを申し訳程度にしているが、果たしてどれほど意味があるだろうか。
(もって一晩か…あるいは…)
看護師は男の弟に状態を説明するために電話する。
男の弟は、看護師が名乗った後、開口一番、「死んだんですか?」と尋ねた。
「いえ。でも、いつとは言えませんが、今すぐにでも急変する可能性があることだけは、伝えておかなければならないので」
「分かりました。すいませんが、手が離せなくてね〜え?死亡確認の立ち会いですか?別にいいです。全部、お任せします。引き取りに行けるようになったら、電話ください」
看護師は男が生きているうちの、彼の弟との面会を諦めた。
男の病室を訪れると、男は口をパクパクさせ顎で呼吸をし、筋肉が弛緩し表情は一切消えていた。
生気を失った顔である。
男の顔を見て、もう長くないと悟る。
夜間に受け持つ患者は多くいる。
男ばかり気にかけていられないが、それでも、30分おきには見回りしていた。
相方の看護師に、男がもう長くないと告げ、15分、10分、5分と見回り間隔を短くしていく。
その間に、手早く他患者の世話をする。
男の呼吸がゆっくりになってきた。
相方に、男の病室にいると告げ、男の最期の瞬間を見守る。
20分ほど見守っていただろうか。
男は一度、大きく息を吸い込んだ後、ゆっくり息を吐き戻し、それから動かなくなった。
聴覚は息を引きとる瞬間まで保たれているというが、看護師は何も言葉を発することはなかった。
看護師はそのまま数分待つ。
呼吸が再開しないことを確認すると、聴診器で心音がないこと、瞳孔が開いていて反応しないことを確認する。
部屋の室温を下げ、そして、医師を呼ぶ。
当直医が10分もしないうちに訪室する。
医師は室内を見回し、「ご家族は?」と、看護師に問う。
「お亡くなりになって、全て済んでから、いらっしゃるそうです」
医師は、「...そう...」と呟くと、呼吸を目視し、瞳孔をペンライトで照らし、心臓に聴診器を当てた。
いずれも生命兆候がないことを確認すると、自らの左手にある腕時計で時間を確認し、「午前1時43分、ご臨終です」とだけ告げ、看護師と2人だけで、頭を下げた。
医師が病室から出ていくと、看護師は酸素を止め、マスクを外し痰を引き、男の口腔内をキレイにする。
死後30分以内に顎は固まり始めるため、先にキレイにしておかなければならない。
それから、放っておくと開いてしまう口を閉じさせ固定する。
そして、目もきちんと閉じさせる。
看護師は病室から一旦出ていく。
相方に、これから死後処置をすることを告げ、他患者の対応を頼む。
また、力を借りたい時は、医療用PHSを鳴らすと告げた。
看護師は、男の全身を拭き、排泄物の処置をし、入院時、身に付けて来た、シャツとズボン、ジャケットを着せ、靴下を履かせる。
それから、髭を剃り死化粧を施し、腐敗を防ぐために、胸腹部に氷嚢を置き、男の手を組ませる。
そして、相方を呼んで、身体の位置を正したり、洋服の皺を伸ばしたり、体裁を整える。
看護師は、男の弟に、彼が亡くなったことと、いつでも迎えに来ていいことを、電話で伝えた。
◇◇◇
その病院の霊安室は最上階にあった。
男の亡骸は、病室を後にし、そこに安置された。
看護師は、家族がするはずの荷物の整理をし、同様に運ぶ。
それから、男の弟が来るのを、病棟で待った。
男の弟は、存外早く来院した。
男の弟は、死亡診断書を受け取り、夜明け前のため、会計は後日ということになった。
「いや〜色々お世話になりました。昔、色々ありましてね。兄とはあまり関わりたくないんですよ。引き取りに来ただけ、感謝してもらいたいくらいです。葬儀屋には電話してあります。すぐ来てくれるでしょう」
と、男の弟は、男によく似た、しかし人の良さそうな顔で、そう言った。
看護師は、男の弟と霊安室に上がる。
当直医を呼び出し、焼香を済ませると、ちょうど葬儀屋も来院し、男の亡骸を寝台車に乗せる。
寝台車をエレベーターに乗せ、男の弟と、二三言葉を交わし、看護師と医師は深く腰を曲げ、頭を下げる。
そして、エレベーターの扉が閉まるまで、頭を上げない。
看護師は、医師にお礼を言い、病棟へと戻っていった。
最後、死に様に、その人の今までの生き様が表れます(特にお金と人間関係)。
どのように死にたいかは、どのように生きたいかに繋がります。
逆に、どう生きるかは、どう死ぬかまで及んでいくのです。
※突発的な死は想定していませんが、死後どのように扱われるかは、通ずるところがあるでしょう。
※孤独死や、誰も縁者がおらず(又は拒否され)、役所の人間に引き取られる場合もあるので、作中の「男」は、まだ幸運な方かもしれません。お金もありますしね。
どうぞ、皆様、悔いのない人生をお歩みください。