2話 転生
美しい音色が聞こえてくる。恐らく弦楽器だろうとは思うが、あいにく楽器には疎く、詳しくはわからない。だが、この音色が澄んだ川のように綺麗で、穏やかであることだけはわかる。
「ここは……ベッドの上、か。どこの……いや、転生したのなら間違いなくアスタロトの城か」
俺は目覚めたとき、ベッドの上にいた。シーツはシワもなく、とても綺麗だ。周囲は石造りで、壁や床はひび割れてはいるものの、苔などの類はみられない。
きっと、アスタロトの言っていた側近が掃除してくれていたのだろう。いつ目覚めるかもわからない主人の為に働き続けるなんて、まさに側近の鑑だ。
「まあ、あの魔王の話からすれば……怖くて逆らえないって可能性も大いにあるが」
そう、どう考えてもアスタロトは側近を大切にはしていない。あんな口が臭い威圧的な魔王の側近をしてくれる人など、他にいないだろうに。
口が臭いで思い出したが、先ほどから悪臭はしていない。それとも、自分のはく息の臭いはやはり、わからないものなのか。
しかし、まだ気になる点がある。肌の色だ。彼の肌は赤黒いような色だったが、俺の肌は普通の人間の色に近い。もっとも、日本人よりやや白いが。
「それに、声だって違う。なぜだろうか……」
今の俺の声はアスタロトのような威圧的な低さはなく、むしろ爽やかだ。恐らく、前世よりは良い声だろう。そのことには感謝するが、ここまで彼と違うと不安になる。
俺は本当に、アスタロトとして転生できたのだろうか。もし違うとすれば、一体どこの誰なのだろうか――
「アスタロト様……し、失礼します」
「ッ!? ま、待て! ……誰だ?」
「え……!? お、お目覚めになられたのですか!? あ……も、申し訳ございません。側近のフェリスです」
あまりにも突然だったので、つい大声をあげてしまった。彼女――フェリスは、明らかに怯えている。声だけ聞いていても、目覚めてほしくなかったのだろうと思うくらいだ。
ということはやはり、アスタロトは側近を大事にしていなかったのだろう。念のため待てとは言ったが、フェリスにも話を聞いておいた方が良いだろう。どのみちいずれは会うだろうから、早い方が良いというのもある。
「フェリス、か。とりあえず入ってくれ」
「は、はい……失礼します」
そう言って、フェリスは扉を開ける。当然、彼女を見るのはこれが初めてだ。雪のような白い肌と澄んだ川のように綺麗な水色の髪。動きやすそうなメイド服を着用しており、元々豊満であろう胸部は、コルセットで更に強調されている。そして、おどおどした上目づかいがまるで子犬みたいだ。
なるほど、確かに好みではある。つい見惚れていたせいか、フェリスが小首を傾げている。その動きに追従するようにポニーテールが揺れ、とてもかわいらしい。
「あの……アスタロト様、し、失礼ですが」
「どうした?」
「その……随分と、お変わりになられましたね?」
「変わった、か。先に言っておくけど、俺はフェリスの知るアスタロトじゃない」
「そうだったのですか……やはりあの方の術は、成功したのですね」
「ああ。だから、その……」
「その?」
「もう怯えなくても良い。いや、怯えないでくれ」
フェリスは目を見開き、呆然としている。俺は何か、変なことを言ってしまったのだろうか。なるべく自然に言ったつもりだったが、いかんせん経験不足でよくわからない。
とにかく、この空気を何とかすべきなのかもしれない。そう思い、口を開こうとしたとき――
「怯えなくて、良い……?」
フェリスが、泣いていた。何故だろうか。尚更わからなくなった。俺は早くも、フェリスを悲しませてしまったのか。家族同然に接するのではなかったのか。どうしていつも俺は、人を大切にできないのだろう。前世で駄目なら、所詮は現世も駄目なのだろうか――
「フェリス……その、ごめん」
「どうして謝るのですか?」
「……え? いや、フェリスが泣いているのは俺のせい……だろ?」
「はい、あなたのせいです……責任取って下さいね?」
「責任? それはどういう……」
「なんて、冗談ですよ」
フェリスはそう言って、悪戯っぽく笑った。どういうことかさっぱりわからない。フェリスは泣いていたのに、何故だか悲しそうではない。これが矛盾というものなのだろうか。とりあえず、弁解しておくのが無難だろう。
「いや、その……俺はただ、フェリスが今まで酷い扱いを受けていたと思って。それで、俺はあの魔王とは違うから、もうフェリスが怯えたり、無理強いされる必要はないというか……」
「わかってますよ。ただ……嬉しかった。それだけです」
「嬉しかったって、何が……」
「ふふ……何でもないですよ。それでは改めて、これからよろしくお願いしますね?」
「あ、ああ……よろしく」
結局、フェリスが泣いた理由が何だったのか――嬉しかったこととは何だったのか、わからない。
ただ、最後の含みのある笑みが気になり、その含みが何なのかもわからないのは言うまでもない。
何にせよ、俺はフェリスを大切にし、守ろうと心に誓ったことに変わりはないが。
***
ひとまずフェリスには、部屋に戻ってもらった。俺自身、整理すべき情報があるからだ。
結局のところ、俺は無事にアスタロトに転生できたようだが、相違点もある。何よりも何故相違点があるのか気になっていたが、フェリスいわく、肉体の姿は俺の精神体に影響されるとのことだった。
要するに、俺が思い描く姿に肉体が合わせた感じなのだろう。魂と肉体の適合は、どうやら相互関係にあるようだ。そうしてあれこれ考えていると、部屋の外から声がした。
「アスト様、お食事はお召し上がりますか?」
「ああ、丁度腹が減っていたんだ。頂くよ」
「わかりました。すぐに用意しますね!」
それはそうと、俺はアスタロトではなく、アストと名乗ることにした。その方が、俺の為にも彼女の為にもなると思ったからだ。せっかく容姿も違うのだから、アスタロトという人生のレールを辿る必要もないだろう――俺は俺で、別人なのだから。
「それにしてもこの城、人の気配が少ないな……」
実は先ほどからあったこの違和感は、未だに残っている。城というものは、もっとこう、活気があるものではないのか。そう思う程、閑散としている。
しかし、これも仕方ないことだ。長い間領主が不在なら、配下がいなくなってもおかしなことではない。むしろ、フェリスのような忠臣こそ稀なのだ。こういう話も、後でフェリスとしておくべきだろう。
そう思った矢先、足音が聞こえてきた。あれから10分程しか経っていないと思うが、もう用意が終わったのだろうか。もしかしたら、フェリスは料理が得意なのかもしれない。
「アスト様、ご用意できましたよ」
「わかった。少し待っててくれ」
そう言いつつ、俺は立ち上がる。転生して初の食事に、胸を躍らせながら。
***
フェリスは本当に料理上手だった。しかし、食事の途中に先ほどの話をしようとしたら、下品だと注意されてしまった。仕方なく無言で食べ続け、ようやく食べ終えて今に至る。
「領地とアスト様――アスタロト様を守り、ある者は戦死し、またある者は敵に捕らわれてしまいました……」
「そうだったのか……他には?」
「他は……自らの意思で去ったり、妹君の預かりとなりました」
「なるほど……ちょっと待った。今、妹君と?」
「え? あ、はい……アスタリード様です。現在は北の砦を防衛されています」
「そうか……俺には、妹がいるのか……」
フェリスが訝しんでいるが、気にしている場合ではない。素敵なメイドに、なんと妹までいるというのだ。これで胸を躍らせないわけがない。
俺の希望が、また1つ増えた。いずれはその妹にも会いに行こう。だが、気がかりなことがある。
「あの……どうかしました?」
「……その妹ってさ、アスタロトの妹なんだろ?」
「まあ、そうなりますね……それが何か?」
「まさか……アスタロトに似てたりとか、しないよな?」
「いいえ? とっても素敵な方ですよ」
「そうか、良かった……!」
俺は心から安堵した。異形で口が臭い妹だと、また少し変わってくるからだ。フェリスが何故か少しむくれているが、俺にとっては死活問題なのだ。何にせよ、会うのがますます楽しみになってきた。
「アスト様、今夜はもう遅いですから……そろそろ寝ましょうか?」
「ん? ああ、そうだな……」
ふと、フェリスをからかいたいという衝動に駆られた。からかえば、一体どのような反応をするのだろうか――
「なあ、フェリス」
「はい?」
「……一緒に寝ようか」
「え? ……え!? えっと…………」
まずい、思った以上に反応が大きかった。雪のような肌を紅潮させ、それきり黙ってしまった。どうしようか。いや、すぐ冗談だと言えば良いのか。
「いや、フェリス……じょうだ――」
「アスト様の命令なら……私は従います」
「えっ?」
「はい?」
「いや……フェリス、冗談なんだが……」
「…………」
信じられないといった顔で見られた。やはり、うかつなことを言うものではないな。
「酷いです! 少し、期待したのに……」
「え? 今、何て?」
「な、何も言っていません……もう、おやすみなさい!」
「あ、ああ……おやすみ」
フェリスの声が小さくて聞き取れなかったが、何か惜しいことをした気がする。