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不入の山

作者: 記録者

ある山には、恐ろしい化け物がいるという。


その化け物は、吹雪を自在に吹かせる力があり、

雪を降らせ、山に迷い込んだ人間を凍り付かせ、喰らう。

ふもとの村では、そんな風に代々語り継がれていた。


やがて、人々が魔の山というようになったその山は、

雪が絶えることはなく、いつも雪雲が山の上半分を覆っており、

頂上は常にかすんで、見えることがない。


それゆえ、人々は、化け物が住まう山を恐れていた。



その山を、無謀にも越えていこうとする、ひとりの男がいた。


男は、山も雪も恐れなかった。

たった一人で、その山を登ってゆこうとしていた。


その男は、死を恐れていなかったのだ。



その日もやはり、横殴りで吹雪が吹き付ける大荒れの天候であった。


「……噂以上だな」


男はぽつりと呟いた。

男の視界には、白の色以外何も映らない。


「これほどまでに雪が強くては、……まともに進めてはいないのだろうな」


恐らく、見当づけていた道からはとうに大きく外れているだろう、と思った。


そもそも誰も踏み入ることのない山に、人が作った道などがないのは当然。


さらにはこの過酷な環境だ。

生き物自体がいるかどうかさえ、わからない。


「……これでは、人々が恐れるのも当然。か」


男は、凍り付いた唇を笑みの形にした。

表情筋も凍り付き、まともに動かない。

全身が似たようなもので、

先程からちゃんと歩けているかどうかもわからなかった。


どうしたものかと思案していたところ、

ふと、微かに白以外の色が見えた。


「あれは……?」


目を凝らすと、どうやら人工の建造物らしかった。


何故だろう、ここには一人も人間はいないのではなかったのか。


だが、近づいてみればそこは普通の山小屋のようで、

やはり人間がいるらしく、窓にはうっすらと明かりが灯っていた。


「……仕方ない。……厄介になるしか、ないか」


男は、明かりを見逃さぬよう目を凝らし続けながら、

その小屋に近づいていった。



ドン、ドン。


「すまない。誰かいるだろうか?」


返答はないが、声をかけるしかない。

気を抜くと、吹雪の音に声がかき消されてしまう。

男はさらに声を張り上げた。


「申し訳ないが、今夜一晩でいいから、泊めてはいただけないだろうか? 

雪がやむまででも構わない。

……誰もいないのか?」


あまりにも返答がないため、確認の問いを投げかけたところ。


 ギイィィ。


目の前の扉が、ふいに音を立てて開く。

と同時に、吹雪が男の背中を強く押した。


「うわ!」


押されるままに小屋へ飛び込むと、

扉は吹雪を締め出すような強引さで閉じた。



「……君は」


男が見たのは、雪よりも白く光る、着物と肌だった。


「この家に、泊めてほしいと、……おっしゃるのですか」


それと、透き通る氷の群れ。


「残念ですが、それはできません。

なぜなら、もうあなたはこれを見てしまった」


白い着物を着たか細い女は、

それら氷よりも冷たい眼差しを、男に向けていた。


「なので、……私はあなたを、殺さなければならない」


彼女の右手が、背後にある氷の彫像を示す。


「……こんなふうに」


透き通る氷の中に、幾人もの人間がいた。

否、人間に限らず、多種にわたる生き物が、

生きていたままの姿で、そこにある。


「……君は、……何者なんだ」


男は、問うた。女は、答えた。


「私は、雪女。名を、白雪といいます。

問いには答えました。これで、思い残しはありませんね」


白雪と名乗った女の周囲に、冷たい風が雪を乗せて渦巻き始める。

それは確かに男の命を奪わんとするもの。


だが、何故だろう、男に恐れはなかった。

元々死に対して恐れがないのに相まって、

全身が冷え切っているせいで夢見心地なのもあるかもしれない。


しかし、それのどれとも違う理由を、男は呟くように口にした。


「……美しいひとだ」


「……え?」


「……いや、すまない。独り言だ」


脅しに対し、独り言をつぶやく男を不審に思ったらしく、

白雪は眉をひそめる。


男は、姿勢を正した。


眼前の雪女を取り巻く吹雪にも、全く臆する様子を見せず、

右の手をすっと差し出し、言った。


「……ひとつ、私から提案がある」



夜が明けても、吹雪はやむ気配を見せなかった。


白雪曰く、この山に吹き荒れる吹雪は、

彼女のせいではなく、彼女のせいであるという。

どういうことかを問うた男に、白雪はこう答えた。


「雪女である私がいる限り、

この山は常に、人を拒む吹雪を吹かし続けます」


要するに、雪女という存在そのものが、

雪雲と吹雪を呼び寄せるのだそうだ。


それでは当分、山を下りられそうにない。

白雪がそう言ってきたので、男は首を振った。


「これは君との約束だ。

人に君の存在を明かさぬため、私はここに居続ける。

それを違うことがないなら、むしろこれは良いことであるはずだろう?」


男は、雪女と約束を交わしていた。


雪女は、人に存在を知られてはいけないのだという。

知られたら、その場で殺さなくてはいけない。


たとえ人のふりをしていたとして、その時にどれほど人を愛したとしても、

正体がばれてしまえばその相手すら殺さなくてはならない。

いわば運命にあるというのだ。


ならば、男が山を下りなければ問題がない。


白雪と共に暮らすことで、白雪自身に男を監視させる。


どこかに正体を知らせるような素振りがあったなら、

その場で殺してくれて構わない。

それでよいではないか。


男がそう申し出たところ、白雪は妙な顔をした。


「……命乞いは何度も聞きました。

しかし、……あなたのような提案をしてくる人間は、初めてです」


白雪は、その条件を呑んでくれ、男はまだ生きている。


しばらく山を降りなければ、

男を知る者たちは、男は山で死んだものと認めるだろう。


そうなれば、もはや男に帰る場所もなくなる。


否、そんな場所はそもそもなかったのだ、と男は思っていた。


「白雪、と呼んで構わないか」


問うと、白雪は控えめに頷きを返した。


「白雪。

君は、この山に吹雪が吹くようになったその時から、ここにいるのか?」


「……ええ、恐らく。

年月を数えたことはありませんが、

ある時から急に吹雪が吹いたなら、きっとそうでしょう」


「その時からこれまでの間、いったいどのように過ごしていたのだ? 

窓の外を見ても、……退屈ではなかったか?」


すると、白雪は美しい顔を俯かせる。


「退屈なんて。……雪女である私は、吹雪の中に生きるのが定め。

退屈など、感じることはありません。

あなたにとって、どれほど退屈であろうと」


「……すまない」


なぜか、謝っていた。

人間である自分、雪女である白雪。

その間には、境遇そのものに大きな差がある。

自分がとやかく言えることではない、と、男は自分を諌めた。


「私からも、問うてもいいですか」


「ああ、構わない。なんだ?」


白雪は顔を上げ、男に向けた。


「あなたは何故、ここに私と暮らすのですか? 

生きたいからかと思えば、

知らせる素振りがあればその場で殺して構わないなどと言って。

矛盾しているではありませんか。

あなたは私を、恐れていないようですし」


男は苦笑を浮かべた。


「それは決まっていることだが、

……君が美しいと、そう思ったからに他ならないさ」


「何故です。そのような答え、……理由になりません」


「もとより、帰る気などなかったのだ。

だが、死ぬ前の束の間を、この場所で過ごしても構わないと思った。

ただそれだけのこと」


白雪は、整った面立ちを僅かにしかめた。


「……あなたは、もしや病を患っているのでは?」


男は答えなかった。

ただ、困ったような笑みを返すのみだった。



それからも男は、白雪と共に暮らし続けた。


白雪のまとう冷たい空気に、男の体も次第に慣れ、

やがて寒さを感じなくなった。


男も最初は、食などの点で体調が崩れることが多々あったが、

そのたびに白雪の手厚い看病を受け、

そういうこともなくなった。


白雪の手は、常に氷のようだった。

雪女の特徴の一つだという。


また、白雪の瞳は澄んだ水の色をしていた。

これは雪女の特徴ではなく、白雪独特のものであるという。


毎日、毎日。

男は白雪と、吹雪に閉じ込められた山小屋の中に居続けた。


もちろん景色も内装もやがては見飽きたが、

苦になることは一度もなかった。


何より、白雪といることで、彼女のことが少しずつ分かってきていた。


白雪は、雪女でいようと努力していたのだと、ある時ふと悟った。


雪女は、冷徹でなければならない。

だが彼女は、それに反して優しかった。

そうでなければ、体調を崩した男のことを看病してくれるはずがない。


また、彼女はよく、人間である男を気遣った。

自分は人間ではないので、

人間であるあなたの不都合なことも何もわからないが大丈夫だろうかと、

問うてくることが時折あったのだ。


男はそのたびに、問題は全くないと答えた。

やがて白雪も、そのことについては問うて来なくなった。


更に、白雪は氷の彫像を大切にしていた。


氷の中に閉じ込めた生の気配を感じ取るのが好きなのだという。


もちろん、中にいる生き物は、もはや生きてはいないだろう。


だが、生きていたそのままで保存されているため、

氷の中のそれらは、どれも未だ生きているかのような迫力があった。


白雪は、自分が彼らの命を奪ったのだと話した。


彼女がそれに重い責任を感じていることも、すぐに表情から読み取れた。


男は次第に、日にちを数えることをしなくなった。

やがて、今が何月の何日なのかもわからなくなっていった。

季節さえわからないが、構わなかった。



男の時間は、白い色であふれていた。


男が不意に気づいた時には、彼は白雪に想いを寄せていた。


白雪もまた、同じ想いを男に抱いているようだった。


互いにそれを確認しあうことはなかったが、十分だった。


 

そうして過ぎていく、ある日のこと。

白雪が不意に、男に問うた。


「あなたは、……病なのですか?」


男は、何かをしていた手を止めて、白雪に向き直った。


「何故、そんなことを訊く?」


「いえ、あなたがここで暮らし始めた頃より、気にはしていたのです。

私の杞憂であるならいいのですが、もし本当にそうであったなら、

……この場所は、あなたにとってあまりに過酷すぎます。

……あなたは、……ここにいるべきではありません」


「約束があるのに、そんなことを言うべきではないよ。

……だが、そうだな。

君に不安な想いをさせるのも、良いことではない」


男は白雪の目の前まで歩み寄ると、白雪に座るよう促した。


白雪が一人掛けの椅子に姿勢正しく座ると、

男は床に腰を下ろし、下から白雪を見上げた。


「私は、病などではないさ。

ただ、……命など、もはや不要なものと、思い込んでいただけのこと」


「命が、不要……?」


「この山に来る前、私は大切な人を、病で失った。

私は彼女を、救うことができなかった。

むしろ、無力だった。

ならば、私という存在は無意味なのではないか。

自分の大切な人を、この手で守ることができないならば、

私の命など、もはや不要なものと、そう考えていたのだ。

化け物が住むと噂され、

山に慣れたものでさえ登ることを避けるという、

この山に入ることを決めたのも、そういう考えがあってのこと」


「……」


「だが、……君に出会えて、君と過ごすうちに、考えが変わった。

人から忌避され、恐れられていることを知りながらも、

それでも優しい君のそばにいられたらどんなにいいかと、

そう思えるようになった」


「……」


「だから、どうか安心してくれ。

君が心配するようなことは、何もない」


男は、手を伸ばして、白雪の手を取った。


「私はこれからも、君と共に」


「……はい。わかりました。心配事は、ないのですね」


すると、白雪ははにかんだように笑い、


「嬉しゅうございます」


そう言ってくれた。



異変が起きたのは、そんな話をしてから、

また随分と時が経ってからのことだった。


「人間の気配がします。雪が、人間が来ると伝えてきているのです」


白雪が、不安げにそう言った。

男は、白雪の肩を抱いた。


「少し、出てくる。どうか心配しないでくれ」


白雪は、こくりと頷く。

男はしばらくぶりに、外の吹雪に触れた。


少し降りていったところで、確かに人間の声を聞き取ることができた。

よく聞いていると、どうやら血気盛んな者たちが、

この山にいる化け物を討伐しようともくろみ、

真っ直ぐあの小屋の所まで登ってきているようだった。


男は、危機感を覚えた。

このままでは、白雪が奴らに見つかってしまう。

そうなってしまえば、白雪は奴らを殺すほかなくなるだろう。

白雪の負担が、また増えてしまうことは避けたかった。


ならば、自分が彼らの言う、化け物になってやろう。

そうして代わりに討伐されるか、やつらが後悔するまで脅かしてやれば、

少なくとも白雪は無事に済む。


では、どちらが得策か。

時間はない。男は迷い、やがて決めた。


「……どこまでできるか」


容姿には自信があった。

長い間、髪なども切らずに放っておいたから、

恐らく普通の人間の目には、山男か何かに映るだろう。


後は、決定打が必要だ。

そこで男は、吹き荒れる吹雪を利用することにした。


奴らが登ってくる。

男は足元に積もる雪を掬い上げると、すべて頭にかぶった。

こうすることで、より雪山の山男らしく見えるだろう。


万全の準備と覚悟を備えて、男はじっと、そいつらを待った。



やがて白雪は、男の帰りを待つのにしびれを切らし、

自ら外へと出た。


もう随分と戻ってこない。

白雪は辺りを歩き回り、男を呼び続けた。


多少山を下りたところで、咄嗟に吹雪で身を隠した。

知らない人間の声がしたからだ。


『――さっきのお前、ほんと凄かったぜ!』


『まあな。あんな奴、楽勝だって』


『思っていたより簡単だったな、魔の山の雪の化け物! 

これで俺達、村の勇者だぜ!』


『村の平和を守りし勇者五人組! いいんじゃねぇの!』


白雪は悟った。

と同時に、その声のする方とは逆方向に、駆け出した。

吹雪に背を押させて、出来るだけ早く。


そうして、見つけた。

雪に鮮やかな赤い色を散らし、

それに埋もれるようになった、男の姿を。


「ああ、しっかり!」


白雪は迷わず駆け寄って、

手が血で汚れるのも構わずに、男を抱いた。

男の体は、力なく垂れている。


白雪は恐れを感じた。

このままでは、男が死んでしまうと思った。

けれど、小屋へ連れていくことはできない。

小屋には、これほどまでに深い傷を手当てできるほどの用意はなかった。


白雪に残された選択肢は、一つしかなかった。


「……お別れ、なのですね」


白雪は寂しげに、呟いた。

男は、固く目を閉じたまま、動かなかった。



男が魔の山のふもとで、血にまみれた状態で見つかってから、

およそ一年が経った。


男は治療を受け、凍傷も含めて無事に全快し、かつての仲間と再会した。

彼らはやはり、男が死んだものと思っていたらしく、

男に会うと泣いて喜び、

同時にどうやって生き延びたのかをしつこく問うてきた。

男は決して答えなかった。


(白雪。……何故、私を送り帰したりなんてしたんだ)


わかっている。

白雪は、男を死なせないために、最善を尽くしたのだ。


男は、山に登ってきた奴らに、討伐されることを選んでいた。

そうすれば奴らは、帰ってそのことを言いふらす。


化け物は自分たちが退治した。

だからもう、あの山に化け物なんていない、と。


そうなれば、きっと討伐しようなんて考える奴はいなくなる。

恐れの対象として威力は弱まるかもしれないが、

彼女があそこに住まう限りは、吹雪が人の通行を許さないだろう。


自分を犠牲にしてでも、今度こそ、

大切なひとを守りたかったのだが。


これで、よかったのだ。

これですべて、最初の通り。

元に戻るだけ。

何度も、そう思おうとした。


それでもやはり、男の心から白雪の面影が消えることはなかった。

会いたいという思いは消えず、むしろ日に日に強まるばかりだった。



「なあお前。あの雪山に、何を残してきたんだ?」


ある時突然、仲間内で最も親しいものが、

男にそう問いかけてきた。


男は目を瞬き、首をかしげる。


「突然何を言い出すんだ?」


「だってお前、気がつくと雪山を見ているだろう。

まるで忘れ物でもしてきたみたいな目でさ。

それ、そんなに大切なものなのか?」


「……」


山はあれから、日を経るごとに一層吹雪を強めていた。


山の魔物を、とある五人の若者が倒した、と村に広まっていたために、

少しは吹雪が弱まるかと思われていたが、

実際には弱まるどころか強まったために、

今では魔物ではなく神が住まうとされ、崇拝の対象とされている。


若者たちが神の使いを倒したために神がお怒りになり、

そのせいで吹雪がより一層強まったのだと信じられた。

その結果、五人の若者たちは、今は村にいない。


男は、友人の問いかけに答えるべきかどうか、一瞬迷った。

が、白雪のことを言わずに、

自分の気持ちだけを言うなら問題ないだろうと思い、頷いた。


「そうか。……それ、取りに行きたいって思っているのか?」


「できるなら、な。だが、……きっと無理だろう」


「どうしてだ?」


「もう雪の中に埋もれてしまっただろうし、

……もう一度戻っても、……見つかりはしないさ」


「何でそう言い切れるんだ?」


真顔で男を見るそいつは、まるで何かを知っているかのようだった。


「それをお前が大切にしていたなら、

それだって今頃、お前に見つけられるのを待っているかもしれないだろ。

見つからないなんて、あり得ないさ。

それは、お前の気持ちの問題だよ」


「私の、気持ち?」


「それをどれだけ大事に思っているか。

それが大事なんじゃないのか?」


それを聞いて、男は決意した。

やはり想いは、紛らわすことも隠すことも、

忘れることも、できはしないのだ、と。


「……明日、……また、山に登る。

……きっと、もう帰っては来ない」


男がそういうと、そいつはにんまりと笑った。


「忘れ物。しっかり探して来いよ。

一応だけど、いつでも戻ってきていいからな」


「ああ。今までありがとう」


「これからも親友だよ、俺たちは。

明日と言わず、今から行け。な? 

他の奴らには、上手く言っておくから」


「ああ、そうする」


「そうこなくちゃ。じゃあ、ふもとまで送るよ」


「いや、いい。私ひとりで十分だ」


「……そうか。じゃ、……元気で」


「ああ。お前こそ、元気で」


男は、背中を押してくれた親友に深く感謝していた。

同時に、もはや決意は揺るがなかった。


男は、彼と別れたその足で、まっすぐに山へ向かった。

心に浮かぶ、白い色を探しに。



山は、いつも通り吹雪いていたが、

この日の吹雪はなんだかいつもより勢いが柔らかいように思えた。

まるで戻ってきた男を歓迎しているかのようだった。


男は、記憶を頼りに、雪の中を歩き続けた。


そうこうしているうちに日が暮れ、闇が辺りを支配し、

その日は吹雪の中で横になった。


翌日の朝には体のほとんどが雪に埋まっていて、

凍傷を起こしているところもあったが、

やはり冷たさはあまり感じなかった。


男は再び歩き始めた。

そうしてずっと歩き続け、小屋を探した。


だが、どこにも見つからない。

吹雪の中に姿を隠してしまったのだろうか。

白雪は、自分と会いたくないのだろうか。

男の胸に、一抹の不安がよぎる。

それを振り切り、探し続けた。


どこまでも、どこまでも。白雪の姿を探して。



三度、夜が明けた。

そして、四度目の夜になろうとしていた。


男はずっと歩き通しだった。

最初の時と同じ、方角も道もわからず、さまよっていた。

足も鈍い痛みを訴えている。

このままでは歩けなくなってしまう。

白雪に会えないのとは別に、自分についての心配が頭をよぎった時、

視界がついに、探していたものを捉えた。


「……!!」


小屋の陰。

瞬間、男は足の痛みも雪の歩きにくさも忘れ、駆け出していた。



「……っ、……」


肩で息をしながら、小屋の扉の前に立つ。

気持ちを落ち着けてから、あの時と同じように、扉を叩いた。


 ドン、ドン。


返答はない。

男は声を張り上げた。


「私だ! 白雪、いないのか?」


窓の明かりはない。

もしかして本当に、彼女はいなくなってしまったのだろうか。

否、吹雪がずっと続いているということは、

彼女がまだこの山にいるということを示している。


男は願いをかけるつもりで、叫んだ。


「道に、また、迷ってしまったんだ! 

どうか、ここに泊まらせてはくれないだろうか!」


返答はない、と思った、その時。


 ギイィィ。


あの時と同じ音を立てて、扉がゆっくりと開く。

男は、吹雪に背を押されるようにしながら、小屋の中に足を踏み入れた。



そこには、白い着物の女がいた。

ただ、最初の時とは、少しだけ違っていた。


「ここに、泊まりたいとおっしゃるのですか……?」


彼女の白い顔の目元は、赤く腫れていた。


「残念ですが、……それはできません。

なぜなら、……あなたはこれを、見てしまった」


あの時と同じ言葉。

なのに、彼女の声音は、僅かに震えているようだった。


「私は……あなたを、殺さなくては」


「では、……こういうのはどうだ?」


男が先に言った。

白雪の前まで歩み寄り、眼前で立ち止まると、微笑みを浮かべる。


「私が、死を以て全て、本当に忘れ去るまで、

私が君のもとに居続ける。

私の命が、本当に尽きるその時まで、ずっと、共に」


白雪の手を、男が取る。

白雪の手は、やはり冷たかった。


「私のそばにいてくれないか。……白雪」


途端、白雪の目にみるみる涙があふれ出すと、

白雪は男の胸に飛び込んできて、そのまま声をあげて泣いた。


男は白雪を抱き寄せた。

白雪もまた、男にしがみついた。


「白雪。……随分、帰りが遅くなってしまったね。……ただいま」


男の言葉に、白雪も泣きながら頷いた。


「……おかえりなさい」



二人が、初めて互いの気持ちを確かめあったとき、

不思議なことが起こっていた。


山の雪が、数十年間で初めて一瞬の間だけ、

その勢いをぴたりと止め、かかる雲を晴らしたのである。


そうして見えた空は、

陽が白い山の向こうに隠れんとしているときの空を映したような

幻想的な色をしており、

二人のいる白の山は、その時だけは、

燃えるような赤の色を湛えていた。



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