2 翼ある神の教会
その礼拝堂には、翼ある神の像が祭られていた
翼ある神は受肉の救世主
その神を奉ずる教団は
この世界にとってまだ新興の
力も弱く信者も少ない、小さい教団だった
灰狐を拾った神父は、その教団の司祭補で
緑陰の国に、翼ある神の教義を広めるために
赴任したばかりだという
緑陰の国は大地の女神を戴く古き国
女神は寛容で、ほかの新しい神を退けはしないが
信徒を獲得するのは難しい
この年若い司祭補は名を「藍玉」と言った
漆黒の髪に煌く切れ長の目
夢見がちであると同時に、深遠な英知をたたえたまなざし
翼ある神は戦いを是認する神であったので
藍玉も、その手弱女のごとき容姿に
異形の大鎌を振るう武技を秘めていたが
そのうちに、ひとりふたりと
教会の司祭のもとを訪れる者も出てきて
いつしか灰狐も、緑陰の国の王都はずれの
教会に住み込みの手伝いとして
近隣の人々に認められるようになっていた
それでも、灰狐の心は
まだまだ世界を信じてはいなかった
ただ、この黒髪の司祭補だけは
信じられる気がした
「俺さ、神父さんを『師匠』って呼んでいい?」
「私自身、まだ未熟で修行中の身なのですよ」
「弟子をとるなどと、おこがましいです」
「でも、それで君が安心できるのなら」
「そのように呼んでもらってもいいですよ」
藍玉ははずかしそうにほほえんだ
教会を訪れるものを待つばかりでなく
藍玉は、翼ある神の福音を説くために
みずから外にもでかけていった
町の辻からはじめて、人々の家をおとずれ
やがて王宮に出向くようになった
灰狐自身は、藍玉について
王宮の外回廊までは行くことがあっても
内陣にはけっして足を踏み入れなかった
権力の寄るところは、なお貪汚であると知るゆえに
それでも
物を購うのにきちんと代金を払い
白日の下を歩き
人から「教会の小僧さん」とか
「灰狐さん」とか呼ばれることの
不思議な心地よさは
荒々しい小さい魂を少しずつ癒していった
灰狐は居場所を手にいれた
それは、生まれて初めての
平穏な日々だった
そのようにして
野生のけものから人の子へ
灰狐は成長していった
教会の仕事は半日でことたりた
藍玉が外出がちなので
留守番をしながら、空いた時間を使って
世の中を見ることを覚えた
世界は、驚嘆に満ちていた
知らないことばかりだった
灰狐はいつのまにか
「知識」という魔物にとらわれていった
藍玉が布教に疲れて帰宅すると
灰狐は、師に食事を出しながら
今日、町で耳目にふれた事がらについての疑問を
次々とぶつけるようになった
質問は、ごく当たり前のことから
世界の根源の成り立ちにいたるまで
非常に多岐にわたった
藍玉は弟子の成長をよろこび
灰狐に文字を教えることにした
「これをあげよう」
「私が学生の頃使っていたもので悪いけれど」
藍玉が石板と石筆を手渡すと
灰狐は目をまるくした
そして、その目から涙がこぼれ落ちた
「おやおや、泣くほどのことではないのに」
藍玉は微笑んで灰狐の頭を撫でた
灰狐の来た頃には、教会にはおもに
近所の老婆や農家の夫婦
雑貨屋の店主などが出入りして
子どもも幾人か来ていた
藍玉は子ども好きで、灰狐も交えてよく遊んだ
「教会の神父さんは、今日も隠れ鬼か」
と、訪れた人が笑うような暮らしだった
それが、このごろでは
王宮出入りの大商人や役人が訪れ
夜に紛れて、軍官が訪問することさえあった
灰狐はそういう人々とは
口を利かないようにしていた
ある日
藍玉が礼拝堂にこもって祈ると言った
昨夜遅く、文遣いが遠方からの手紙を届けてきた
その手紙のせいだろうと、灰狐は思った
藍玉の眉宇はくもって
灰狐はただ案じるばかりだった