言えなかった言葉、呼べなかった名前
蒲公英さん主催「ひとまく企画」参加作品です。
「ヤバい。前の道路が、川みたいになっちゃってるよ!」
十年ぶりに中学校の同級生が集まった同窓会の夜。
たぶん幹事の男が雨男だからだろう。天気予報で聞いていた、超大型台風の予想進路は見事に方向を変え、今にもこの小さな町を覆ってしまいそうな勢いだった。
「しょうがないべ。泊まってけば? 全員飲んでるから車出せないし」
窓の外を眺めながら騒いでいる理沙に、今夜の同窓会の幹事、守が缶ビールを片手に言う。
懐かしい中学校に同級生たちが集まった後、仲が良かったクラスの仲間と居酒屋で二次会をした。そしてそのあと守に誘われて、僕たちは今、守の家の二階にいる。
「酒だったら下に山ほどあるし」
一階の、親父さんが経営している酒屋で働く守は、二年前にできちゃった婚をして、この家で奥さんと子どもと両親と暮らしていた。
だけど今夜、家族は旅行に出かけていて、守一人だというのだ。だからうちに飲みに来いと、雨の中、かなり強引に誘われた。
「しょうがない。守んちに泊まっていくか。史佳は大丈夫?」
窓辺に立つ理沙が振り返り、部屋の隅に遠慮がちに座っている史佳に言った。僕はそんな史佳の姿をちらりと見る。
「うん。だって私、理沙の家に泊まる予定だったし。この雨じゃ、外に出られないものね」
久しぶりに聞く史佳の声は、あの頃と変わっていない。穏やかで落ち着いていて、僕の心の中にしっくりと響く。
「じゃあ決定ー。今夜は飲も飲もー」
「大丈夫か? 守。お前さっきからかなり飲んでるけど?」
テーブルの上に並んだ缶ビールを手に取りながら、僕は隣に座っている守を見る。
酒屋の息子のくせに、酒がまるで弱いのだ。この男は。
「ああ、ヤケ酒じゃないの、こいつ。奥さんと娘さん、実家に帰っちゃってるんだよねー」
僕たちの前に座り込んだ理沙が、そう言って笑う。
「え、そうなのか? 家族で旅行に行ったんじゃ……」
「旅行に行ったのはおじさんとおばさんだけ。奥さんたちは守に愛想つかして、この家、出て行っちゃったのよ」
「うるせぇ、黙れ、理沙」
ふてくされた顔をする守の前で、理沙がおかしそうに笑っている。
この二人は今でも、この狭い町で暮らしている。
理沙は同じ町に住む、かなり年上の男と付き合っていたけど、つい最近別れたらしいと、さっき同窓会の席で守から聞いた。
でもそんな噂話は、大学からずっと東京で一人暮らしをしている僕にとって、別世界の人たちの話のように思えた。
僕のこの町の記憶は、制服を着た守と理沙が付き合っていた頃で、止まっているから。
「清水、東京にはいつ帰るの?」
目の前にある缶チューハイの缶を開けながら、理沙が僕に言う。
「あ、うん。明日の午前中の新幹線で」
「忙しいんだねぇ。来るのも遅かったし。同窓会ほとんど終わっちゃってたじゃん?」
「ちょっと仕事が長引いちゃって」
「あー、やだやだ。東京の人間はすぐ忙しぶる。ただ単に遅刻しただけだろ? 昔っからトロかったもんなぁ、お前」
隣に座る守がそう言って、へらへらと笑う。
「でもこの前、清水の描いたイラストが雑誌に載ったんでしょ? すごいね!」
理沙がテーブルから身を乗り出すようにして、僕に言ってきた。
「いや、あれはうちの会社で作った広告が載っただけで」
「はー、東京のイラストレーターさんは違うねぇ」
「そんなんじゃないって」
「ああ、気にしないで。守は清水に嫉妬してるんだよ。自分はこんな田舎町で暮らしながら、奥さんと娘には逃げられて……」
「だから、それを言うなっての」
守と理沙が何やら言い合っている。そんな光景は中学時代から変わらない。きっと変わってしまったのは、この僕のほうだ。
今日の同窓会だって、本当は来るつもりはなかった。
守が言う通り、昔からスローペースだった僕は、東京での慌ただしい生活に、最初はついて行けなかった。
でも七年も暮らしていれば、そんな生活にも自然と慣れる。慣れてしまえば、都会はとても刺激的で、便利な街だ。仕事の楽しさや難しさも覚えた。
それに比べて、僕の生まれたこの町はどうだろう。何年経っても代わり映えのしない、つまらない所。
そして僕は、そんな町でまだ暮らしている守たちのことを、心のどこかで見下していたのだと思う。
だからここへ来るつもりはなかった。理沙から僕に、電話があるまでは――。
僕は二人の声を聞きながら、理沙の隣に座っている史佳のことをちらりと見る。
「飲んでる? 津村さん」
「うん。清水くんも飲んでる?」
史佳が僕を見て静かに微笑む。
変わってしまったはずの僕なのに、なぜか十年経っても、史佳のことは苗字でしか呼べなかった。
窓の外を雨が叩く。狭い部屋の中で、僕はその音を聞く。
そして僕の記憶が自然と十年前に遡る。
古い中学校の校舎。誰もいない三年生の教室。窓ガラスに流れる雨の滴。
そしてそこにたった一人で佇む、史佳の姿。
美術部だった僕は、いつも課題を仕上げるが遅くて、美術室を出るのは誰よりも一番遅かった。
一人で美術室のドアを閉め、誰もいない廊下を少し歩くと、僕たちの教室が見えてくる。
その前を通り過ぎる時、僕はいつも見かけていた。
薄暗くなった教室で、ぼんやり窓の外を見つめている史佳の姿を。
津村史佳はクラスでも目立たない、おとなしい子だった。
だからと言って、いじめられているとか、友達がいないとかいうわけではなく、不思議なことに性格の全く違う理沙と仲がよかった。
教室でいつも史佳は、理沙の隣で笑っていた。僕はそんな史佳のことを、遠くから見ているのが好きだった。
やがて守が理沙と付き合い出して、守と仲が良かった僕は、時々史佳と言葉を交わすようになっていた。
その日は今夜と同じような、ひどい雨が降っていた。
美術室からの帰り、僕はいつものように教室の中をのぞく。
雨の音の響く中、濡れた窓ガラスの向こうを、史佳はただじっと眺めていた。
僕は立ち止りその姿を見つめる。彼女の横顔は儚くて、今にも消えてしまいそうに思えた。そして僕の足は自然と、教室の中へ入って行ったのだ。
「えっと、忘れ物を取りに……」
聞かれてもいないのにそんな言い訳をしながら、僕は自分の机へ急ぎ、その中をのぞきこむ。
びくりと肩を震わせて振り向いた史佳は、入ってきたのが僕だと気づくと、安心したように微笑んでくれた。
「清水くん」
そんな僕に、史佳の声がかかる。
「いつもこの時間に、一人で帰るんだね」
「え?」
驚いて顔を上げると、恥ずかしそうに僕を見ている史佳と目が合った。
「この窓から……いつも見えたから」
ああ。史佳の眺めている窓からは校門がよく見える。そこから僕の姿を見られていたのか。
「津村……さんは」
僕は理沙や守たちのように、彼女のことを名前で呼べないでいた。
「いつもこの時間、ここにいるよね?」
そう言ってから僕は、そっと窓辺に歩み寄る。忘れ物でもなんでもない、机の中にたまたま入っていた教科書を握りしめながら。
「……うん」
「どうして帰らないの?」
なんとなくそれは、聞いてはいけないような気もした。数日前に僕は理沙から、教えてもらっていたから。史佳の両親が、離婚するとかしないとかで、もめてるってことを。
少しの間黙り込んだあと、史佳は消えてしまいそうなほど、か細い声でつぶやいた。
「……帰れないの」
「え?」
史佳が僕の前で小さく微笑む。何とも言えない沈黙が流れて、僕は彼女を傷つけてしまったのではないかと不安になった。
「……ごめん」
咄嗟に謝った僕に、史佳が首を振る。
きっと彼女は、冷え切った家に帰りたくなかったのだろう。だけどそれを知っても、十五歳の僕にできることなど何も思いつかなかった。
窓の外はどしゃ降りの雨。傘をさした生徒が何人か、逃げるように校門を出て行く。
「津村さん……」
僕は隣に立つ史佳を見た。彼女は窓に手をついて、じっと窓の外を流れる雨を見つめている。
史佳の手は白くて細くて、そしてとても綺麗だった。人の手を綺麗だなんて感じたことなどなかったけど、なぜかその時そう思った。
ひと気のない教室。耳に響く雨音。涙のように窓を伝う滴。それをじっと見つめる彼女の瞳。
あの日のことは、今でもまだはっきりと覚えている。
「……じゃあ、また明日」
史佳の横顔にそう言った。ゆっくりと振り向いた彼女は、僕を見てまた小さく微笑んだ。
「うん。また明日」
史佳を一人残して教室を出る。
あの日、どうして僕は「一緒に帰ろう」と言えなかったのだろう。
どうしてあの震える手を、握りしめてあげられなかったのだろう。
史佳は「帰らない」じゃなく、「帰れない」と言ったのだ。
一人で迷い込み、あの場所から出られなくなっていた彼女を、もしかしたら僕が、救ってあげられたかもしれないのに。
そして次の日突然、津村史佳は僕のクラスからいなくなった。中学校の卒業式の、少し前のことだった。
「お母さんが暴力受けてたんだって。お父さんから」
僕は史佳の家の話を理沙から聞いた。DV夫から逃げるため、史佳の母親は史佳を連れて、突然この町から姿を消したのだ。
「史佳、きっと悩んでいたんだろうなぁ。あの子何も言わないから……もっとちゃんと話を聞いてあげればよかった」
いつも明るい理沙が涙ぐみながらそう言った。そんな理沙の隣で守が言う。
「清水。お前も何で、さっさと言わなかったんだよ」
「え?」
「告白。史佳に」
「な、なに言って……」
「バレバレなんだよ。お前がいつも史佳を見てたこと。なのにさっさと告白しねぇから……ほんと、トロいやつ」
守がそう言ってため息をついた。
それ以来、僕が史佳に会ったことはない。
数年後、史佳から理沙のところに連絡が来て、高校を卒業してからは、何度か二人で会っていたそうだ。
「あの子、今は元気にやってるよ」
中学を卒業して五年が経った大学生の頃、理沙が僕に電話で言った。だからと言って、何かが変わるわけでもない。いつまでも過去の思い出に浸っているほど、僕は暇ではなかった。
「いいの? 清水」
電話の向こうの理沙の声に、僕は答えた。
「何が?」
それがその時の僕の答えだったのだ。
あれからまた五年。別に史佳のことを想いつづけていたわけじゃない。
他の女の子を好きになったことだってあるし、付き合ったこともある。
だけど雨の降り続く、今日みたいな日に、ふと考えたりする。
あの日あの場所から、僕が彼女を連れ出していたら、何かが変わっていたのだろうかと。
「まったく世話がやけるんだから」
絡むだけ絡んで、酔いつぶれて眠ってしまった守に、タオルケットをかけてやる。
史佳はテーブルの向こうでくすくすと笑いながら、やっぱり同じように寝込んでしまった理沙に布団をかけている。
雨はまだ降り続いていた。風もかなり強くなり、窓ガラスをガタガタと鳴らす。
「外、またひどくなったね」
そうつぶやいた史佳が窓辺に立つ。
「台風、そろそろこの辺りを通過してるんじゃない?」
僕もそんな史佳の隣に立ち、真っ暗な外を眺めた。
強く叩きつけるような雨が、ガラス窓に当たって流れる。僕は史佳と二人でそれを見つめる。遠い記憶を、少しずつ呼び起こしながら。
「こんな、雨の降る放課後……」
突然、史佳の声が耳に響いた。
「清水くんと教室でしゃべったの、覚えてる?」
僕は驚いて隣を見た。史佳は窓の外をじっと見つめている。
「うん。覚えてる」
史佳も同じことを思い出していた。そう思ったら、胸がきゅっと痛んだ。そして僕は少しだけ、あの日の気持ちに戻っていた。
「あの日……」
流れる雨の滴を見ながら、僕はつぶやく。
「本当は一緒に帰りたかった」
「え?」
史佳がゆっくりと僕を見る。
「津村さんと一緒に、帰りたかったんだ」
どこからか、守の声が聞こえてきそうだ。「ほんと、お前はトロいんだから」
そうだよな。今さらこんなことを伝えても、もう遅いのに。
「津村さん。今、幸せ?」
何も言わずに僕の顔を見つめていた史佳が、やがて静かに微笑む。十五歳だったあの頃と同じように。
「うん。幸せだよ」
そうつぶやいた史佳は、ガラス窓に手をついて、そっと僕から視線をはずす。
僕はそんな史佳の、白くて綺麗な手を黙って見つめる。
もう決して僕が握ることのない、薬指にエンゲージリングが光る、彼女の手を。
「来月結婚するんだよ、史佳」
理沙からそれを聞いたのは、数日前だ。
「史佳の彼、すごくいい人だよ。つらい思いをした分、あの子には幸せになって欲しいんだ」
理沙の声に、僕は何も答えることができなかった。
「『おめでとう』って言ってあげなよ、清水。きっと史佳、喜ぶよ?」
そうなんだろうか。だけど彼女が喜んでくれるのなら、僕はそれを口に出そう。
「津村さん。結婚、おめでとう」
窓ガラスに手をついたまま、史佳がもう一度僕を見る。その目がかすかに潤んでいるように見えたのは、気のせいか。
「うん。ありがとう、清水くん」
そう言って微笑んだ史佳の顔がぼやけてきて、僕はさりげなく視線をそらす。
「清水くんも……幸せになってね」
雨音にかき消されてしまいそうなほど小さな声で、史佳が言った。
「ねぇ、今度、清水くんの絵が載ってる雑誌見せて?」
「そんな、見せるほどのものじゃないよ」
「でも私、清水くんの描いた絵、見たことないもの」
雨の降り続く狭い部屋の中で、僕たちは朝が来るまで、他愛のない話をした。
今ならこんな簡単に話せることが、どうしてあの頃は難しかったのだろう。
それはきっと、僕が変わってしまったから。
来月には、もう『津村さん』ではなくなってしまう彼女。今度会った時、僕は彼女を名前で呼ぶことができるだろうか。
――史佳。一緒に帰ろう。
記憶の中の僕が、彼女の名前を呼ぶ。
「雨……止んだみたい」
史佳の声に窓の外を見る。降り続いていた雨は止んでいた。不通になっていた電車も、今日は朝から動くだろう。
僕はこの町を出て、またあの街で暮らす。ほろ苦い思い出を、もう一度胸の奥に閉じ込めて。
窓から差し込むうっすらとした日差しが、幸せそうに微笑む彼女の横顔を、柔らかく照らした。