リップ
天は二物を与えず。
この言葉が仮に本当だったにしろ、何事にも例外はある。
その日はきっと神様の機嫌が良く、一つの人間になる前の魂に、二物どころか三物、四物と才能を持たせてあげたんだろう。
すっかり両手が一杯になったそいつを見て満足そうに笑い、「内緒だよ」と唇に人差し指を当てて、ぽんと背中を押してやった。
こうして地上へと魂は送られ、一人のホモサピエンスが誕生する訳だけど。
やれやれと人心地ついた神様は、その直ぐ隣に小さな魂がいたことに気がついた。
ところが困った事に、めぼしい才能は先程の魂に粗方持たせ、既に地上へと送ってしまっている。
まいったなあと頭を掻いた神様は、ポケットに何かの切れ端が入ってるのを見つけた。
これはいい、とそこにペンを走らせ、小さな魂に共犯者めいた笑顔を向けたあと「これが君の才能だよ。大事に持って、みんなには内緒だからね」とその紙切れを渡した。
同じように唇に人差し指をあててくれ、もしかしたらその時に、「君は特別だよ」くらいのリップサービスはしてくれたかもしれない。
「聞いてるの、涼太郎さん」
「え?ああ、はいはい、聞いてます」
…その小さな魂が、多分僕だ。
十六年生きてきた中で得た評価は、容姿平凡、成績普通、運動神経はといえば、足が少しばかり速いくらいで、飛びぬけて良いと言うほどのものは一つもない。
市川涼太郎という名前が多少珍しがられるが、これは才能ではなく今は亡き祖父のセンスだ。
「それでね、麻衣子ったら、私に向かってこういうの……」
暖かい日差しの降る公園で、みーこさんの愚痴とも世間話ともつかない話を聞きながら、僕は空を見上げた。
(ああ、良い天気だなあ)
天下泰平、世は並べて事もなし。
毎日毎日、そう多くない変化を楽しみながら、六十年も七十年も生きていくのが人間だ。
今の僕の状態を表すような言葉には事欠かない。
「ちょっと、聞いてる?涼太郎さんってば」
気持ちの良い陽気に当てられウトウトしかけていた僕は、みーこさんの言葉で顔を上げた。
「ええ、もちろん、聞いて……」
目に入った光景に思わず、言葉が出なくなる。
歩道の上を小さなぶち猫が、きょろきょろとしながら歩いてくる。
子猫の遅い足取りで、ゆっくりと歩道を横断しようとしていた。
…問題はその子猫ではない。
気が行ったのは、向こうから歩道を走ってくる一台の自転車だった。
僕と同じ高校の制服を着て、耳にイヤホンをはめ、凄いスピードで走ってくる。
道の先に子猫がいるのに気付いた様子はない。
……微妙なタイミングだった。
このまま行けば、子猫の目の前を猛スピードで自転車が走り抜けるだけだ。
子猫は驚きはするだろうけど、怪我をする事はないだろう。
しかし…。
首を振っていた子猫と目が合った。
子猫は僕らを見つけると「ミャ〜」と嬉しそうに一鳴きして、こちらに向かって走り出した。
「危ない!」
僕は、駆け出した。
クラスではまあ早い方と言われる足に鞭を打つ。
だけど、スローモーションを見ているように、遅々として距離が縮まらない気がする。
(間に合うか?!)
気付くと、子猫はもう目の前の距離まで来ていた。
突然走ってきた僕に学生が驚いたように自転車のブレーキをかけた。
キキイィィィィィィィという耳障りな摩擦音をたてて、それでもスピードを落としきれずにこちらへ向かってくる。
(このままじゃあ…)
間に合わない…!
僕は思い切って体を投げ出した。
(届けえっっ!)
ヘッドスライディングの要領で両手を伸ばし子猫に手を伸ばす。
びっくりした様な顔が徐々にアップになっていった。
「だあああああああああああああ」
なんとかその小さな体を掴むと、そのまま胸に抱くようにして僕は自分の体を守るのを放棄した。
「…っつつ」
よけそこなった自転車の後輪が僕の右足を乗り上げていく。
「き、気をつけろっ」
そんな捨て台詞を背中に受けつつ、僕は胸に抱いた子猫の状態を確かめる。
「あいてて、と、お前は大丈夫か?」
見ると、手足を突っ張って体も硬直させていた。
全身の毛が総毛立ち、尻尾もピンと伸びている。
まん丸と大きな目が吃驚したようにこちらを見ていた。
「ぷっ」
思わずふきだしてから、優しく体を撫でてやる。
徐々に緊張を解いていく子猫を見ていると、後ろからみーこさんに声を掛けられた。
「まったく、なんてヤツなのかしらっ」
かなり憤慨しているらしく、プリプリ怒りながらこちらに近づいてくる。
「それにしても良くやったわ涼太郎さん。怪我はない?」
背中をたしたし叩いてくるみーこさんに、右足を振って答えた。
「ちょっと、右足を、けど…」
「なんですって!…どれ、見せてみなさい」
「い、いや、大丈夫ですよ」
そんな遣り取りをしていると、ふと、震えていた子猫がこちらを見ていることに気付いた。
興味深そうに僕らを見る目に答えるように、僕は笑顔でその頭を撫でてあげる。
「んー?どうした?」
ジッとこちらを見つめていた顔が、パーッと笑顔になってこう言った。
「ありがとうおにいちゃん」
妙に舌っ足らずな声が可愛い。
「どういたしまして」
お礼に答えて、引き続き頭を撫でてやる。
気持ちよさそうに目を瞑り、耳をぴくぴくさせた。
「あら、いいのよお礼なんて」
何もしていないみーこさんがそう言い、子猫に近づいてその顔を舐めてやる。
子猫のくすぐったそうな顔を見ながら
「でも本当に良くやったわ、涼太郎さん」
そう言って、僕の体に手を置いてくれた。
綺麗な白い毛並みの中に隠れた肉球が、ぷにぷにと大変気持ちよかった。
地上に落ちていく途中、小さな魂は神様の言いつけを守り、ばたばたと飛んでいこうとする紙切れを決して離さなかった。
小さな魂にはそこに何と書かれているかは分からなかったが、それが大事なものだと信じて力いっぱい紙切れを抱きしめた。
そこにはこう書かれていた。
「特別な君へ、”猫と話すことができる才能”を」
気が向いた時にこの子達の別の話をちびちび書いていこうと思います。その時はまた読んでやってください。