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月夜の黒い羊  作者: 小日向冬子
9/21

その9

 火にかけた雪平鍋に油をひいて、一口大に切った鶏肉を入れる。ジュッという音は、鍋が充分に熱くなっている証拠だ。しっかり焼き色がついたところで、濡れ布巾の上でいったん鍋の底を冷ます。そうすることで肉が鍋に焦げつかなくなるというのは、料理の本から得た知識だ。

 母には料理を教わったことがない。朝から晩まで男たちと一緒に畑に出ているのに帰ってくればすぐ飯だと言われて、ちゃんとしたものを作る余裕なんてありゃしないというのが母の言い分だったが、もしたっぷり時間があったとしても、大して変わりはなかったに違いない。母が作るものには、センスも愛情も、まったく感じられなかったからだ。

「こんなもんで、いいんだろ?」

 濃いだけでうまみのない味噌汁や半生の煮物からは、そんな声が聞こえる気がした。口に入れるたび、お情けでエサを投げ与えられた野良犬みたいにみじめな気持になっていく。

「うちのハンバーグ、パイナップルが乗っててね、すっごいおいしいの」「あー、知ってる、それハワイアンっていうんだよ。うちは、だいたい目玉焼きかな。ね、ゆっこの家のは、どんなの?」「えっとね、チキンハンバーグ、イシイの。でも、何も乗せないよ?」当たり前のようにそう答えたときの、みんなの困惑した顔。小学生のわたしは、ハンバーグが家庭で作れるものだということすら知らなかった。

 唐揚げもグラタンもただの憧れでしかなく、外食もしたことがなくて、初めて豊おじさんにファミリーレストランに連れて行ってもらったときには、何をどうやって注文したらいいのか、出てきたものをどうやって食べたらいいのかと、最初から最後まで緊張しっぱなしで、味なんてなにひとつわからないままだった。

 一人暮らしを始めるとき、家の本棚でほこりをかぶっていた分厚い料理の本を、何の気なしに引っ越し荷物に入れた。風呂もない四畳半の部屋についた小さな台所で、色あせた写真の下の説明書きをひとつひとつ確かめながら玉ねぎを刻み、特売のひき肉をこねた。本の通りに丁寧に味をつけ、小判形に整えて焼く。そうしてあっさりと「手作りハンバーグ」ができあがったとき、長いこと自分を打ちのめしてきた料理という分厚い壁が、実はこんなにたやすく乗り越えられるものだったということを、わたしは初めて知った。

 土間の台所の年季の入ったガス釜で、ご飯が炊きあがった。若い男がどのくらい食べるのかは、よくわからない。悩んだあげくに、高校生の時に使っていた弁当箱のひとつにご飯を、もうひとつにおかずを入れることにした。筑前煮ができあがるまでに、厚焼き卵とサラダも作ろう。黄色い卵、緑のキュウリ、赤いプチトマト。お肉、野菜と彩りもバランスもいい具合に収まったお弁当をながめていると、何とも言えない満足感がこみ上げると同時に、母を見下すような気持ちがふっと湧いてきて、そんな自分を、かすかに恥じる。ふと、昼間の北川君の、はにかんだような顔を思い出す。喜んでくれるだろうか。おいしいと言ってくれるだろうか。想像するだけで、胸の鼓動が速くなる。

 六時半に、柳町公園で。

 ゆっこちゃんちに取りに行くよと北川君は言ったが、近所の人にそんなところを見られたら、何を言われるかわからなかった。それで、家から少し離れたところにある小さな公園で待ち合わせをすることにしたのだ。二つのお弁当を前かごに入れて自転車のペダルをこぐ。足が自分のものでないみたいに浮わついて、たった三分ほどの道のりがひどく遠く感じられた。

 公園の入り口に停まっていたのは、白い小型の乗用車だった。窓からぼんやりとたなびく紫煙。自転車のブレーキの音に、北川君が振り返って手を上げる。薄暗闇に白い歯が浮き上がって見える。

「はい、これ」

 運転席の窓から黄色いバンダナに包んだ弁当箱を渡す。

「うわっ、嬉しいなあ。まだあったかい」

 包みを大事そうに抱えるしなやかな腕。

「そ、それじゃあ、また明日」

 あわてて自転車にまたがろうとしてペダルを踏み外すと同時に、北川君が短く「あ」と言った。

「え?」

「あの、ね」

「はい?」

 すでに陽が落ちてあたりはすっかり暗くなっていたけれど、彼がまっすぐこちらを見ているのはわかった。その視線に、息が詰まりそうになる。

「病院から帰ってきたらね、もう一度会わない?」

「え?」

「だめ、かな」

 遠慮がちなその声に、胸の奥が熱くなっていく。

「べ、別に、いいけど……」

 弾む心を無理やりに押さえ込み、かすれる声でやっと答えると、北川君はわざとらしくウインクしながら言った。

「毎日これだけがんばってるんだもの、少しくらい気晴らししたって、ばちは当たらないと思うよ」


 力いっぱい自転車をこぎ、大急ぎで母にお弁当を渡すとすぐさま引き返した。病院まで車で送るよと言われたが、どうしてもどこかで誰かに見られるのが怖くて、それは断固として拒否した。からかわれているんじゃないだろうか。わたしがあわてて戻ってくる様子を、どこかでみんなで笑って見ているんじゃないんだろうか。今まであった数々の仕打ちが頭をよぎる。なのにわたしはどうしても、自転車をこぐ足を止めることができなかった。

 家に自転車を置いて公園に戻ると車内のライトが一瞬ついて、タバコをくわえた北川君が親指でくいっと助手席を示した。わたしは光に集まる蛾みたいに、吸い寄せられていく。

「お疲れさま」

 北川君はそう言ってドアを開けてくれた。わたしはためらいがちにうなずき、あたりを見回して誰もいないのを確かめると、緊張しながらシートにすべりこんだ。ドアがバタンと予想外に大きな音を立て、思わずびくりと北川君の顔を見た。

「こら。この車、まだローン残ってるんだから、壊しちゃだめだよ」

 軽口を叩きながら彼が笑う。つられてわたしも、くすりと笑う。けれどすぐに沈黙が下りてきて、わたしはほんの少し身を固くする。

「……なんかさ、いつもと違うところで会うと、不思議な感じがするね」

「……うん」

「病院だと、二人でいても二人じゃないっていうか」

「……うん」

「ゆっこちゃん、さっきから『うん』しか言ってない」

 わたしたちは顔を見合わせて、思わず笑った。狭くて暗い車の中に、二人の声だけが軽やかに響く。

「あ、お弁当、待ってる間に食べちゃった。すっごいおいしかった」

「ほんとに?」

「うん、ほんとに。なんかね、久しぶりに体がすごく落ち着くもの食べた」

「え……いつも、どんなもの食べてるの?」

「ん? んーとね、お・し・え・なーい」

 冗談めかした口ぶりに、わたしはどう切り返していいかわからなくて、下を向いて黙りこんでしまった。彼は少し慌てたようにことばを重ねる。

「うそうそ。最近、ろくなもの食べてなくてさ。せいぜいコンビニのおにぎりとか……何も食べないで呑んで終わっちゃったりとか、ね」

 そう言って北川君は、あっけらかんとした笑顔を作って見せた。スーパーで見かけた、白いラベルの瓶が目に浮かぶ。

「それよりさ、ね、どこに行きたい?」

 骨ばった長い指でカーステレオを操作しながら、北川君が尋ねる。

「どこって言われても……」

 喫茶店? 映画? カラオケ? そもそもこんなとき、普通はどうするものなのだろう。今まで男の人と出かけたことなどほとんどなかったし、二人きりで車に乗るのも初めてなのだ。けれど、そんな風には思われたくなくて、わたしは精一杯ことばを選んだ。

「母から電話があるといけないから……あまり長くは無理かも」

「そうなんだ」

 北川君の落胆した顔が、わたしの心をひそかにくすぐる。

「あ、でも、ホントにたまにしかないから、大丈夫だとは思うんだけど」

「そう。じゃあ、適当に走って、どこかでお茶しようか」

 わたしはほっとして、黙ってこくりとうなずいた。

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