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月夜の黒い羊  作者: 小日向冬子
8/21

その8

 週末の午後はにぎやかだ。いつもはひっそりとした病院の空気が、たくさんのざわめきと笑顔に満ちていく。小さな子どもの足音。繁雑に交わされるあいさつのことば。健康な人々の発するきらめくようなエネルギー。そんな光景を苦々しく感じてしまう自分は、実はここに入院している人々よりも、もっと病んでいるのかもしれないと、ひとごとのように思う。

 父は下痢と高熱がようやくおさまると嘘のように順調に回復し、かなりの時間起き上がっていられるようになっていた。その頃合いを見計らってか、姉は美咲と大悟、そして義兄も連れて見舞いに訪れ、病室で和やかなひとときを過ごしていた。

「じゃあ父さん、また来るね」

「じーじ、先生の言うこと聞いて、ちゃんとお利口にしてるんだよ」

 大悟の妙にませた口調に皆が思わず頬をゆるめる中で、ただひとり美咲だけが硬い表情のまま、上手に愛嬌をふりまく弟をじっと見つめていた。きつく結んだ口元と、ピンクのTシャツのポップな模様とが、ひどく不釣り合いに思える。

 姉たちと一緒に病室を出て、玄関まで見送ろうとついていくと、

「ちょっとひと休みしていこうか」

 待合室の自動販売機の前で、姉が言った。

「わーい、ジュースジュース、僕、ピリピリするのがいい!」

 手をたたきながら大悟が体を左右に振る。

「大ちゃんは、まだピリピリはダメだよ」

「えーっ」

 大悟がふくれっつらを見せると、義兄が助け船を出した。

「じゃあ、パパのコーラを少ーしあげようか」

「ほんと? やったー!」

 そう言って嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねていた大悟は、近くを歩いていた男にそのまま思い切りぶつかってしまった。

「わっ」

 床に転がって一瞬きょとんとした顔をした大悟は、次の瞬間、顔を歪ませて大声で泣き出した。大慌てで姉が駆け寄る。

「すみません! ほら、だから、ちゃんと周り見ないと危ないって、いつも言ってるでしょ」

「ごめんね。ボク、大丈夫?」

 かすかに首を傾けて心配そうに大悟をのぞきこんでいるのは、北川君だった。が、大悟に気を取られてか、わたしには気づかない。

「いえいえ、もう、うちの子が悪いんですから、気にしないでください。お怪我ありませんでしたか?」

「ええ、僕は何も……」

「本当にすみません。ほら、大悟も、お兄ちゃんにごめんなさい、は」

 姉に抱きかかえられ、まだ涙で顔をぐしゃぐしゃにしたまま、大悟が弱々しい声で言った。

「ご、ごめんなさい……」

 北川君は、いつものふわふわの笑顔を大悟に向ける。それを目にするだけで、わたしの胸はバカみたいに痛む。そう、この人は、誰にでも、小さい子どもにさえも、こうやって笑いかけるのだ。

「いいよ。お兄ちゃんこそ、ごめんな」

 大悟がべそをかきながら、かすかにうなずく。北川君はそれを見てほっとしたようにもう一度微笑み、それからわたしがいるのを見つけて、あれっという顔をした。

「井原さん。じゃあ、こちらはお父さんのお見舞いの方?」

 そう言うと小首を傾げて、改めてわたしと姉の顔を見比べた。

「あれ、ひょっとして……?」

 

 姉と互いに名乗り合い、もう一度謝り合って彼がその場から去ったあと、姉は声を落としてわたしに尋ねた。

「ねえ、あの人、北川って、ひょっとして、深町の北川さん?」

 意味ありげな姉の言い方に、わたしは思わず身構えた。

「深町かどうかは知らないけど。うちの、もっと先だとは言ってた」

 姉は何か考え込むように、家事で荒れた指を口元にあてた。

「じゃあ、やっぱりそうかもね。そうか、息子さん、戻ってきてるんだ」

「お姉ちゃん、知ってるの?」

 姉が少し口ごもり、子どもたちをちらっと見てジュースに夢中なのを確かめると、さらに声をひそめた。

「あんたはまだ小学生だったから知らないかもしれないけど、あそこのお父さんね、昔けっこう噂になってたのよ」

 噂ということばの持つ暗い響きに、わたしはごくりと唾を飲み込んだ。

「確か東京の、なんだっけな、ほら、けっこういい会社で働いてたのに、奥さんが男作って出ていっちゃったんだって。それでおかしくなって、仕事もやめちゃって、子ども連れてこっちに戻ってきたんじゃなかったかな」

 東京から逃げ帰ってきた男。それはまるで示し合わせた合図のように、わたしの心をざらつかせた。

「じゃあ、その子どもが、北川君ってこと?」

「いや、まあ、それはわかんないじゃない、単なる噂だかもしれないし」

 そう言いながらも姉の口ぶりは、ほとんど決めつけているように聞こえた。

 ――うち、親いないんだ。いろいろあってさ、ずっと、ばあちゃんと二人暮らしだったの。

「どうなったの?」

「え?」

「いや、帰ってきて、そのあとどうなったのかな、と思って」

「ああ。わたしが聞いたのはね、すっかり酒浸りになって、勝手に親の土地売ろうとして、それがばれて追い出されたって話だった気がするなあ」

「子どもも?」

「え? ああ、そうだね、たぶんそうなんじゃないの」

 姉が気がなさそうな返事をしたそのとき、待合室の椅子でコーラの缶を傾けていた大悟が、急にむせ始めた。

「あれれれ。ママ、タオルある?」

 義兄に言われて、姉は大きなバッグから、スッとアニメのキャラクターつきのハンドタオルを取り出した。

「ほらほら、こっち向いて」

 鼻水とコーラでべたべたになった大悟の口の周りを拭きながら、姉が思い出したように付け足した。

「なんなら、母さんに聞いてみたら。その北川さんって、母さん方の遠い親せきにあたるらしいから」

 そんなことは初耳だった。

「まあ、聞いても教えてくれないかもしれないけどね。あの頃やたら『こんなみっともない人と血が繋がってるなんて』って、怒ってたから」

 

 上の空で姉たちを見送ると、わたしは病室に戻らずに、そのまま屋上へ向かった。息を切らし階段を上りきってドアを開けると、柵によりかかったいつもの後姿から、うっすらと煙が立ち上っている。わたしの気配に気づいたのか、ふと振り返った北川君は、いつもの邪気のない笑顔を浮かべている。

「お姉さんたち、帰ったんだ?」

 矢も盾もたまらずここに来てしまったけれど、いざ彼を目の前にすると、何を言ったらいいのかわからない。わたしはただうつむいてぎゅっとこぶしを握り、唇を強く噛み締めた。かすかに感じる鉄の匂い。

「どうしたの? 何かあったの?」

「いや、あの……」

「もしかして、また具合悪いの?」

 そう言ってこちらをのぞきこむまっすぐな瞳に、自分が何かひどく悪いことをしているような気持になってしまう。

「いや、そうじゃなくて……」

「何?」

「えっと、あの……そう、ご、ご飯がね」

 とっさに口を衝いて出たのは、そんなことばだった。

「ご飯?」

「そう、ご飯。今日の夕飯、ち、筑前煮にするつもりなんだけど」

「ごめん、チクゼンニって、どんなんだっけ」

 そう言いながら北川君は、不思議そうにわたしを見つめている。

「えっと、たけのことか、ごぼうとか、人参とかを、鶏肉と一緒に炒めてから煮るやつ」

「ああ、なんとなくわかった」

 タバコを持った手をとがったあごにあてて、目だけをくるっと上のほうに向け、笑いながら彼は答えた。

「あの、に、煮物って、二人分とかだと、上手くできなくて」

「そうなの?」

「そう、量が少ないと、つ、作りにくいの」

「へえ、知らなかった。そうなんだ」

 北川君が感心したように何度もうなずく。わたしの耳たぶは、どんどん熱くなっていく。

「北川君は、あの、そういう、煮物みたいなのって、食べるの?」

「ああ、ばあちゃんが元気なときは、よく作ってくれたからね」

「じゃあ、あの」

「ん?」

「よ、よかったら、す、す、少し食べない?」

 ああ、なんでわたし、こんなこと言ってるんだろう。迷惑だったら? このあいだのは、本当にただの冗談でしかなかったとしたら?

「え……」

 北川君が戸惑ったような表情を見せる。とたんに激しい後悔が押し寄せてきた。

「あ、ごめん、いや、ひとりだとちゃんと食べなかったりするのかなって、別に深い意味じゃなくて……こっちも、食べきれないともったいないから、でも、ごめん、気にしないで。そ、そうだよね、こういうの、よけいなおせっかいだよね。うん、あの、忘れて。今のは、なしっていうことで……」

 たった今あったできごとを消しゴムでごしごし消し去ろうとするみたいに、わたしは必死にしゃべり続けた。もしこのときひとことでも拒絶のことばを言われたら、わたしはこの場から走って逃げ出していたに違いない。

 ところが次の瞬間、彼はタバコの煙越しに焦りまくっているわたしを上目使いでちらりと見ると、まるで小さな子どもみたいに、ほんの少しはにかんだような、でも今にも泣き出しそうな顔で、小さくつぶやいた。

「……ほんとにもらっても、いいの?」

 いつものふわふわの笑顔とは、まるで違う。一度も見たことのない顔。きっとこれまで、誰にも見せたことがなかった顔。胸の奥がきゅうと締め付けられ、急にふうっと体の力が抜けていった。なぜだか、涙が滲んできた。

「……うん、食べてくれる? そしたら……すごく助かる」

 何でもないことのようにそう言いながら、わたしの声は鮮やかに震えていた。

 

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