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月夜の黒い羊  作者: 小日向冬子
7/21

その7

「あれ、ゆっこちゃんかい。、父ちゃんの具合はどうだい?」

 この小柄な白髪混じりの老婆は、いったい誰だっただろう。病室の廊下で声をかけられ、こっそり首をかしげながら曖昧に返事をする。

「あ、はい。えっと、だいぶ落ち着いてきたみたいで」

「そうかい。まあ、ゆっこちゃんも、あんまり無理しなさんな。なあ」

「はい……」

 父の入院から二週間、いろんな人に話しかけられるようになった。考えてみれば、小さい町のたったひとつの総合病院だ。入院患者もつきそいの家族も、全員顔見知りだったとしてもまったく不思議ではない。しかし、何年も故郷を離れていたうえに、もともと人前に出るのが苦手だったのだ。たいていは、どこの誰だかはっきりとは思い出せないままに、適当に相槌を打ってやりすごしていた。

 さらにどうしても釈然としなかったのは、そうして声をかけてくれる人々がおしなべて好意的なことだった。顔を合わせれば看病の労をねぎらい、時にはおすそ分けだと言ってシュークリームを持ってきてくれる。愛嬌のある姉と違って、幼いころから可愛がられた記憶などあまりなかったわたしは、そうしてよくされるほど居心地が悪く、しまいには、実はこれは町をあげてのひどく手の込んだいじめではないのか、と疑う気持にさえなっていた。

 が、ある日ようやくその謎が解けた。お見舞いに来てくれた敏子おばさんが、わたしの顔をしみじみと眺めながら言ったのだ。

「ゆっこちゃん、聞いたよ。あんた、仕事やめてこっちに戻ってきたんだって?」

「え」

とっさにどう反応していいかわからず、わたしは視線を落として目をパチパチさせた。

「あんたも、昔はあんだけ東京東京って言ってたのによ。いくら親の病気って言ったって、よくまあ、思い切ってくれたなぁ」

「いえ……」

 あれだけ大見えを切って出て行った一部始終を、この人は知っているはずだ。わたしはうつむいたまま、小さく唇を噛んだ。おばさんは、いたわるようにそっと、わたしの肩に触れた。

「まあな、いろいろ思うことはあるのかもしんねえけどな、でも母ちゃん、ずいぶん喜んでたよ」

「いや、それは……」

 勝ち誇ったような母の顔を思い出すだけで、たまらなく苦々しい気持ちになった。おばさんも、わたしが顔をしかめて黙ってしまったので、そのあとのことばを言いあぐねているようだった。が、短い沈黙の後、ためらいがちにこう口にした。

「……これはまあ、内緒だけどな。母ちゃんな、ゆっこがよくやってくれるって、この間見舞いに来たときには泣いてたんだよ。父ちゃんの下の世話まで、文句も言わずにやってくれてる、まさかここまでやってくれるとは、思ってなかったって」

「え……」

 わたしは耳を疑った。

「ほら、ああいう人だからさ、いくらあれでも、まさかそんなふうに言うなんて、わたしもびっくりしちゃってね」

 わたしはそれでもまだ、怪訝な顔をしていたのだと思う、おばさんがまた畳みかけるように言った。

「まあ、あんたにはそんなところは、あんまり見せないかもしれないな。でもな心の中ではやっぱり、済まないと思ってんだよ。ゆっこちゃんくらいだとまだわかんないかもしれないけどな、親って、そういうもんだよ」

 そう言ってわたしの手を取り、うっすらと涙ぐみながらおばさんは言った。

「わたしからも礼を言うよ。本当にありがとうな、ゆっこちゃん」

 

 ぎっしりと並んだ自転車の、わずかな隙間にようやく前輪を押し込んだ。とその拍子に隣の青い自転車のスタンドが跳ね、続けて何台かがガシャガシャと将棋倒しになっていく。「あーもう」思わず声が出てしまう。疲れが何倍にもなって、肩に重くのしかかる。絡まったハンドルにいら立ちながら、それでも一台ずつ力を入れて起こしていった。

 ようやく足を踏み入れた夕暮れ時のスーパーマーケットは、ざわざわとした雰囲気に満ちていた。四角いかごを持った女たちがぶつかり合いながら、雑然と積まれた商品の棚から貪欲に獲物を選びとっていく。生きる力に満ちたその姿を見ているだけで、足がすくんだ。けれども夕飯を作らなければならない。母の分をタッパーに詰め、病院に持っていかねばならないのだ。

母が泣いていた。わたしに感謝して。

おばさんのことばにも、わたしの心はなぜか冷え冷えとしたままで、まるで丸きり他人の話を聞いているみたいだった。

 夏の間、畑にはナスやキュウリやピーマンがあきれるほどの勢いで実っていく。長い畑を一通り歩くだけで、キイキイと鳴る大きなブリキのバケツがいっぱいになってしまう。形のいいものは数本ずつビニール袋に詰めて、家を出る前に、裏の百円野菜のコーナーに置いてくる。夕方は母が同じことをしているはずだった。そうして台所に残っているのは、ぐにゃりと曲がったキュウリや皮に茶色いかさぶたのような傷ができたナスで、わたしは毎日それらを使って食事を作るのだ。

 精肉コーナーに行くと、買おうと思っていた百グラム九十八円の鶏のモモ肉が、そこだけポカーンと空っぽになっていた。並んでいるのは、百グラムで百四十八円もするパックだけだ。どうしよう、予定が狂った。ほかの肉を一通り見てみるが、どれもそれ以上の値段だ。それでは一パック二百円のイカを使うか? 炒める順番は、肉と同じでいいんだろうか? それに、内臓をとるのにも時間がかかる。できることなら、あまり疲れることはやりたくなかった。考えているうちに頭の中はごちゃごちゃになり、意識がぐるぐると渦を巻きはじめる。

 横から中年の女性が肉のパックに手を伸ばしてきた。ずっと同じ場所でうろうろしているわたしを、胡散臭げににらんでいる。いけない、こんな風に突っ立ってたら、変に思われる。わたしは深呼吸をして胸を押さえながら、かごを持った買い物客の流れをよけて、あえぐように空いている通路を探した。

 ようやくひとけのない場所に出ると、一息深呼吸をした。ビールやチューハイの缶がずらりと並んでいる。呑んだら一時でもいい気分になれるんだろうか。が、すぐに、以前コップに半分ほどのビールで酔って吐いたときのことを思い出し、もう一度深く憂鬱な息を吐いた。

 ふと通路の一番奥まった角に、見覚えのある洗いざらしのブルーのシャツが見えて、心臓が大きく跳ね上がった。着古してくたくたになった生地と、それに包まれたばねのようにしやかな背中。ふわふわとタバコの香りをまきちらしながら揺れる、柔らかな髪。体が、嗅覚が、あの時の感覚を思い出していく。

 毎日処置や回診のたびに屋上に行くが、北川君に会えるのは、二回に一回ほどだった。顔を合わせた時の彼はいつも明るく穏やかで、そんなときわたしは必ず戒めのように思うのだった。「彼は、誰に対しても明るく穏やかなのだ」。

 けれども今目の前にいる彼は、ぞくっとするほど何かが違うように見えた。あのあごの線は、こんなにも頑固に骨張っていただろうか。まつ毛はこんなに暗く濃い影を落としていたのだろうか。頬もこめかみも、動かしがたいほどの固い輪郭に縁どられ、うなだれるように下を向いた首筋からは、深い孤独の影が立ち上っているようだった。

 彼が手にしたかごの中には、透明な液体の入った瓶が入っている。白いラベルに、異国の空気をまとった緑の横文字。それを見つめる瞳の、重く暗い温度。今までに見たことのない彼の表情。わたしは身じろぎもできないまま、足元から静かに鳥肌が立っていくのを感じていた。そしてはやる心臓を押さえながら、ゆっくりと後ずさった。

 

「あー、ゆっこちゃんだぁ」

「は、はい?」

 レジを終えて買ったものを袋に詰め、店を出ようとしたときに、突然背後から声をかけられた。びくんとして振り向くと、そこにはブルーのシャツをまとい、とびきりひょうきんな笑顔を作った北川君が立っていた。

「あーれー、そんなにびっくりした?」

「いや、だって、『ゆっこちゃん』って……」

「え? だって、病院にいるおばさんたちみんな『井原さんとこのゆっこちゃん』って言ってるじゃない」

困惑する私に、北川君は不服そうに口をとがらせた。

「いや、あれは……友達にはそんな風に呼ばれたことないし」

これは本当だった。小さなころからよくて『ゆっこ』や『イハラ』で、たいていは含みを持たせて『センセイ』ひどいときは『メガネザル』なんて呼ばれてきたのだ。そしてそのたびに、自分は可愛げのない子どもなのだということを改めて思い知らされた。 

「それに、ほらわたし、『ちゃん』っていう雰囲気じゃないから……」

そう言ってなおもわたしが後ずさると、

「いや、『井原さん』より絶対いいって。よーし決めた、これからは、『ゆっこちゃん』って呼ぶからね」

彼はそう言って話を押し切った。

 ゆっこちゃん。

本当はどきどきするくらい嬉しくてたまらなかった。けれどどんな顔をしていいかわからず、頬が緩まないように口をきつく結んで下を向いている。自分はなんて面倒くさい人間なのだろう。

「で、ゆっこちゃんは夕飯の買い物?」

 そう言う彼が手にしたスーパーの袋は、ただあの瓶の形に膨らんでいるだけだのように見えた。

「ええ、まあ……」

「今日は何?」

「えっと、ナスとピーマンと鶏肉の味噌炒めと、あと……キュウリとわかめの酢の物」

 そう答えると、北川君の目がの猫みたいにくるっと丸くなった。

「すごいね、ひとりでもちゃんと作るんだ」

「え、いや、母の分、タッパーに詰めてまた病院に持っていくの。ほら、コンビニばかりだと、飽きるし、栄養も偏るから」

 言い訳のように早口で付け足す。本当はお金がもったいないだけなのに、わたしはいかにも親思いの娘であるかのように、巧みにことばを装った。

「えっ、じゃあまた病院に戻るの? 大変じゃん」

 わたしは曖昧に笑顔を作り、次のことばを探す。

「北川君は? やっぱり夜は、お母さんと交代?」

 瞬間、その表情に戸惑いが走ったように見えた。が、それは本当に一瞬のことで、すぐにまたふわっとしたいつもの顔に戻った。

「ううん、あとは、ヘルパーさんにお願いしてるの。あまり手間がかかる病人じゃないから、同室の人と二人いっぺんに見てくれてる」

「あ、ああ、じゃあ、お母さんは家のことやって……」

「いやー、うちさ、親いないんだ」

「え? い、いないって」

 予想外のことばにわたしはうろたえた。

「うーん、まあね、いろいろあってさ、ずっとばあちゃんと二人暮らしだったの。っていうか、今はひとりか」

 そう言って彼は、あっけらかんと笑顔を見せた。そうだ、そういう家だってあるはずだ。けれどそんなこと考えもしなかった自分は、なんて愚かなんだろう。わたしはもう、どんな顔をしていいかわからなかった。

「やっぱりわかりやすいなー、ゆっこちゃんは。今、すごく悪いこと聞いちゃったって思ってるでしょ。ふふ」

「だ、だ、だって、それは、やっぱりそう思うもので……」

「そうだよ、僕、すっごく傷ついた」

 北川君が怖い表情を作るのを見ると、わざとだとわかっていても泣きそうになった。

「もう、すぐ本気にする。全然、気にしてないよ」

「でも……」

 北川君は、ちょっと困ったような顔で、首をひねった。

「じゃあね……お詫びのしるしってことで、今度夕飯食べさせてよ。それでちゃらってことでどう?」

 そう言って今度は、いたずらっ子のような顔になる。

「え、え、え、それは……」

 頭の中をものすごい勢いでいろんなことが駆け巡った。作った料理をどうしたらいいのだろう。うちで食べるなんて無理だし、それならいつどこで落ちあう? そもそも、いったい何を作ればいいんだろう。自分がひどくややこしい顔になっているのがわかる。それを見た北川君は、ほんの少し寂しそうな顔で、ふっと笑った。

「冗談だよ、冗談。そんな本気で悩まなくていいよ。ね?」

「あ、冗談……」

 一気に肩の力が抜けた。

「じゃあ、遅くなるから行くね。また明日、病院でね」

 そう言って手をひらひらさせて、彼は遠ざかって行った。夕闇に包まれた後姿を、どこまでも目が追いかけてしまう。

 これから彼は誰もいない家に帰り、あの酒をひとりで飲むのだろうか。うなだれた首筋、伏せられた濃いまつ毛。その姿を思い浮かべるだけで、心がひりひりと痛んだ。追いかけていきたい、そばにいてあげたい。そんなことできないとわかっているのに。わたしの心はいつまでも、彼の後姿をなぞり続けていた。

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