その6
それから数日間、父の下痢は一向に止まらないままだった。いよいよこけていく頬。手も足も骨と皮ばかりになり、経過が順調なら三週間とみていた入院は、おそらくひと月、あるいはそれ以上かかりそうだと医師は言った。
「ゆっこ、おまえいつまでいれるんだ」
ある朝、病室に入るなり母が問い詰めるように尋ねてきた。もうこれ以上、あいまいにはしておけない。ごくりと唾をのみ、わたしは言った。
「仕事、やめたから」
「え?」
母はきょとんとした顔をしてこちらを見ていた。
「だから、もう会社やめた。しばらくこっちで、父さんの看病するよ」
そばで私たちの会話を聞いていた父の目元が、うっすらと赤らんだように見えた。胸の奥がちりちりと痛む。
「なんだ、じゃあもう、うちに帰ってくるんだな」
「だって……そのほうが、いいんでしょ?」
わたしがそう言うと、母は帰り支度の手を止め、ふっとこちらを向いて高々と勝ち誇ったような表情になった。
「ほーれ、やっぱり母ちゃんが言った通りだろ。結局は戻ってくるんだから、最初から東京なんて行かなくてもよかったんだ。女はな、どんなにしたって、男とは違うんだから」
思わず歯を食いしばる。どうしてこの人は、いつだってわたしをこんな気持ちにさせるのだろう。泣きたくなんかないのに、勝手に涙がにじんでくる。わたしはじっと窓の外を見ているふりをして、母が出ていく音を固い背中で聞いていた。
高二の夏、畳の上に正座して、大学に行かせてほしいと切りだしたとき、父は挑むようにわたしを真っ直ぐ見据えた。
「今まで言わなかったけどな、父ちゃんの歯、何本もダメになってるんだ。もう、固いものは全然食えねえ。でも、おまえらが一人前になるまでまだ金がかかるから、治療できねえんだ。ゆっこ、おまえは……そういうことも全部わかったうえで、どうしても大学に行きたいっていうのか?」
普段は無口な父が、ひとつひとつ確かめるように、重々しい声で問いかけてくる。
「……行きたいっ」
「本当に勉強したいんだな」
父の視線がさらに強く痛くなった。怖い。でも、どうしてもここであきらめるわけにはいかなかった。
「はい」
「……よし、わかった。ゆっこがそこまで言うなら、お金はどうにかしてやる」
そう言い切った父の、赤銅色に焼けた顔に深く刻まれたシワ。もう後戻りはできない、そう覚悟して新しい世界に踏み出したはずだった。そこになら、こんな自分でも生きていける道があると信じて。けれども、そうまでして行った場所で、わたしは一体何をしていたのだろう。
時折、何もかもが暗い闇の中に吸い込まれそうなめまいに襲われる。もしも本当のことを知ったなら、父は憎しみと軽蔑のこもったあの目で、わたしのことも見るだろうか。薄暗い食卓で祖父をにらんでいたのと同じ、あの視線で。その光景を想像するたびに、今すぐにでも自分の存在を消してしまいたい衝動に駆られるのだった。
しばらくぶりに、父の容態は落ち着いているようだった。熱もさほど高くない様子で、便意を訴えることもない。朝の光の中で静かに目を閉じた父の姿は、余分なものをすべて削ぎ落とした修行僧のようで、神々しくさえあった。わたしは神に裁かれる罪人のように、身を小さくしてじっと息をひそめていた。
しばらくすると、ガラガラと回診車を押してナースがやってきた。わたしはいつものようにコーラを買って、逃げるように屋上に向かった。
「あ」
「あれ、井原さん!」
灰色の柵にもたれていたのは、タバコを手にした北川君だった。細長くごつごつした指。ふわりと下がった前髪の間から、いたずらっ子みたいな瞳がのぞいている。わたしはあわてて、手にしたコーラの缶を後ろに隠した。
「いつも処置の時って、ここに来てる? あれから一度も見かけなかったからさ、避けられてるのかと思った」
笑顔の後ろで、真っ白いシーツがはためいている。避けられていると思っていたのは、わたしのほうだった。毎日屋上に来るたびに、こっそり期待していたのだ。けれど考えてみれば、処置のナースが回ってくる時間は部屋ごとに違う。そもそもわたしは、彼が誰の付き添いで、何階のどの病室にいるのか、まったく知らなかった。
「避けるなんて、そんな」
あいまいに返事をしながら、視線を落とした。と、北川君が小脇に分厚い本のようなものを抱えているのに気づいた。彼は、ああ、という顔をした。
「まずいな、タバコ。早坂さんには、内緒ね」
「いえ、そうじゃなくて……」
「え? ああ、こっち?」
北川君が差し出した本には、「財務会計論」と書かれていた。表紙の角はよれてめくれ上がり、上部にはフセンがびっしりと貼られている。
「なんか、難しそう」
「んー、まあね」
そう言いながら北川君は煙の向きを確かめると、体を少しずらしてもう一度タバコをくわえた。
「し、仕事で?」
口に出してから、立ち入ったことを聞いてしまったと後悔した。けれど彼は、さして気にとめた風もない。
「そう。いや、正確にはまだ仕事じゃないか。僕ね、公認会計士目指してるんだ」
「えっと、あれ、じゃあ、今は?」
「ああ、今はね、ふふ、正真正銘のプータロー」
彼は、今日の朝ご飯はトーストだったというのと同じ調子で、あっけらかんと言ってのけた。
「あ、ああ、ご、ごめんなさい」
「ん? なんであやまるの?」
北川君は心底不思議そうな顔をした。
「だって、そんな、言いにくいこと……」
あたふたするわたしを見て、彼はふんわりと笑うように唇を少し開けて、細くゆっくりと煙を吐いた。それまで透明だった彼の息が姿を現し、やがてゆらゆらと青い夏の空に消えていく。
「別に、言いにくいことじゃないよ。ばあちゃんの看病ついでに勉強もできるし、ちょうどいいでしょ? うふふ」
曇りのない瞳。同じ無職でも、わたしとは雲泥の差だ。急に自分がみじめに思えてくる。
「そうなんだ。すごい、ちゃんと目標があるんですね。あ、違う、敬語はだめだ、あ、あるんだね」
北川君が嬉しそうにくすくすと笑う。
「やっぱり真面目だなあ、井原さん。でもさ、ほんとにすごいのは、あなたのほうだよ」
「え?」
「早坂さんが、ほめてたよ。センセイは相変わらず、バカみたいに一生懸命やってるって」
「バカみたいって……」
「ああ、ごめん、気にしないで。それ、彼女一流のほめ言葉みたいなもんだから。でも、ほんと、みんな言ってる。せっかく東京で働いてたのに、親の看病のために帰ってくるなんて、ほんとに親孝行な娘さんだって」
「そ、そ、そんなんじゃ……」
何をどう言ったらいいかわからず、ぐっとことばに詰まった。自分がひどくややこしい表情になっているのがわかる。
「ほーんと、そういうとこ、変わってないよね」
北川君がまぶしそうにこっちを見て笑う。
心臓がドクンと跳ね上がる。どうしてこの人は、こんな邪気のない笑顔をするのだろう。きっと、たっぷりの愛情を注がれながら育ってきたに違いない。ひまわりみたいに、たくさんの光を一身に浴びて。
そのとき、急に風が変わった。彼の手から流れてきた煙が、鼻先をかすめていく。無意識のうちにその香ばしいにおいを深く吸い込んで、ふと気づいた。胸が高鳴っている。この人のことをもっともっと知りたい、と。
わたしは困惑した。わかっている、わたしに笑いかける男は、いつだってみんなに笑いかけているのだ。わたしに優しい男は、当たり前のようにみんなに優しいのだ。勘違いするな。傷つきたくなければ、この引力にからめとられてはならない。
わかっている。そう、そんなこと、頭ではいやというほどわかっているのに、心が流れ出すのを止めることができない自分を感じていた。