その5
1990年代初め、まだ看護婦という名称が使われ、入院時には身の回りの世話のために家族の付き添いが求められた時代のお話です。
翌朝病院に行くと、母は目の下に青黒く深いくまを作り、すっかり疲れたようすで椅子に座り込んでいた。髪はぼさぼさで、花柄のエプロンはくしゃくしゃにだらしなく歪んでいる。普段の母ならありえない乱れた姿に、わたしはおののいた。
見ると父がゴム製の大きな氷枕をあてがわれ、上気した頬でぐったりとベッドに横たわっている。唇はカサカサに乾いてささくれ立ち、瞳は焦点の合わないまま潤んでいた。かなり熱が高いに違いないことは、わたしにでもすぐにわかった。なのに母はいつもの朝と同じように、わたしの顔を見るなり帰り支度を始め、さっさと病室から出て行こうとする。
「え、わたし、どうしたらいいの?」
知らない場所に置いてきぼりにされる小さな子供みたいに、心細くて声が震えた。
「あ? どうって、何かあったら、看護婦呼べばいいだろ」
心臓がドクンドクンと音を立て、息が荒くなる。何かって、どんな? 瞬間、エプロンの裾をつかんで母を引きとめる自分を想像した。けれど実際にはなにもできないまま、母はあっという間に荒々しくドアの向こうに去って行った。
泣きたい気持ちを押さえつけておそるおそる振り向くと、ベッドの上の父は苦しそうに顔を歪め、不自然に体をよじっている。どうしたらいいのかわからず、おろおろしながら「大丈夫? 苦しい?」と何度も頼りなく繰り返し、玉のように吹き出す汗をただ拭き続けた。大丈夫なんだろうか。ナースコールを押したほうがいいんじゃないだろうか。こんなことくらいで呼ぶなって言われるだろうか……ぐるぐると同じことを考え続けるだけでなにひとつ判断できない自分がもどかしく、情けなかった。
どのくらいの時がたったのだろう、父が急にぐっと歯を食いしばった。そしてほどなく、
「あ、ああーっ」
という声と同時に、ぶちゃっという音が聞こえた。ぷーんと病室中に漂う臭い。父は急にぼろきれみたいに脱力し、熱で潤んだ目に涙を浮かべてこっちを見た。
「我慢しようと思ったんだけどよぉ……」
父の声は小さく震えていた。昨日までは、おぼつかない足取りながらも自分でベッドから降り、病室のトイレで用を足していたのに。頭の中が真っ白で、どうしたらいいのか見当もつかない。できることならすぐさまその場から逃げ出したかった。
「あ、いや、あの、えっと……ああ、そっか、看護婦さん呼べばいいんだよね」
ようやく思いついてナースコールに手を伸ばした。太い眉をしかめた父が、いまにも泣き出しそうに見えてハッとする。うろたえてはだめだ、なんでもないふりをしなくては。
やがてやってきたのは、千尋だった。
「はーい、井原さん、またお腹痛くなっちゃった? 大丈夫ですよ。すぐきれいにしますからね」
そう言って彼女はピンクの唇で微笑むと、わたしをぐっと見据えて言った。
「昨夜からまた熱が上がってね、便もかなりゆるいから、間に合わなかった時のために紙オムツあててあるの。一度で覚えてね」
「え、何を?」
千尋はそれには答えないまま、、「失礼しまーす」と声をかけると慣れた手つきで父の寝巻をはだけ、白い紙オムツに包まれた下半身をあらわにした。思わず目をそむけると、千尋の鋭い声が飛んできた。
「ちゃんと見てて」
そう言って千尋はオムツを少し下にずらすと、ゆるい便にまみれた局部をきれいに拭き、汚れたおしりふきとオムツを器用に丸めてテープでとめた。そして父の体を横に倒しながら、テキパキと新しい紙オムツをあてた。あっという間に一通りの作業を終えるとこちらに向き直り、呆然としているわたしを見てあきれたように言った。
「しっかりしてよ、井原センセイ。次からはお願いね」
「そ、そんなこと言われても、やったことないし……」
千尋は少しムッとした顔をした。
「だから?」
カーッと耳が熱くなった。
「うう、悪い、また、出そうだ……」
父が消え入りそうな声で言う。
「あ、え、もう?」
千尋が目で合図し、病室を出ていく。今にも泣きそうになるのをこらえて、必死でさっきの手順を思い浮かべた。まず寝巻の裾をはだけて、おそるおそるオムツのテープをはがす。目の前に現れた肌は、赤銅色に焼けた腕とは対照的に悲しいくらい真っ白だ。しょんぼりと見える父の下部。それを自分が目にする時がくるなんて、思ってもみなかった。どうしてわたしが……『無理しないで病人の世話なんかできるわけねえだろ。誰も代わりにやってくれやしないんだから』母のとげとげしいことばがふとよみがえる。ようやくわたしは、その本当の意味がほんの少しだけわかった気がした。顔をそむけた父の唇が、かすかに震えている。自分がやるしかないのだ。ごくりと唾を呑み込み、覚悟を決める。
オムツを少し下にずらし、おしりふきでおそるおそる股についた便を拭きとった。これを一体どこに置くんだった? 千尋はあんなに簡単そうにやっていたのに、いざ自分でやってみると戸惑うことばかりだった。手にも便がつき、それを拭くためにまたおしりふきを使う。ようやくはかせた紙オムツは、ウエストがガバガバで左右がずれている。何度もやり直し、どうにか形になったときにはすでに三十分が過ぎていた。わたしは背中まで汗びっしょりになっていた。
「ごめん、うまくできなくて」
「……いや」
父はぽつりとそう言って、辛そうに目を伏せた。きっと姉なら、こんな場面でもそつなくこなしていくのだろう。いたたまれなさに下を向く。
けれども、やがてそんなことなど考えていられなくなった。父の下痢はおさまらず、わたしは一日中、ほとんど一時間おきに、時には三十分もたたないうちにオムツを取り替え続けた。必死だった。
五時を過ぎると、母がやってきた。目の下のクマはだいぶ薄くなり、胸元にレースがあしらわれた水色のエプロンをきっちりとつけている。いつもの母だ。わたしは安心し、いつものように洗濯物の袋を持って病室を出ようとした。すると、それを追いかけるように背中から父の声がした。
「ゆっこ、今日は……すまなかったな」
わたしは驚いて父を見た。深く落ちくぼんだ目は、ひどく打ちのめされた人のそれに違いなかった。わたしはうろたえて目をそらしながら、不器用にことばを探した。
「ああ、いいよ、べつに。わたし、ああいうの、全然いやじゃないからさ」
父の瞳が、見る見るうちに潤んでいった。
病院を出ると、西日に照らされながら自転車をこいだ。街路樹から蝉の声が聞こえ、用水路には今日も帽子をかぶった子どもたちがたむろしている。薄っぺらいインド綿のワンピースのすそが、アスファルトの熱気を浴びながらひるがえる。
緩やかな上り坂にさしかかり、力を込めてグン、とペダルを踏む。いつもはやっとの思いで上る坂が、やけに楽に感じる。腹の底から力がみなぎってくるような、不思議な感覚。こんなわたしでも、少しは役に立ったのだろうか。うっすらと視界がぼやけ、ほんのりと温かいものがさざ波のように心の中に広がって行く。
話したい。誰かとこの気持ちを、分かち合いたい。
ふと昨日の光景が思い浮かんでくる。風に乗って流れてくる香ばしいタバコのにおい。柔らかな笑顔、シャツ越しに感じた体温。彼なら、わたしの話をうなずきながら聞いてくれるだろうか。
「何をバカなことを」
声に出してつぶやきながらも、わたしは込み上げてくる何かを抑えきれない自分を感じながら、力いっぱい自転車をこぎ続けた。




