その4
「井原さーん、気分はどうですかぁ」
聞き覚えのある声が、遠くから呼びかけてくる。四角く白い壁と天井を背景に、千尋の丸い輪郭がぼんやりと目に映る。返事をしようとかすかに口を動かすが、思うように声が出ず、冷たい汗にまみれてただ苦しく息を吐いた。
「たぶんただの貧血。もう少し休んでたらよくなると思うから、北川君も、そんなに心配しなくて大丈夫だよ」
「でも、やっぱり心配だから……動けるようになったら送ってくよ。どうせ帰り道だし」
てきぱきと動きまわる白衣姿の千尋を、ぼんやりと目の端で追う。一緒にいる男性は誰だろう、わたしを知っているのだろうか。
「毎日暑いもんねぇ。井原センセも疲れが出たんでしょ。一日中ただ病人に付き添うのって、傍で見てるよりずっと大変だから」
「そっか、そうだよね。僕みたいに何かやることがあるほうが、かえって楽なのかもしれないね」
この人も誰かの付き添いに来ているのだろうか。
「それにしても、センセ、一体いつから倒れてたのよ。まあとにかく、北川君が気づいてくれてよかった」
「じゃあこれで、屋上のタバコも見逃してもらえるのかなあ?」
千尋の顔が一瞬気色ばむ。
「それとこれとは話が別」
「冗談だよ。もちろんわかってます。早坂さん、怖いからなあ」
二人の声は明るく笑いを含んでいる。みんなこうやって、自然に他人と会話を交わす。それはわたしが、いまだに手に入れることのできないもののうちのひとつだ。誰かの会話を聞いているといつも、自分だけがひどく場違いな気がする。が、早くここから立ち去りたくても、体はまだ言うことをきかない。無理やり起き上がろうとしたが、やはりふらついてすぐに倒れこんでしまう。
「ほらほら、無理しない。まだ横になってたほうがいいって」
北川と呼ばれていたその男性が、明るい色の人懐っこい瞳でこちらをのぞきこむ。
「すみません……」
そう言いながら、彼のまっすぐな視線に思わずあとずさった。
「井原さん、なんで敬語? 同級生なんだから、別にいいよ」
「……同級生?」
わたしがポカンとしていると、千尋が小さく肩をすくめた。
「ほらやっぱり、覚えてないでしょ。わたしだって、全然わかんなかったもの」
北川君は、六年三組にやってきた転校生だった。あと数週間で夏休みという、このうえなく中途半端な時期に現れ、二学期がはじまったときにはもういなくなっていた。それでさしたる印象もないまま、わたしたちの記憶からあっさり消えていたのだった。
そう言われてみれば、ほんのかすかに覚えている。もやしのようにひょろっと体をくねらせて黒板の前に立ち、消え入りそうな声で挨拶をした男の子。記憶の中のその姿は、ついさっきわたしを背負ってここまで運んでくれた男性と同一人物とは、とても思えないような弱々しさだった。
そう、あれはまだほんの小一時間ほど前なのだ。遠のく意識の中で大丈夫かと声をかけられ、気がついたときにはずっしりと温かい背中の上にいた。
「いいです。わたし、重いし」
そう言ったつもりだったが、ちゃんとことばになっていたのかどうかはわからない。
「いいから、黙ってて」
北川君はそう言って、少し息を切らしながら、ひたすらに階段を下りて行った。ゆらゆらと、ひと足ごとに体が左右に揺れる。柔らかくうねった髪からほのかに立ち上る、香ばしいタバコのにおい。あの男とは違うにおい。朦朧としながらも、わたしは夢中でそれをかいでいた。
「井原センセ、そういえば夕方お母さんと交代するんだっけ? わたしちょっと行ってくるわ、心配してるだろうから」
わたしがようやく体を起こせるようになると、そう言って千尋は処置室を出ていった。北川君は座っていた丸椅子をくるりと回すと、いたずらっ子のように少し口をとがらせた。
「あーあ、それにしても、井原さんまで僕のことすっかり忘れてたのは、かなりショックだな」
そうだ、六年生の一学期と言えば、わたしは確か学級委員だったはずだ。校内を案内したり、何かと面倒を見ていたはずなのだ。
「なんか、全然雰囲気変わってたから……」
「そうだよね、子どもの頃の僕って、これ以上ないってくらい影薄かったもんね」
明るい色の瞳をくるりと動かしながら、北川君はこともなげに答える。
「そんな……」
「いいよ、別に気を遣わなくて。そのくらい、自分でちゃんとわかってるから」
そう言って笑顔を作る北川君に、これ以上何を言うのもわざとらしい気がして、わたしは押し黙って床を見つめた。
子どものころの自分が忘れられているのがショックだと言うけれども、それでは彼は、あの頃のわたしを覚えているのだろうか。覚えていてほしくない。できることならば、すっかり忘れていてほしかった。北川君だけでない、誰の記憶の中にも、かけらさえも残っていてほしくなかった、昔の自分も、そして今の自分も。今、この瞬間にだって、消えられるものなら消えてしまいたい。ふと死にそこなった時の光景が浮かび、思わず顔をしかめる。
そのとき、急に北川君がこちらに向き直った。
「ねえ、何考えてるの?」
心の中を見透かされたような気がして、ドキッとした。
「あ……いや……」
とっさに返事が思い浮かばず、口ごもる。そんなわたしを見て北川君は、今度は本当に嬉しそうに、口の両端を上げてニッと笑った。
「井原さん、やっぱりいいなあ、変わってないなあ」
え、どういうこと、と聞き返そうとしたそのとき突然、母が憮然とした表情で乱暴にドアを開けて入ってきた。そして、力なくベッドに座っているわたしを見るなり、思い切り顔をしかめて吐き捨てるように言った。
「なんだよ、こんなんじゃしょうがねえな。ゆっこはまったく、気合いが足りねえんだ」
心臓が凍りついていく音が聞こえるようだった。
「井原さん……由希子さんも慣れない看病でだいぶ疲れてるんだと思いますよ。長期戦ですから、みなさんあまり無理しないように、気をつけてくださいね」
千尋が、やんわりとたしなめてくれた。しかし母はそれを聞くと、さらに眉をあげてきつく言い捨てた。
「無理しないで病人の世話なんかできるわけねえだろ。誰も代わりにやってくれやしないんだから」
千尋の、北川君の驚いたような、そして憐れむような視線を感じる。見ないで、こっちを見ないで。わたしはうつむいて、そっと唇をかんだ。
何度も一人で帰れると言ったのに、どうせ同じ方向だからと北川君は半ば強引にわたしの自転車のハンドルを握った。
「はい、後ろに座って、しっかりつかまって」
「北川君の自転車は……」
「僕? 僕はいつも、走ってきてるの。ちょうどいいトレーニングでしょ? ほら、危ないからちゃんとしがみついてよ」
指先でシャツをつまむだけのわたしを、北川君が笑いながら叱る。
「そう、腕を回して」
「え、でも……」
「遠慮しないで、もっと体くっつけて。大丈夫だよ、変な気なんて、おこさないから」
そう言って彼は楽しそうに笑う。わたしはためらいがちに腕を伸ばし、それでも最後には思い切って目の前の背中にぴったりと体をつけた。薄いシャツ越しに生きているものの温度を感じて、こっそりと細い溜息をつく。
「じゃあ、行くよ」
北川君はそう言って、体を軽く揺らしながらペダルをこぎ始めた。子どもの頃は、まだ舗装されていなかった道。田んぼだらけだった周囲の風景も、すっかり変わってしまった。東西に走る道の南側はすっかり住宅地になり、しゃれたレンガ作り風の街並みが広がっている。が、道の反対側に目をやると、まるでそこだけ取り残されたかのように昔のままの光景が広がっていた。水色のフェンスはあちこち錆びて歪み、その向こうには雑草に囲まれて用水路が流れている。見ると、網を持った子どもたちが押し合うように中をのぞきこんでいる。
「まだザリガニがいるのかな」
北川君がぽつりとつぶやいた。そうだ、いつも学校帰りには、必ず男子があそこでザリガニを捕まえてたっけ。そんなことを思い出しているうちに、鼻の先にふわっとタバコのにおいが流れてきた。北川君が自転車をこぎながらかすかに振り返った。
「けっこう、強烈なお母さんだよね」
わたしは曖昧に笑った。少しは心配してくれるんじゃないかと、ほんのわずかでも期待していた自分がバカみたいに思えた。鼻の奥がつんとして、北川君の体に回した腕に、思わず力が入る。
「気にすることないよ。親ってさ、自分が親だっていうだけで、子どものこといくら傷つけてもいいって思ってたりするから」
北川君はさらりと言うと、ふふ、と軽く笑った。それじゃああなたも、いくらでも傷つけられたことがあるの? そう聞いてみたかったけれど、口には出せなかった。ペダルを踏む彼の体が、同じリズムでかすかに動く。
右、左
右、左
単調なリズムの繰り返しが、遠い記憶を呼び起こす。
薄暗い食卓で、祖父と父が晩酌をしている。父はいつでも前を向いている。なのに、目だけはずっと、すぐ横にいる祖父を鋭くにらんでいるのだった。身がすくむほどの憎悪がこもった視線の先で、祖父は何も気付かずに、黄色い歯をむきだしにしながら、おいしそうにちびちびと酒を飲み、つまみの皿をつつく。わたしは父の向かいの席で、毎晩毎晩、身じろぎもせずにその光景を見ていた。
怖かった。何が怖かったのかは、今でもよくわからない。けれど、あの光景から逃げ出したくて、わたしは東京を目指したのだと思う。
果たしてわたしは、上手く逃げられたのだろうか。それとも追いかけてきた「それ」に、すっかり囚われているのだろうか。
「どうしたの? また気分悪い?」
気がつくと、北川君の腰に回した腕に、ひどく力が入っていた。
「あ、ごめんなさい……大丈夫です」
「もう、『です』はいらないって」
「あ、はい」
「だから、はいじゃなくて、うん」
「……う、うん」
「そうそう、その調子」
そう言って彼は鼻歌を歌い始めた。そのメロディーはあまりに軽やかで、暗くよどんでいたわたしの心に何かを運んでくれる予感がした。