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月夜の黒い羊  作者: 小日向冬子
3/21

その3

 翌日の手術は、無事に成功した。けれども父は、それから何日もの間、体のあちこちにチューブや針が入って満足に寝がえりも打てず、高熱にうなされながらも、水も飲めないままだった。わたしと母は、一日中交代で父の世話をした。昼間は私がつきそい、夜は母が病室に泊まり込んだ。

 苦しそうな顔でじっとベッドに横になっている父は、まるで怒っているかのように見えた。眉間のシワがわたしをなじり、沈黙がわたしを責めているように思えてならず、父の前では息をするのさえはばかられた。

 本当はこの人は、すべて気づいているのではないか。不肖の娘がすっかり道をふみはずし、親にも世間にも顔向けできないような人生を送っていることに。

 なんにせよこの狭い空間は、わたしにとっては牢獄のように気づまりで、あまりのいたたまれなさに五分おきに額の汗を拭き、日に何度も枕のタオルを替えた。そしてナースが術後の傷口の処置にくると、逃げるようにひとけのない屋上に向かった。

 空調の効いた室内から一歩外に出たとたんに、容赦ない夏の光が照り付ける。それを避けるように、階段室の横のわずかな日陰に座りこみ、ダイエットコーラのプルトップを開ける。

 プシュッという小気味よい音。口をつけると、ピリピリと甘い液体が渇いた舌を潤す。喉を通っていくときの心地よい刺激。

 この快感に浸っている間だけは、自分に対する嫌悪も先の見えない不安も、考えずにいられた。中身が永遠になくならなければいい。そう強く願いながら何度も何度も缶を傾ける。けれどもそうして飲めば飲むほど、のどの渇きは癒えるどころかますますひどくなっていくのだった。

 こんなとき、決まって子どものころを思い出す。

 学校から帰ると、家の中はいつも静まり返っていた。両親は野良に出て暗くなるまで帰らなかったし、五つ上の姉の帰りはずっと遅く、祖父はほとんど奥の部屋から出てくることがなかった。

 台所にはいつも、大きなブリキの缶が置いてあった。入っているのはたいてい、固い手焼きせんべいか、英字ビスケットだ。

 板張りの床にペタンと座り込み、無造作につかんだビスケットを口いっぱいにほおばる。ガシガシと噛み砕くたびにほんのりと乾いた甘さが広がって、その瞬間だけは、からかわれたくやしさも、仲間はずれの寂しさも、うっとおしい母の小言も、すべて忘れていられた。

 けれども口の中が空っぽになった瞬間に、心の中にも再びポッカリと大きな穴が開く。もう少しだけ、あと一口だけ。自分自身に言い訳をしながら、一度は蓋をした缶を、何度も何度も開けた。

 風船みたいにパンパンになっていくお腹。でも不思議なことに、いくら食べても焼け付くような空腹感はなくならず、どんどん食べ続けてしまう。最後には喉元まで胃がせり上がり、頭がぼんやりしてくる。

 そこまできてわたしはようやく我に返り、ごっそりと減った袋の中身を見て愕然とする。

 押し寄せる後悔の念。幼いわたしは無性に泣きたくなって、ぎゅっと膝を抱えるのだった。

 ふと姪の美咲の姿が目に浮かんだ。ぽっちゃりとした体つきは、あのころのわたしによく似ている。それだけではない。固く真っ直ぐな瞳も、強情そうな口元も。

 ――まったく、美咲ちゃんは、むずかしい子でしゅねぇ。

 何気なく母が口にしたそのことば。それは、わたしがいつも言われていたことだ。

 ――どうして、わかんねえかな。まったく、なんでゆっこはそんなに頑固なんだか。あっこは、そんなんじゃなかったのに。

 何かというと聞き分けがよい姉と比べられ、母に激しくなじられた。

 父はいつも、黙って見ているだけだった。一緒になってわたしを叱ることはなかったが、その代わり、母を止めてくれることもなかった。

 ただ一度だけ、父がその沈黙を破ったことがある。あれは確か、小学校に入ったばかりのことだった。父の誕生日に贈る似顔絵を描こうとしていたわたしは、姉の絵具をこっそり借りることを思いついた。父がいつも農作業のときに着ている、灰色がかった水色の作業着は、クレヨンよりも絵具のほうが上手く塗れるはずだと思ったのだ。その思いつきはわたしをとてもわくわくさせた。上手く描けたらきっと父は、「これはすごいな」と喜んでくれるに違いない、そんな場面まで想像し、ひとりほくそ笑んだ。

 けれどもクレヨンしか使ったことがなかったわたしは、こっそりと姉の絵具を引っ張り出したはいいものの、量の加減がわからずに、青と白と黒のチューブの中身をほとんど全部使ってしまったのだ。運の悪いことに、次の日は学校の写生大会だった。

 今までずっと、写生会のたびに必ず金賞をもらっていた姉は、「小学校最後だから、がんばろうと思ってたのに。明日ロクな絵が描けなかったら、ゆっこのせいだからね!」と泣きじゃくった。

 けれどもわたしは、母にいくらとがめられても、頑として謝らなかった。

 そりゃあやり方はまずかったかもしれない。でもわざとじゃない。ただ、父を喜ばせたかっただけなのだ。父はわかってくれるはずだ。なぜだかわたしはそのとき、何の疑いもなく、そう思い込んでいた。

 だが、その日に限って、父は黙っていなかった。いつものように一部始終を見ていたかと思うと、おもむろに深くため息をつき、そして吐き捨てるように言ったのだ。 

 ――ゆっこはまったく、しょうがねえなぁ。 

 時が止まった気がした。

 そのあとのことはまったく覚えていない。のに、なぜかその場面だけは、記憶から消えることはなかった。父のうんざりしたような声と、暗く重い瞳の色。

 いつもは、澱のように心の奥底に沈んでいるその瞬間。けれど今でも、ふとした拍子に鮮やかによみがえり、じりじりとわたしを苦しめるのだった。


 あまり来れないと言っていた姉は、それでも三日と開けずに、美咲と大悟を連れ、二時間近くも電車を乗り継いでやってきた。

 二人の孫が病室の入り口からぴょこんと顔を出すと、ぐったりとベッドに横たわったままの父の目のふちが、パッと赤くなる。

「あぁ、いつも、悪いな」

 手でパタパタと顔を仰ぐ汗まみれの姉に、ぼそりと父がつぶやく。

「いや、このくらい平気平気。あ、でもこの間は、さすがにまいったわ。帰る途中で美咲も大悟も寝ちゃって、もうどうしようかと思った。荷物も子どもも、どっちも置いてくわけにいかないからさ。なんとか二人担いで電車に乗れたけど、もう、肩がこって吐きそうだったわ、アハハ」

 そう言って姉は、すっかり肉づきのよくなったお腹を叩きながら、豪快に笑った。独身の頃の線の細さは、今では見る影もない。

 姉の勢いにつられて、父も力なく笑う。体に入っていた管は取れ、熱は下がってきたものの、一週間近くたつのにまだ何も口にできず、体力は戻らないままなのだ。それでも三人が来ると、明らかに表情が生き生きとするのがわかる。

 姉が嫁いだのはとても裕福な家で、結婚式も、こちらが気後れするような都内の一流ホテルで、盛大に行われた。だけれどいざ向こうの親との同居が始まると、朝から晩まで、まるで女中のようにこき使われていたらしかった。朝は五時に起きて、小姑が会社に持っていく弁当作りから始まり、夜中まで寝ずに夫の帰りを待つ。その間にも、次から次へとやることが湧いてくる。しかも姑がずっと家にいて目を光らせているので、実家に電話をするのも一苦労らしいと、母が嘆いていたのを覚えている。

 姑が去年亡くなったから、こうして出てこれるようになったの。こう言ったら何だけど、まあよかったわ、と、姉は屈託なく笑った。

 そんな苦労を続けると、女はここまでたくましくなれるのだろうか。いや、逆にそこまでの苦労しなければ、誰もが認めてくれるような人生は送れないのかもしれない。そう考えて、わたしはぶるっと身震いをした。

 ひとしきり華やいだ病室の空気は、姉たちが帰ると急に沈みこみ、父の顔にも、どっと濃い疲れがにじむ。それを見るたび、わたしの心はひりひりと痛んだ。

「亜希子姉ちゃんは、えらいよね。だって……ほら、お姑さんいるときも大変だったけど、あの、今だってさ、子どもも小さいし、向こうのお父さんも調子よくないのに。今日だってあれ、ほら、きんぴらとか、そう、あの……煮豚、煮豚とかも作ってきてくれてさ。すごいよ。わたしには、とってもできないや」

 少しでも父の気持ちを引き立てようと、うわずった声で姉のことばかりを必死に話し続けた。父は弱々しい微笑みを浮かべながら、ぎくしゃくとしたわたしのことばを、ずっと黙って聞いていた。が、とうとう話が途切れ、いつもの重苦しい沈黙が病室に広がった。

 そのとき、レースのカーテン越しに、日差しが入り込んできた。もうだいぶ陽が傾いてきたのだ。あと一時間もすれば、母と交代の時間だ。

 ほんの一瞬、細い光の筋が父の顔にかかった。父はまぶしそうに目を細め、枕にのった頭を大義そうにゆっくりと動かした。そしてふうと息をつくと、かすれる声で、それでも満足そうにつぶやいた。

「あっこは、我慢の子だからな」

 どっしりと太い父の眉。ここ数日ですっかり落ちくぼんでしまった眼は、けれども深く慈しむかのような、温かい光を宿していた。

「そっか……そうだよね、お姉ちゃん、昔から我慢強かったもんね。そっか、我慢の子、か」

 わたしは、点滴の残りを確かめるふりをして天井のほうを向いたまま、何度も笑顔でうなずいた。

 かなわない。

 そう思ったら不意に泣きそうになり、ああ、洗濯物を取り込んでこなきゃと言って、あわてて病室をあとにした。

 うつむきがちに廊下を足早に歩いていくと、誰かにぶつかりそうになった。

「すみません」

 小さな声でそう言うと、逃げるようにその横をすり抜けた。目の前がにじんで、足を踏み外しそうになりながらも、なんとか階段を上って屋上にたどりついた。いつものように階段室の横に座り込み、息を整える。

 ――あっこは、我慢の子だからな

 知ってる。父は、わたしより姉のほうが好きなのだ。

 父に似て忍耐強く、いつでも周囲への気配りを怠らない姉。誰もが認める、きちんときれいな人生を描ける女性。

 ――ゆっこはまったく、しょうがねえなぁ。

 そうつぶやいた、あのときの、父の顔。

 所詮わたしは、父を笑顔になどできないのだ。

 ――あっこは頑張り屋でこんなに我慢強いのに、ゆっこはどうしてこんなに頑固で、むずかしいんだ。しょうがねえなぁ。ほんとにどうしようもねえなぁ、ゆっこは。

 実際に面と向かってそう言われたわけでもないのに、わたしの中の父は、いつでもそう言ってわたしを責め続ける。父だけではない。誰も彼もが、わたしを見ればうんざりとため息をつくのだ。

 ――どうしてこんなことがわからないの。だからそういうことじゃなくて、普通に考えたらわかるでしょ? おかしいんじゃないの? ああ、はいはい、お勉強だけは上手なのね。井原センセイ、もう掃除終わっていいですかぁ? セ・ン・セ・イやめとけそういうこと言うとまた告げ口されるぞだって見てるとイライラするんだもんおい見ろよえこひいきそんなことどうでもいいじゃんバカじゃないの気持ち悪い……

 わたしはたまらなくなって耳をふさぎ、大声で叫びだしたい衝動に駆られて必死に口を押さえた。

 座り込んだまま、すっかり動けずにいるわたしに、じりじりと西日が照りつける。屋上はこの時間になっても、足元のコンクリートからの熱気でかなりの温度がありそうだった。あっという間に体じゅうが汗ばんできた。

 カタン、と、足音が聞こえたような気がした。

 ああ、こんなことをしている場合じゃない。早く洗濯物を取り込んで、部屋に戻らなければ。そうだ、もうすぐ母が来る。弱みを見せてはならない、何でもないような顔をしなければ。

 泣き出しそうなままの自分にそう言い聞かせながら、膝を手のひらで押さえて勢いよく立ちあがろうとした。

 が、そのとき、胸の奥に妙な息苦しさを覚えた。

 あれ、どうしたんだろう。

 それは次第に、喉の奥が突き上げられるような感触に変わっていった。それでもかまわず立ち上がり歩きだそうとしたが、なぜだか足が前に進まない。やがてしきりに生あくびが出始めた。目の前で、何かがチカチカと飛んでいる。

 まずい、これはまずい。

 体だけが遠くにいってしまいそうな違和感。汗が噴き出してくるが、さっきまでのものとは違う。ああ、これは冷や汗だ。

 胸のあたりを丸ごとどこかに持っていかれたように、体を支えていた何かが崩れ、立っていられなくなる。目も、口も、手も、足も、まったく力が入らず、冷たい汗がひっきりなしに流れているのも、まるで他人事のように感じられる。周りの景色が、スーッと暗くなっていく。

 と、そのとき、耳元で誰かが叫ぶ声が聞こえた。次の瞬間、温かく力強い誰かの手が、わたしの肩をがっしりとつかんだような気がした。

 薄れていく意識の中で、ほんの一瞬、見知らぬ男のまっすぐな視線と、逆さまの夕焼け雲が見えた。



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