その20
バタン、と車のドアが閉まる音がした。何人もの話声。歓声をあげているのは大悟に違いない。わたしは分厚いカーテンを閉めたまま、薄暗い部屋のベッドでひとり身を固くする。
足音が近づいてくる。
「ゆっこ、いるんでしょ?」
ノックのあとに姉の声がした。枕元にはくしゃくしゃに丸めたティッシュが山のようになっているし、まぶたはよく開かず、鼻が詰まって息が苦しい。ぼんやりとした頭を引きはがすようにベッドから起き上がり、ためらいがちにドアを開けた。
「あらら……まぁ、ひどい顔だねぇ」
困ったように笑いながら姉が言った。
「ほらほら、こんな暗い所にいたらよけい滅入るって。カーテン、開けるよ」
そう言って部屋に上がり込んだ姉は、南の窓にかかったモスグリーンの遮光カーテンに手をのばす。レース越しに入ってくる陽射しがまぶしくて、思わず目を細める。
「父さんを怒鳴りつけたんだって? ゆっこに泣かれて怒られたって、父さんずいぶん情けない顔してたよ」
姉はカーテンを全開にしてタッセルでしっかり止めると、心配そうにこちらを振り返った。窓の向こうには、古い梅の木がごつごつとした枝を広げている。
「お、怒ったわけっじゃ、うっく……」
口を開いたとたんに静まっていた感情が高ぶって、私は再び子供のようにしゃくりあげた。
「あーあー、まったく。二人とも、不器用なんだから。そういうところはホントにそっくりだよねぇ」
姉はやれやれといった風に肩をすくめる。
「……わたし、父さんに似てる?」
「そうね、思ってることをなかなか口に出さないところなんか、特にね」
涙がまたつーっと流れ落ちる。
「二人ともさ、もっと普段から思ってること言い合ったらいいのよ、親子なんだからさ」
姉はベッドの端に腰かけ、ティッシュを抜き取りわたしに差し出した。
「思ってることなんて、言えるわけないじゃない」
わたしはティッシュで涙を拭い、鼻をかむ。
「え、なんで?」
不思議そうに姉が問いかける。
「だってわたし、ほら……父さんに、嫌われてるから」
ぶっきらぼうにそう答えると、姉は本当にびっくりしたような顔で、「え?」と言ってわたしを見た。
「そう、ゆっこは、そんな風に思ってたんだ」
姉はしばらく無言のままで、やがて小さなため息をついた。
「うーん、確かにあんたは、ちょっとほかの子と違うところあったからさ、親としてはどうしたらいいかわからないところはあったかもね。でも、それって嫌われてるっていうのとは、違うんじゃない?」
わたしはどう答えていいかわからず、熱っぽい唇を結んでベッドカバーの花の模様を見つめていた。花柄が次第にぼやけて、わたしの顔はまたくしゃくしゃになる。
「お姉ちゃんには、わからない」
「ゆっこ」
「絶対、わからないよ」
吐き捨てるようにそう言って、わたしはまたひとしきりすすり泣いた。
高ぶった気持ちがようやく落ち着いてきた頃に、姉はポツリとつぶやいた。
「ね、ゆっこさ、子どもの頃って、何考えてた?」
「何、急に」
「ゆっこになら、わかるのかな。最近美咲がね、難しくってさ」
わたしは濡れた瞳で姉を見上げた。
「全然違うの、わたしとも、大悟とも。やることなすこと理解できなくて、叱ってばかりよ。この間は家中の靴を玄関に全部引っ張り出してずらりと色別に並べ替えてたから、『靴はおもちゃじゃないのよ』って、思いっきり怒鳴っちゃった」
わたしはああ、とうなずいた。
「そのほうが、服に合った靴が見つけやすいと思ったんじゃないかな」
「……やっぱり、ゆっこにはわかるんだ」
わたしたちは顔を見合わせて、噴き出すように笑った。
「そう、ゆっこは変なことばっかりやってたけど、きっと全部理由があったんだよね。そう言えばいつも一生懸命説明してたよね、誰にも聞いてもらえてなかったけど」
姉は天井を見上げてひとつ息をついた。
「わたし、美咲の話、もっとちゃんと聞いてやらなくちゃね。母さんが、ゆっこの話聞かなかった分まで」
「……お姉ちゃん」
「ただね、親になってちょっとだけわかったけど、子どものこと理解できなくても、幸せになってほしいと思ってる気持ちは、本当よ」
――俺はただ、ゆっこが可哀想でよぉ。
父の泣き顔が目に浮かぶ。
「でもさ、今回やっと父さんと気持ちをぶつけあえたんじゃない? すごく不器用なやり方ではあったけどね」
気持ちをぶつけあう? これが? 苦笑いするしかなかった。でも確かに、何かが心の中で変化しているのを感じる。
「それとね、父さん、すごく心配してた」
「何を?」
鼻声で聞き返す。
「自分のせいで、ゆっこが彼氏と上手くいかなくなったんじゃないかって」
「そんな……」
姉はわたしの顔をのぞきこむ
「ゆっこさ、父さんひとりをこの家においていけないとか、思っちゃった?」
「ううん、そうじゃない」
わたしは泣きそうに笑いながら、こぶしで口元を歪めた。
「じゃあ、なんで」
「なんでって、もう、それ以前の問題っていうか」
「それ以前って?」
わたしは唇をかんでうつむき、ベッドカバーの花柄を目で追いながらことばを探した
「その人がすごく辛い時にね、自分のことで精一杯で……彼が苦しんでることすら、気づかなかった」
「そう……」
「これじゃ、愛想つかされてもしょうがないよね」
何でもない顔で笑おうとするのに、どうしても口が歪んでしまう。姉はそんなわたしを見ながら、小首をかしげている。
「ねえ、ひとつ聞いていい?」
「うん」
「はっきり『別れよう』って、言われたの?」
わたしは予想もしなかった問いかけに目を見開いた。
「そ、そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、まだわからないじゃない?」
姉の口調はどこか楽しげだ。
「わかるよ」
「なんで?」
「だって、考えたら普通わかるでしょ」
「……そうかなぁ」
姉は口元に手をあてて、何度も首をひねる。
「それに」
「それに?」
「いまさら、会えない。どんな顔していいか、わからないよ」
姉はアハハと豪快に笑ってわたしの背中を叩いた。
「馬鹿だねえ、それがあんたの悪い癖。確かめもしないでまた何十年もひきずる気? そのうちにあんた、おばあちゃんになっちゃうよ」




