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月夜の黒い羊  作者: 小日向冬子
2/21

その2

 ガタン、ゴトンと規則正しい音を立てながら、電車は何度も川を越える。そのたびに少しずつ、空が大きくなっていく。くっきりと力強い夏の雲。窓から見える街並みはどんどん低くまばらになり、青々とした田んぼが目に飛び込んでくる。都会の喧騒からたった一時間あまりで、まるで別世界だ。

 大きな荷物を抱え、ひとけもまばらな駅前から、黄緑色のロゴが入った路線バスにゆられてもう一度川を渡った。二十分ほどで見えてくる白い建物が、町でただひとつの総合病院だ。

 受付で父の病室を聞き、突き当たりの階段を途中までのぼったところで、あちらへこちらへとちょこまか動きまわる、古ぼけた花柄のかっぽう着が目に入ってきた。きつくパーマをあてた平べったい頭に前屈みの姿勢。幼いころから見慣れているはずなのに、目の前の母は記憶の中よりずっとずっと小さく見えて、なんだか声をかけるのがためらわれた。

 階段の途中に立ちつくすわたしの気配を感じたのか、母は急にふりむいた。

「ゆっこ、か?」 

 最後に会ってからすでに四年が経ち、その間にわたしの体重は八キロも落ちていた。が、その母の頭にもだいぶ白いものが混じり、首の筋が浮き出て見えている。そういえば今年はもう五十五になるはずだった。

「なんだ、ずいぶんやせたな。どうせろくな暮らししてなかったんだろ」

 どうしていつもこの人は、ただのひとことで、こうもわたしをいやな気分にさせるのだろう。 

「別に、そんなんじゃないよ」

 わざと何でもないことのように答える。母は眉をひそめ、大きくため息をついた。

「まったく、だからいわんこっちゃない。女が東京で仕事なんて、ロクなことになりゃしないんだから」

「だから、違うって。ダイエットしたの!」

 いら立ちで思わず大きくなった声に、手すりにつかまってよろよろと前を歩いていた見知らぬ老女がふりかえった。

 仕事が忙しいからと言い訳をして、盆も正月もずっと帰らずにいた。両親は、私が今でも東京の出版社で働いていると思っている。

「言ったろ? 女はな、なんだかんだ言ったって、いいところにお嫁に行くのが一番なんだから。上の学校いったって、変に生意気になって縁遠くなるだけだって。ゆっこも姉ちゃんみたいに短大ぐらいでやめときゃよかったんだわ」

 母の言うことは昔から同じだ。都内の大学に行きたいと切り出したときも、そのまま東京で就職すると決めたときも、女には必要ないと大反対されたのだ。

「ああもう、そういうのはいいから」

「よくないわ。ゆっこだってもう二十六だろ? いいかげん先のこと考えないと……」

 母はわたしのいら立ちなどまったく気にもとめず、なおも話を続けようとする。

――なにもわかってないくせに。

 わたしは、喉元まで出かかったそのことばを、それでもぐっと押さえ込んだ。言い返しても果てしない口論になるだけなのは、わかりすぎるほどわかっている。

「……それより、父さんはどうなの」

「ああ、明日手術なんだ」

「それは電話で聞いた」

「そっか、そうだな。ああ、そうだ、ゆっこがいるなら、ヘルパー頼まなくてもいいな。二人いれば、どうにかなるだろ」

 最後はひとりごとのようにつぶやくと、母はしばらくうなずきながら、なにか考え込んでいた。そして突然、わたしに興味を失ったかのように、くるりと踵を返してどこかにいってしまった。

「え、ちょっと、なに?」

 ひとり廊下に取り残されたわたしは、途方に暮れた。

 なにもかも相変わらずだった。母も、そしてわたしも。


 入り口の名前を確認し、戸惑いながらそっと病室に足を踏み入れた。と、次の瞬間、ベッドに起き上がってこちらを見ていた父と、いきなり目が合ってしまった。

 わたしはひどくうろたえ、

「あ……うん、帰ってきたから。そう、もう、帰ってきたからさ」

と、裏返った声で何度も馬鹿みたいに繰り返した。

 わたしの記憶の中の父は、いつも険しい表情で、ただ黙々と土にまみれて働いていた。遊んでもらったことも、ひょっとしたらことばを交わしたことさえも、ほとんどなったかもしれない。しんとした家の中で、いつも母だけがめんどりみたいに父の分までうるさく叫んでいた。今目の前にいる父も、その頃と同じように、眉間にしわを寄せ、口を引き結び、かすかに目を伏せていた。

 ぎくしゃくとした長い沈黙のあと、父は細く息を吐くみたいにわたしに問いかけた。

「仕事は……大丈夫なのか?」

「ああ、社長が、親の病気ならすぐに行けって。有給もずっと取ってなくて、ほら、あれも、あんまり取らないままだとまずいっていうから、ちょうどよかった。あ、いや、入院がよかったってことじゃなくて……えっと、その……」

 無理やり話し続けようとしたが、もう何を言っていいかわからない。と、そのとき、

「井原さーん、検査でーす」

 ナースの高らかな声が聞こえ、わたしは内心ほっと胸をなでおろした。

白いストッキングのむっちりした脚が、力強く床を踏みしめながらまっすぐ父に近づいてくる。小柄でぽっちゃりとしたナースは、ベッドの横にいる私を見つけて、

「あらぁ、今日は奥さんじゃなくて娘さん? ふふ、いいわねぇ」

とふくよかなえくぼを見せた。が、急に動きをとめて、まじまじとわたしの顔を見つめた。

「井原センセイ?」

 わたしは驚き、思わず白衣の胸の名札を見た。そこには、『早坂千尋』とあった。早坂千尋、千尋……

「六年……三組?」

 彼女はふっと口のはしで笑った。

「なんだ、井原さんって、センセイのお父さんだったんだ」

 父が、困惑した表情で千尋を見た。

「ああ、わたしたち、同級生なんです。由希子さん、すっごく頭が良かったから、みんな『井原センセイ』って呼んでたんですよ。うふふ、懐かしいなぁ。あ、いけない、こんな話してる場合じゃなかったわ、井原さん、検査室に行きましょうね」

 千尋のよく通る高い声が、次第に遠ざっていく。わたしはよろよろとベッドの横のパイプ椅子に腰をおろし、こめかみを指でぎゅっと押さえた。

  井原センセイ、もう掃除終わっていいですかぁ?

  やめてよ、その呼び方。

  なんで、別にいいじゃん、セ・ン・セ・イ。

  おい、やめとけ。そういうこと言うと、また告げ口されるぞ。

 あざけるような目つき、いじわるな笑い、ひそひそ話。ぼんやりした記憶がゆっくりと形を取り戻しはじめ、わたしは軽い吐き気を感じた。

 ふと、視界の端で何かが動いた気がした。顔をあげると、病室の入り口からピンクのTシャツを着た小太りの女の子がじっとこちらを見ている。誰かのお見舞いだろうか。固く真っ直ぐで、ぶしつけな視線に、わたしはさりげなく目をそらした。

「大悟、もう自分で歩こうか。こら、美咲、勝手に行かないの」

 少女の背後から聞こえるその声には聞きおぼえがあった。片手で小さな男の子の手を引き、もう片方の手でキルティングの大きなトートバッグを抱えて入ってきたのは、姉の亜希子だった。


「これね、ドライシャンプー。頭洗えないときに使うといいよ。こっちは体を拭くやつね。それと、テレホンカードに、小銭も持ってきといた」

 姉は、トートバッグの中から取り出したものを、テキパキとキャビネットに納めていく。

「あれ、百円玉なんて、いっぱいあったのに」

 そう言って眉をよせながらも、母はどこか嬉しそうだ。

「あ、これ、浴衣の寝巻。ガーゼのが売ってたから、こっちのほうがいいでしょ」

「あれまあ、よく見つけたな。この辺にはなくってなぁ」

「それとね、美咲と大悟から、じいちゃんにプレゼントがあるんだよね?」

 そう促されてまず大悟が、丸めて青いリボンをつけた画用紙をおずおずと、検査から戻ったばかりの父に差し出した。

「あれ、これは、なにかな?」

 父の問いかけに、大悟はクレヨンで描いた丸を指差しながら、

「じーじのおめめ!」

と笑顔で叫んだ。

「そっか、大ちゃんは、じーじの顔描いてくれたのか」

 父は、今まで見せたことのないとろけそうな笑みを浮かべている。

「美咲も、あるんだよね?」

 姉がうながすように笑顔を向ける。が、美咲は口を固く結んだまま動こうとしない。

「ほら、鶴じゃなくだってじーじは喜んでくれるよ?」

 姉のことばに、美咲はますます体をこわばらせる。

「いいじゃない、風船だってがんばって作ったんだから、ちゃんと渡そうよ」

 かすかにいら立ちをにじませながら、姉は美咲が肩からかけていたポシェットに手を伸ばそうとした。ところが、

「いや!」

 美咲はからだを折って、ポシェットをお腹に抱えて座り込んでしまった。

「まったく……」

 姉は大きくため息をついた。

「いや、ゆうべね、じーじは病気だから鶴を折ってあげるんだって言いだしたのよ。で、教えてみたんだけど、やっぱりうまくできなくてね。まあ、まだ四歳なんだし、折れないのが当たり前なんだけど、なんだかへそ曲げちゃって……」

 その時のくやしさを思い出したのか、美咲は顔を真っ赤にして姉をにらんでいる。

「なーんだ、美咲、鶴が折れなかったのか」

 母がからかうように笑いながら、美咲の頬をツンツンとつついた。と、その瞬間、美咲が堰を切ったように泣き出した。

「こら、美咲。泣くようなことじゃないでしょ!」

 姉はあわてて病室を見回し、

「すみません」

と同室の患者たちに謝りながら、美咲を廊下に連れ出した。

「あらら、お姉ちゃん泣いちゃった。困りましたねぇ」

 そう言って母は笑いながら、きょとんとしている大悟を抱っこした。

「まったく、美咲ちゃんは、むずかしい子でしゅねぇ」

 何気ない母のことばに、わたしの胸はちくりと痛んだ。

 姉が美咲を落ち着かせて戻ってきたとき、ちょうど父方の伯母と叔父が病室に姿を見せた。姉は二人を目にするや否や、深々と頭を下げ、するすると口上を述べた。

「敏子おばさん、豊おじさん、ごぶさたしてます。お忙しいのに、父のためにわざわざすみません」

「あれー、あっこちゃん? あれまあ、すっかりいい奥さんになっちゃって。子どもたちも、もうこんなにおっきくなっちゃったの」

 伯母はそう言って、美咲の頭にシワだらけの手をのせた。

「美咲、ごあいさつは?」

「……こんにちは」

「こんにちは。美咲ちゃん、いくつになった?」

 伯母の問いかけに、美咲は固い表情のまま答える。

「四つ」

「そっかぁ、四つか。あれ、下の子は、何て名前だっけ?」

「ほれ、大悟、お名前は?」

 母にうながされて、大悟が大きな声で答えた。

「すぎもとだいご、にさいです!」

「まあ、これはまた元気がいいわ」

 その場が和やかな雰囲気につつまれたそのとき、叔父が、姉の後ろ隠れるようにして立っていた私に気がついた。

「おお、ひょっとして、ゆっこちゃんか?」

 伯母も驚いて顔を上げた。

「ええ、まあ……」

 微妙な空気が流れる。

「なんだ、東京からきたのかい」

「はい、あの……」

 姉の流れるようなあいさつが頭をよぎる。わたしもあんな風にきちんとしたふるまいをしなくては。が、そう意識するほど口元はこわばり、声がのどに絡みついた。長引く沈黙がその場をぎくしゃくとさせていく。

「そうか……なあ、それじゃ、かえってよかったじゃないか。娘が二人とも来てくれちゃ、兄さんも心強いだろ、はっはっは」

 とってつけたような叔父のことばに、みなが大げさに愛想笑いをした。わたしは、たったひとりで大人のなかに放り出された小さな子どもみたいに、頼りなく泣きたい気持ちで、ひたすら自分の足元を見つめていた。

 伯母たちが帰ったあと、美咲と大悟は母に連れられてそのまま近くのコンビニに向かった。姉は待合室の自動販売機でスポーツドリンクを二本買い、そのうちの一本を「はいよ」とこちらに渡すと、二階のベランダに私を誘った。

外に出ても風はなく、やかましいほどの蝉の声とともに、じっとりとした不快な空気が体中にまとわりつく。わたしたちはかろうじて日陰になっているベンチを選んで、どっかりと腰をおろした。

「ねえ、父さんの病状とか、聞いた?」

 プルトップを開けながら姉が尋ねた。

「ううん」

「やっぱりね。まあ、母さんのことだから、そうじゃないかとは思ってたけどさ。昔からいっつも、肝心なところが抜けてるんだよね」

 大げさにおどけた顔をしてみせた姉は、大きなトートバッグをひざに乗せ、中からアニメのキャラクターがついたタオルのハンカチを取り出すと、汗ばんだおでこや首すじを押さえつけるように拭いた。

 と、急にその手が止まった。

「あのね、これは本人には言ってないんだけど……父さんね、胃に、胃の上のほうに、癌ができてるんだって」

 姉の声は、かすれていた。

「うん」

 傾き始めた日差しの照り返しは思ったよりきつく、鼻の上に汗のつぶが噴き出してくる。

「心配しなくて大丈夫。まだ初期だから、切っちゃえば治るらしいよ」

 姉は自分に言い聞かせるかのように明るい声でそう言うと、スポーツドリンクをごくりとひとくち飲んで、ゆっくりと空を仰いだ。

「ただ、術後の抗がん剤治療はけっこうきついらしい。あと、退院してからの食事とかはちょっと大変かもね。母さんは大雑把なところあるから、心配だなぁ」

 確かに母は料理がおそろしく下手だった。大根の煮物はいつも固くガシガシしていたし、魚も焼き過ぎてしょっちゅう真っ黒焦げになっていた。大学生で一人暮らしをはじめたとき、二十年以上のキャリアを持つ母よりも、初心者のわたしが本を見ながら作った料理のほうがよっぽどおいしいということに気づき、驚愕した覚えがある。

「ねえ、あんたさ、いつまでいられるの?」

「え? まあ、しばらくは大丈夫だけど……」

 本当は、もうアパートなど引き払っていた。でもまだ、それを口にするのははばかられた。

「そっか。うちもいま、義父さんがあんまりよくなくてね。チビたちもいるし、そんなに頻繁には来れないと思うんだ。だから、少しの間でもゆっこがいてくれるなら、すごく安心だわ」

 姉はそう言いながらベンチの背もたれによりかると、手を組んで大きく伸びをした。

「でもさ、正直、あんたは帰ってこないかもって思ってた。だって、電話してもいっつも留守電だし、年賀状だって、一度も返事くれないしさ」

 そう言って姉は笑いながら、けれども少しだけ恨みがましい声を出した。

 ひとりぐらしのアパートに毎年欠かさず送られてきた、写真付きの年賀状。結婚、出産、子どもたちの成長と、きれいな放物線を描く姉の幸せの形は、いつでもわたしの心をじりじりと痛めつけた。

「んー、そうだっけ」

 わたしは晴れやかな写真の笑顔を思い出しながら、すっかり汗をかいたスポーツドリンクの缶を何度も指でなぞった。

「あ、そうだ」

 唐突に姉は、紙おむつや小さな絵本や着替えのつまったトートバッグをかき回しはじめた。

「あった、これこれ。看病ってほんとに疲れるからさ、たまにはこっそりおいしいものでも食べな」

 手渡されたのは、赤い縁取りの小さなポチ袋だった。わたしはおし黙ったまま、手元のポチ袋をじっと見つめた。

 わかっている。嬉しそうな表情をつくって「ありがとう」と言いさえすればいい。それはただのお決まりのことば、どこまでが本心かなんて関係ないのだ。そう頭では思うのに、やっぱりわたしは戸惑い、黙りこんでしまう。

 姉は、そんなわたしの反応にほんの一瞬だけ眉をひそめると、すばやく笑顔に戻り、いいよ、というように何度もおおげさにうなずいた。

 家に帰ってポチ袋の中を見ると、姉らしい几帳面さできっちり三つに折りたたまれた五千円札が入っていた。わたしはそれを、きつく握りつぶした。



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