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月夜の黒い羊  作者: 小日向冬子
19/21

その19

いつもと変わらない朝が来た。違っていたのは、夜が明けたとわかった瞬間に、知らずに涙があふれてきたことだった。

 どうして目が覚めてしまったんだろう。どうしてまだ生きているんだろう。よそよそしいほどに白く四角い天井が、滲んで形を歪めていく。せめて家のことだけはきちんとやらなければ。何度も自分を奮い立たせようとしたが、いくらがんばっても世界はのっぺりとした灰色の泥の塊のままで、どうしてもベッドから動けなかった。

 昼近くになり、ふらついた足取りでやっと部屋から這い出していくと、仏壇にはきちんとご飯が供えられていた。四角い写真におさめられた母は、見たこともないほど穏やかに微笑んでいる。本物がここにいたら『こんな時間まで寝てたんじゃ、しょうがねえな』とひとしきり毒を吐いたことだろう。けれどもう二度と、あのきつい物言いを聞くことはないのだ。

 重い体をひきずるようにして呆けた頭で台所に立ち、お昼の用意をはじめた。残っていた野菜を刻み、うどんと一緒にくたくたになるまで煮込む。昼を知らせるサイレンが鳴ると、父はいつものように黙ったまま食卓につき、寝坊したわたしに何を言うでもなく、難しい顔で箸をつけた。昔から、いただきますもごちそうさまも言わない家だった。それが当り前ではないと知ったのは、いつのことだったろう。わずかな量をゆっくりと時間をかけて咀嚼した父は、最後は顔をしかめて「もういいや」とだけ言い、席を立った。わたしは黙ってどんぶりに残ったうどんを捨てた。

 そんなことが何日も続いた。食事はなんとか作ったが、それだけですべての力を使い果たしてしまう。掃除も洗濯もたまる一方だった。

 その朝も、やはり起きられなかった。すっかり日が昇ってからよろよろと出ていくと、仏壇に白い菊の花が飾られていた。ピンと張った細い花びらのひとつひとつがわたしを責めているようで、思わず目をそむける。空気の抜けた風船のような足取りで母屋に向かった。そして家に入ろうとして、ハッとした。父が玄関の雑巾がけをしていたのだ。心臓が止まりそうになった。

 その場に立ちすくんだわたしの姿を見て、父もまた動きを止めた。一瞬の沈黙。が、父はすぐにまた何事もなかったかのように下を向き、一枚一枚の板をきっちりと拭き清め始めた。

 わたしの中で、何かがプツンと切れた。

「……どうして何も言わないの?」

 その声は、自分のものじゃないみたいに、うわずって震えていた。えっ、という顔で父が私を見た。

「怒ればいいじゃない、起きてこなくて、ご飯も炊けなくて、寝てばっかりいてどうしようもないって。何もわざわざ、あてつけみたいに掃除しなくたって……!」

 頭の芯がしびれたみたいになって、やめなきゃと思っているのに止まらない。体を震わせ怒鳴りながら、最後は涙声だった。父はいきなりのわたしの剣幕に呆気にとられ、口を半開きにしたままその場に釘付けになっていた。見開いたままの目の上には、太い眉毛が哀れな様子で垂れ下がっている。

 静寂の中に、興奮した私の荒い息使いだけが聞こえる。やがてしぼり出すように父が口を開いた。

「……お、俺はただ……今日、亜希子たちが来るっていうからよ……」

 わたしの口はなおも止まらない。

「亜希子亜希子って、そんなにお姉ちゃんがいいなら毎日お姉ちゃんに来てもらったらいいじゃない。どうせわたしは、役に立たないできそこないよ!」

 頭の片隅では、冷静なもうひとりの自分があきれかえっている。けれどそれだけでは、長いこと心の奥に押さえつけてきた感情が一気に溢れ出してしまうのを止めることはできなかった。怒鳴るほどに感情は高ぶり、そばにあった電話帳を床に叩きつけ、体を震わせて嗚咽した。そんなわたしの姿に半ば呆然としながら、父は今にも泣き出さんばかりの震える声でつぶやいた。

「ゆっこに泣かれちゃあなぁ……俺はただ、ゆっこが可哀想でよぉ……」

 可哀想? わたしはわが耳を疑った。

 ――ゆっこはまったく、しょうがねえなぁ。

 この二十年近くの間、何度あのときの記憶に傷つけられてきたことだろう。打ち寄せる波のように繰り返し思いだされる光景に、いつしかわたしは立ち上がる力さえも奪われていったのだ。けれどたった今目の前にいる父の姿は、確かにあのときとはまったく別のものに見えた。わたしは軽いめまいを感じ、父が拭き清めたばかりの上がりかまちに手をついた。

「今日だってよ、いつまでも起きてこねぇから……もしかしたら首でもくくってるんじゃぁないかと、心配でしょうがなくってよぉ。俺は朝から、何度も、何度も、ゆっこの部屋の前、行ったりきたり、してたんだよぉ……」

 そう言って力なくうなだれ、泣きそうに顔を歪める父。わたしはひどく混乱し、かすれる声でやっとつぶやいた。

「……嘘」

 そのことばに父は、ボロ雑巾を握りしめたまま、傷ついた子どものような顔でこちらを見上げた。わたしは見たことのない父のようすにうろたえた。

「……だ、だって今まで、そんなこと一度も言わなかったじゃない」

 父がくしゃっと顔を歪めて、目を潤ませる。顔に深く刻まれたシワ。病気をしてから、少し背中も曲がった気がする。

「それが本当なら……どうして、もっと早く言ってくれなかったのよ」

 なじるようなわたしの口調に苦しげに体を折り曲げながら、絞り出すように父は言った。

「い、言えないんだよぉ。お、俺は、母ちゃんと違って、思っててもな、口になんか、出せないんだよぉ」

 そして詫びるかのように深く身を沈めて肩を震わせ、不器用に涙を流した。

 こんなに情けない父の姿を見たのは初めてだった。いつだって正しく、誰よりも我慢強かった父。わたしはいつだって父のそばにいるだけで、自分がちっぽけでどうしようもない人間に思えて仕方がなかった。

 わたしはいったい、今までこの人の何を見ていたというのだろう。

 そして何を失い続けてきたのだろう。

 遠くでお昼を知らせるサイレンが鳴っている。それでもわたしたちは、長いことその場所から動くことができなかった。

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