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月夜の黒い羊  作者: 小日向冬子
18/21

その18

 千尋に描いてもらった地図を頼りに細い路地を何度も曲がり、ようやく「北川」と書かれた表札を見つけた。色も形も同じような建売の家が両側にずらりと立ち並ぶ中、青い瓦屋根のそこだけは数軒分もの広さがあった。

 そっとのぞいてみると、庭は茶色くなった芝生に覆われ、赤茶色のレンガに囲まれた花壇にも枯れた雑草や落ち葉が積み重なっている。雑然と置かれた庭仕事の道具も、埃が積もったままだ。

 門のすぐ前には、深緑色の大阪ナンバーの車が停まっていた。その前でうろうろしていると、いきなり玄関のドアが音を立てて開いた。とっさにしゃがみ込み、隙間からこっそりと様子をうかがう。

 出てきたのは、すっかり面変わりした北川君だった。子どものようにくるくると動いていた明るい瞳は輝きを失い、青ざめた頬がすっかりこけているのが遠目にもわかった。

「それはそうです。でも、できるところまではやってみたいんです」

 どうやらドアの影にいる誰かと話をしているようだ。

「できるところって……自分でもわかってるんだろ? すでに航君ひとりではどうにもならないところまできてる」

 北川君は見たことのない険しい表情で、せわしなくタバコをくわえ火をつける。

「僕は、ばあちゃんがいなかったらここまで生きてこれなかったかもしれない人間なんだ、今さら自分の人生なんて」

 男性は前に歩み出し、ドアの影から姿を現した。ベージュのアラン模様のカーディガンを羽織り、きちんと折り目のついたスラックスをはいている。

「それは違うよ。兄貴のしたことを、航君が背負う必要はないんだ。それどころか、君こそが一番の被害者だ。せっかく入った会社だって、兄貴が作った借金の取り立てのせいで辞めざるを得なくなったんだろう?」

 男性の低く穏やかな声がかすかに気色ばむ。

「でも……」

「結果的に、君に母の世話を任せっぱなしにしてしまったことは、悪かったと思ってる。でももう、充分だよ。兄貴のことはわたしがどうにかする。だからあとは、自分のことだけを考えなさい」

「そんな、ばあちゃんにずっと面倒見てもらってたのは、僕のほうなんです。だから、せめてこんな時くらい」

 懇願する北川君を押しとどめるように、男性は口調を強めた。

「君の気持ちはよくわかる。でも、こればっかりは気持ちでどうにかなる問題じゃないんだよ。それにね、母にはずっと前から頼まれてたんだ。自分に何かあったら、迷うことなくこの家を処分して、そのお金で病院なり施設なりに預けてくれって」

「えっ」

 彼が一瞬息をのんだのがわかった。

「ずっと一緒に暮らしてきた君なら、理解できるだろう。あの人にとって、家族の重荷になるのは死ぬより辛いことなんだよ」

「それは……」

 長い沈黙があった。日が傾き始め、風が急に冷たくなってきた。わたしはその場から動くことができないまま、自分の肩を抱いてぶるっと身震いをする。

「なあ、航君。これを機に、大阪に来るつもりはないかい? うちの会社を手伝ってもらえたら、とても助かるんだが。もちろん、ほかにやりたいことがあるというなら無理にとは言わない。ただ、どのみちこの家は可能な限り早く処分するつもりだから、それだけは覚悟しておいてくれ」

「……どうしても、ですか」

 男性は悲しそうに北川君を見つめた。

「君にとって思い入れのある場所だというのはわかっている。わたしにとってもそうだ。でももう、そうするしかないんだ」

 北川君がうつむいたまま悲しそうに顔を歪めるのが見えた。


 どこをどう帰ってきたのかわからないまま、気がつくと自分の部屋のベッドの中にいた。頭の中では、たった今耳にした会話がぐるぐると回り続けている。

 ベッドの上のありったけの寝具をかき集めるとその中に体を埋め、胎児のように膝を抱えて丸まった。

 ふかふかの布団。そして、もこもこの毛布。

 彼の声、彼の唇、そして笑顔。

 なにもかも、失うのだ。彼はこの町を出て行ってしまう。熱い涙が幾筋も頬を伝う。このまま、溶けてなくなってしまいたい。何の意識も残らず、丸ごと消えてしまいたい。そう念じながら、いつまでもひっくひっくと泣き続けた。

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