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月夜の黒い羊  作者: 小日向冬子
17/21

その17

陽の光が少しずつ弱くなり、裏庭のケヤキの枝が高くなった空をくっきりと切り取りはじめる。掃いても掃いても終わりがないように思えた落ち葉の乱舞も、すっかりなりをひそめた。知らん顔でゆっくりと季節は移ろっていく。もてあましたままの心を置き去りにして。

 電話の呼び出し音がするたびに、庭箒を持ってこっそりと裏庭に逃げた。呼びに来る父の顔で、受話器の向こうにいるのが誰なのかはすぐにわかる。わたしは目を伏せ、唸るように首を横に振る。父はそれ以上問いただすこともなく、電話の相手に「今、出かけてるんですが」とだけ告げてそっと受話器を置く。その音を背中に聞きながら急いで離れへと駆け込み、小さく膝を抱えて目を閉じ耳をふさぐ。

 わかっている。こんな風にしていたら、彼のことだ、いずれはここにやってくるに違いない。そのとき父はいったいどんな顔をするのだろうか、わたしはどんな風に振舞うのだろうか。そもそもわたしはその事態を、恐れているのか待ち望んでいるのか。

 が、いくら待っても彼は姿を見せることなく、頻繁にかかっていた電話も三日おきに、そして週に一度となり、やがてぷつりと途絶えてしまった。

 玄関の掃除を終えて裏庭に出てみると、すっかり葉を落としたケヤキの木が寒空に向かって両手を広げていた。足の下で落ち葉がカサカサと音を立て、ふいに涙がこみあげる。

 わたしが希望だと、たったひとつの救いだと言ったくせに。

 自分が電話に出ようとしなかった癖に、捨てられたような惨めな寂しさにずぶずぶと深く沈んでいく。そうして心がくぐもって行けばいくほどに、わたしは何かにとりつかれたかのように休む間もなく動き続けた。毎日朝早くから米を研ぎ、ボロ雑巾を絞っては家中を磨き上げ、不用品を整理し、法要の準備をする。どこに向かって走っているのかわからない。けれど、走るのをやめた瞬間に何もかもが壊れてしまうことだけは、肌が粟立つほど確信していた。

 やがて四十九日の法要が終わると、まるでそれが合図であったかのように、季節は一気に冬に向かって舵を切りはじめた。 

 寒さはますます厳しくなっていく。庭いっぱいに広げた竿に洗濯物を干すたび、かじかんだ手を足に挟んで温めずにはいられない。ひと月もすれば、竿に干したタオルが凍るようになるだろう。霜柱は力強く地面を持ち上げ、庭の桶に溜まった雨水には、厚い氷が張るだろう。

 長く辛い冬が始まる兆しに、わたしは固く怯えた。


 年の瀬が近付いてくる。小さな町にもその慌ただしさはきちんとやってきて、わたしの心をひどく落ち着かなくさせた。

 穏やかに晴れた風のないその日、わたしはいつものように淡々と父と昼食を済ませると、庭いっぱいに干した布団を裏返して家に入ろうとした。

「センセイ、元気?」

 突然背後から明るい声が聞こえた。振り向くと、門の横に千尋が立っていた。小柄だが張りのある体を黒いジャケットに包み、めずらしく地味な色の唇でにっこりと微笑んでいる。

「今日ね、久しぶりに非番なのよ。ほら、天気がいいからさ、散歩してたらたまたま近く通ったから」

「そ、そうなんだ」

「ね、ついでで悪いんだけどさ、お線香あげさせてもらってもいい?」

 何気なさを装いながら彼女は言った。

「……うん、ありがとう」

 仏間に父の姿はなかった。おそらく奥の寝室で横になっているのだろう。

 ジャケットを脱ぎ、白いセーター姿で正座して神妙に手を合わせる千尋の向こう側で、ゆらゆらとたなびく線香の煙。ぼんやりと目で追ううちに、立ちこめる紫煙と香ばしいタバコの匂いを思い出し、涙ぐむ。

「ずいぶんしけた顔してるじゃない」

 こちらに向き直った千尋が、からかうように言った。あわてて目をそらす。

「お父さんなら、経過は順調だから、心配いらないわよ」

「……うん」

 そう答えながら鼻をすすり、急須を傾けて客用の湯飲みにゆっくりとお茶を注ぐ。じんわりと立ち上る湯気に目が潤む。

「どうやら問題は、あんたのほうね」

 千尋はわたしの鼻先に人差し指を突き立て、じろりと上目遣いで睨んだ。

「ちゃんと、連絡とってるの?」

 ドキッとして千尋の顔を見る。

「あれ、もしかして、あいつのおばあちゃんが退院したのも知らない?」

「え、い、いつ?」

 千尋はやれやれという顔をして、小さく肩をすくめた。

「もう、ひと月になるかな」

 わたしはハッとした。ひと月前と言えば、ちょうど電話がかからなくなった頃だ。千尋はお茶をごくりとひと口飲んでから続けた。

「じゃあさ、ばあちゃんが入院中に呆けてきてたの、聞いてる?」

「え?」

 そういえば何度か、自分のことを父親の名前で呼んだり、ご飯食べたばかりなのにお昼はまだかって聞かれたという話をしていた。『いよいよきたかなって、ちょっとドキッとするんだ』そう言いながらあっけらかんと笑っていた北川君。だからまったくと言っていいほど、深刻な状況など想像していなかった。

「うち、近所だからね、いろんな話が入ってくるのよ。骨折が治って歩けるようになったのはいいんだけど、今度は元気になりすぎて、ちょっと目を離すとすぐいなくなっちゃうんだって。で、北川君しょっちゅう探しまわってるらしいわ」

「そんな……」

 わたしは絶句した。

「あれ、やっぱり心配なんだ?」

 彼女の目にちらりと意地悪な色が浮かぶ。

「そ、そんな言い方」

 千尋はふっと鼻で笑った。

「気になるなら、自分で様子見に行ってみたらいいんじゃない」

「でも、そんな状況だったら、かえって迷惑じゃ……」

 口ごもるわたしを彼女はキッと睨みつけた。

「逆でしょ。この状況になってね、あんたに連絡したら迷惑かけると思ってんのは、たぶんあいつのほうよ。わかるでしょ。あんたから行かなきゃ、もう本当にこのまま終わっちゃうわよ」

 そう言って千尋は縞模様の湯飲み茶碗をぐっとつかみ、残っていたお茶を一気に飲み干した。

「センセイの家、いいお茶の葉使ってるじゃない。もう一杯いれてくれる?」

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