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月夜の黒い羊  作者: 小日向冬子
16/21

その16

 東の空が白み始めていた。わたしたちを乗せた白い車は、逆回転しているかのように昨夜の待ち合わせ場所へと戻って行った。ぼんやりと浮かび上がる見慣れた街並み。いつもの公園、電話ボックス。でもその何もかもが、昨日までとはまったく違う顔をしているように見えた。

 彼は柳町公園の入り口でゆっくりとブレーキをかけ、ハンドルにもたれて小さくため息をついた。

「もう、帰らなきゃね」

「……うん」

「今日もまた、会える?」

 おずおずと彼が尋ねる。わたしは黙ってこくりとうなずいた。

「じゃあ、また同じ時間に、ここで待ってる」

「うん。じゃあ、また……」

 指先に絡みつく、痛いほどの名残惜しさ。離れることができない二重惑星のように、わたしたちは別れ際にまた何度も口づけを繰り返した。吸い寄せられるように互いの頬に触れ、もう一度唇を重ねてから、ようやくつないだ手をほどいて車から降りた。

 寂しい寂しい寂しい。ぎゅっと心臓を押さえながら、無理やりドアを閉める。

 少し歩いてはまた振り返り、彼の笑顔を目にするたびに駆け戻りそうになった。

 公園の先の角を曲がり、とうとう白い車が見えなくなったとき、半身をひきちぎられたような喪失感と同時に、涙が出るほどの高揚感が襲ってきた。幸せで、寂しくて、不安で、嬉しくて、わたしは今にもはちきれそうだった。

 ふわふわと夢を見ているような足取りで、夜明け前の道を急いだ。と、最後の角を曲がったとき、異変に気がついた。

 玄関の明かりがついたままだ。

 出かけるときには、確かに消えていたはずだった。時間はまだ四時を回ったばかりで、父がもし起きていたとしても、外に出ていくとは考えられない。

 嫌な予感がした。

 母屋の玄関の引き戸を開けようとしたが、鍵がかかっている。離れのドアを開けると、新聞のチラシの裏に太いマジックの乱れた文字が躍っていた。

『母さん急変、病院に行く』

 急変?

 嘘だ、嘘に違いない。だって昼間はあんなに元気で、いつもの調子で病院の食事に文句をつけていたではないか。

 けれどそう思いながらも、決してそれが嘘ではないことをわたしは知っていた。

 ああ、よりによってこんなときにわたしは……

 ――まったく、ゆっこはしょうがねえな。

 耳の奥で何度も繰り返されるその声を聞きながら、わたしは必死に自転車のペダルをこいだ。

 どこをどう走ったのか、まったく覚えていない。それでもなんとか病院に到着し、足をもつれさせながら母の元へ急いだ。

「あ、ゆっこ! こっちよ、こっち。早く、母さんが、母さんが……」

 姉の切羽詰まった呼び声。

 ちょうどその直後、病室から手負いの獣のような悲痛な叫び声が聞こえてきた。

「ああぁ、こいつ、俺を置いて逝っちまいやがった!」


 通夜も告別式も、冷たい雨だった。

 わたしの喪服は、父の手術前に、無理やり母に連れられてデパートで買いそろえたものだった。こんなときに縁起が悪いと文句を言うわたしに、

「バカだね、こんなときだからだよ。おまえどうせ、ちゃんとしたのなんか持ってないんだろ? ゆっこぐらいの年になればな、こういうのはいつ必要になるかわかんないんだから、いざというときに困らないようにしとかないとダメなんだよ」

 勝ち誇ったように言いながらもどこかウキウキしたようすで、わたしには絶対に手が出せないような値段の黒のアンサンブルとコート、それに靴とバッグと、そしてパールのネックレスまでそろえてくれた。

「こういうワンピースなら、いくら太ったり痩せたりしても着れるだろ」

 そう言ってご満悦だった母。

 コートまで用意してくれた母の読みは、確かだった。ただ、まさか自分の葬式がそのお披露目になるとは、さすがに思ってもみなかっただろう。

「バカはそっちじゃない」

 こっそりつぶやいてみたけれど、きつい口調で言い返す母は、もういない。

 癌の手術自体は成功だと聞いていた。だが術後二週間たって、癌とは関係なく脳出血を起こしたのだ、と医者は説明した。

「あの人のことだからよ、リハビリ頑張りすぎたんじゃねえか」

「抗がん剤は血管が弱くなるっていうからな。そこんところで力み過ぎて、血圧上がっちまったのかねえ」

 医者は断定しなかったけれども、周囲はみなそんな風に推測し合った。

 父も姉も、ひと言もわたしを責めたりしなかった。なのにわたしにはどうしても、何もかもが自分のせいであるとしか思えなかった。家のことも父さんの世話もわたしには安心して任せられないから、母さんは少しでも早く帰ろうと必死だったのだ。実際あのときだって、家のことを何もかも放り出して男と夜遊びしていたではないか。

 火葬場の煙突から立ち上る煙を眺めながらそんなことを考えていたら、涙が止まらなくなった。

「どうしても焼かなきゃダメ? このままずっと、冷凍保存しておいちゃダメかな?」

 そう言って泣き続けるわたしを見て、姉も一緒にびしょびしょと泣いた。


 葬儀が終わって二人だけのポカンとした生活が始まっても、父はあの夜わたしがいなかったことに触れようとはしなかった。そのことがよけいにわたしを苦しくさせた。

 炊きあがったばかりのご飯が、ほわほわと温かい湯気を立てている。しゃもじで十字に線を入れ、真ん中をそっとすくって、青い小花模様の茶碗に丁寧によそう。静まり返った家の中に、控えめな仏壇のリンの音が響く。目を閉じ、写真の母にそっと手を合わせながら、背中に痛々しい父の視線を感じる。

 毎朝供える炊きたてのご飯。当たり前のこのような行為でさえ、父を苦しめているのかもしれない。昨夜も押し殺したような泣き声が、母屋から漏れ聞こえてきた。

 朝食は、お粥と豆腐の味噌汁、ひき割り納豆に大根おろしだ。父は美味しいとも不味いとも言わず、修行僧のようにわたしの用意した料理を口に運ぶ。

「……四十九日には、形見分けもしないとな」

 父がぼそりとつぶやくのを聞き、わたしは母の遺品を整理し始めた。高そうなものなど何もなかったが、古い桐のタンスには、若いころの着物や婦人会の盆踊りで着た浴衣、おしゃれな柄のブラウスや明るい色のカーディガンが、シワ一つなくきれいにたたまれて入っていた。

『服はな、こうやってすっぺらとたたむんだ』

 そういいながらどんな服もうやうやしく扱っていた母の姿が、目に浮かぶようだった。そのくせ二つのタンスの隙間には、無数のスーパーの袋やチラシや紙袋がぐちゃぐちゃに押し込まれているのが、いかにも母らしかった。神経質なほどにこだわる部分とひどく無頓着なところ。その境界線がいったいどこに引かれているのかは最後までわからないままで、そのわからなさがいつも、わたしたちのいさかいの原因となっていたのだった。

 ボロボロと出てくる明らかな不用品を大きなゴミ袋に放り込んでいると、父が泣きそうな顔で、

「なんだ、それも捨てちゃうのか」

 とつぶやき、その夜中にはまた仏間からすすり泣く声が聞こえた。

 片付けてほしいのかそのままにしてほしいのか、何が大切で何がいらないものなのか皆目見当がつかず、わたしはたびたび途方に暮れた。それでも次の朝にはやはり六時に目を覚まし、軍隊のように布団をたたんで身支度をすると、炊きたてのご飯を供えて家中の雑巾がけをするのだった。


 北川君から電話があったのは、母の死から三週間ほど経ったころのことだった。

 夕飯後の片付けも入浴も済ませ、わたしは離れでひとりただぼんやりと座り込んでいた。と、ドアをノックする音がした。

「ゆっこ、北川って人から、電話だ」

 その声に、父はあのときの逢い引きの相手がこの男だと気づいている、そう感じた。

「……もう寝てるって、言って」

「言ったんだけどな、どうしても起こしてくれってよ」

「いいよ、いくら呼んでも起きないからって」

「……わかった」

 父の足音が遠ざかり、母屋の戸を開ける音がした。

 あの夜、二度と彼と離れたくないと思った気持ちは、そっくりそのままの強さで自分自身を責める声に置き替わっていた。

 親が死んだときに、こっそり男と会ってたなんて。

 親が死んだばかりなのに、その男からまた電話がくるなんて。

 父がそんな風に言ったわけではない。でも、わたしの頭の中には、繰り返しそんな声が聞こえてきてしまうのだった。

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