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月夜の黒い羊  作者: 小日向冬子
15/21

その15

 長い長い接吻の後、わたしたちは磁石のようにぴたりと抱き合った。まるで互いを決して失うまいとするかのように。二人の心臓の鼓動が、ゆっくり重なっていく。

「あ、流れ星」

 北川君が、はじかれたように東の空を指さした。彼が目にしたものを確かめたくて身をよじり振りかえってみたが、その光はとうに見えない。ふと、二人の視線が絡み合い、わたしたちは何とはなしに笑いながら、額をくっつけ合った。そこには、甘い秘密を共有したものだけが持ちうるひそやかな喜びがあった。

「ね、今度見つけたら、何をお願いする?」

「え……と」

 この幸せがずっと続きますように。そう口にしようとした瞬間、不意に怖くなった。

 胸の奥で、もうひとりの自分がささやく。

 こんなことがずっと続くわけがない。わかっているのか、これ以上欲張ったりしたら、この大切な思い出さえも失ってしまうかもしれないのだ。傷つくのが怖いんだろう? だったらその前に、本当のおまえを知って軽蔑される前に、そっと後ずさりして小さな殻に閉じこもり、ただひとり自分自身を憐れみながら生きていけばいい。今までだって、ずっとそうしてきたではないか。

「何、考えてるの?」

 その思考を遮ったいつになく鋭い彼の口調に、わたしはひどくうろたえた。

「べ、べつに……ただちょっと、ぼんやりしてただけ」

 口ごもりながら、あわてて言い訳をする。

「ホントに?」

 そう言って彼は、わたしの顔を真っ直ぐのぞきこんだ。いつだって彼は、わたしのどんな些細な変化も決して見逃さない。それは震えるほど嬉しいことであると同時に、裏を返せばこの人の前では自分を偽れなくなることでもあるのだと、このときわたしは初めて気づいた。

 わたしは頬をひきつらせ、ぎくしゃくと彼から視線を逸らそうとした。が、彼は両手でわたしの頬をそっと挟み込み、顔を近付けてくる。

「こら。今、頭に浮かんでること、言ってごらん」

 ふざけたような表情を作っていても、眼だけはひどく真剣だった。

 誰にも見せたことのない心の深い部分。そこに踏み込もうとするさりげない強引さは、けれどわたしにとっては不思議と心地よいものだった。心の中を力強くまさぐられるたび、ゆっくりと何かが溶けていく。本当はずっと、こんな風にわたしという存在に足を踏み入れてくれる人を、待ちわびていたのかもしれない。

 そのとき、すっと目の端を小さな光が落ちて行った。

 流れ星。

 ああ、この人を、失いたくない。強い想いが、胸に広がっていく。わたしは祈るような気持ちで、暗い夜空を見上げた。

「……ねえ、聞いていいかな。北川君から見たあの頃のわたしって、どんな感じなの?」

「あの頃って、小六の?」

「そう」

「そうだな……まず頭がよくて、何でもできて、曲がったことが大嫌いで、ちょっと頑固で……でもね、いつも、ひどく辛そうに見えた」

 不意に胸を衝かれた気がした。

「ふふ、やっぱり北川君には、隠し事なんかできないや」

 わたしはぽつりとつぶやいた。

「え?」

「ねえ、知ってる? ちゃんと学校に行ってて、テストの点がよくて、何も問題を起こさなければ、それだけで大人は、その子は大丈夫だって思うんだよ。先生も親も、わたしが最後までクラスになじめなかったとか、死にたいほど思い詰めてたとか、これっぽっちも気づいてなかったと思う。毎日毎日、カッターナイフ眺めてたり、雪の中で凍死したら楽かな、とか、睡眠薬ってどうやったら買えるのかな、とか、そんなことばっかり考えて過ごしてたのにね」

 地面に落ちた枯れ葉をつま先でもてあそびながら、わたしはひっそりと笑った。

「……それって、誰かに打ち明けたこと、なかったの?」

「だって、そういう相手がいるような子だったら、そうはなってないよ。あ、でも、そういえば一度だけね、母に、『学校に行きたくない』って言ったことがある。ものすごい勇気を振り絞ってね。心臓が破裂するんじゃないかと思ったくらい。でもそれを聞いた母は……なんて言ったと思う?」

「なんて言ったの?」

「『そんなに親を困らせたいのか、おまえには何も不自由させたことないのに、一体何が不満なんだ』って。ふふ、笑っちゃうでしょ?」

 思い出すだけで、鼻の奥がつうんと痛くなってくる。北川君はただ黙って、わたしの指をぎゅっと握ってくれた。

「だからわたし、勉強したよ。だってもう、それしかしがみつくものなかったんだもの。いい高校入って、いい大学入って、いい企業に入社して……なんでだろうね、ずっと死にたいと思ってたくせに、優等生のレールからはずれることができなかった。そこを下りるときが死ぬときだって、思ってたのかなあ」 

 北川君は少しも表情を変えず、わたしの話に耳を傾けている。

「でも結局、一年も、続かなかったの。次の会社も……三か月でやめちゃった」

「どういう感じでやめたの?」

 そう問いかける彼の声に、少しも責めるような響きはなかった。

「……最初のきっかけは、新入社員の歓迎会かな。出身大学の話になってね。で、『君、頭いいんだね』って言われたから、『はい』って答えたの。自慢するとか見下すとかそんなつもりは全然なくて、ただ事実としてそういうことになるんだろうって、そう思ったのね。でも、翌日から、みんなの態度が変わったのがわかった。ミスするたびに、『頭いいのにね』って言われて、ランチを断ったら、『私たちみたいなバカとは話が合わないんでしょ』って……」

 彼は黙ったまま、少しだけ悲しそうな顔になる。

「本当言うとね、今でも何がいけなかったのか、よくわからない。昔からそうなの。きっとわたしのほうが、本当のバカなの。みんなが当たり前のようにわかることが、なんでだか、わたしにだけわからないの。なんでもことば通りにしか考えられないし、言っていいことと悪いこととか、本音と建前とか、そんなの全然理解できない。でもそうすると、みんなの輪からいつのまにかはずれているの。ああ、またこれだって、いつもそう思う。いつも同じなの。そうすると、自分がそこにいるのがひどく場違いに思えて、ただ苦しくて何の意味も感じなくなって、消えてしまいたくなるの。それでいつも……逃げ出してしまうの」

 ことばにするたびにそのときの気持ちが蘇り、胸に鋭い痛みが走る。わたしはたまらずポロポロと涙をこぼした。

「この世界にはもう、逃げる場所なんて残ってないのに」

「ゆっこちゃん」

 北川君は、震えるわたしの肩を何度も何度も撫でさすった。

「ゆっこちゃんはバカなんかじゃない、全然バカなんかじゃないよ」

 必死に言い募る彼のようすに、また涙が溢れそうになる。わたしは祈るようにぎゅっと目を閉じ、覚悟を決めて口を開いた。

「……北川君に、話さなきゃいけないことがあるの。聞いたらわたしのこと、もう嫌いになるかもしれない。でも、どうしても話しておかなきゃいけないの」

 自分の声がかすかに震えているのがわかる。

「いいよ、言ってみて」

「わたし、わたしね……そうやっていろんな場所から逃げて、何度も逃げて……」

 北川君がごくりと唾を飲み込む音が聞こえた気がした。

「最後は、男の人に、面倒見てもらってたの」

「面倒って……」

 抑えようもなく、頬を熱い涙が幾筋も伝う。

「アイジン、やってた……」

 彼は一瞬息をのみ、うつむいて額を手で押さえると、そのまま押し黙った。その姿に、わたしはすべての終わりを覚悟した。

 ああ、これでまた、すべてを失うのだ。半身が引きちぎられるような、耐えがたい痛み。いくら歯を食いしばっても、あとからあとから涙が溢れ続ける。

 けれども不思議と、心はどこか晴れやかでもあった。ほんの短い間だったけれど、今まで知らなかったたくさんの気持ちを味あわせてもらった。そして彼に、本当のことを言えた。それだけで、充分だとも思えた。

 長い長い時間が経った気がした。ふと気づくと、うつむいた彼の肩が小刻みに震えていた。そしてふわりと髪が揺れたかと思うと、彼の手がわたしの頬に触れていた。

「……ありがとう、打ち明けてくれて。そんなこと言うの……辛かったでしょう?」

 絞り出すような声で、彼はそう言った。わたしの濡れた頬を彼の指がゆっくりとなぞる。彼の瞳もまた真っ赤に潤んでいた。熱を帯びたまぶたに、柔らかな唇がそっと押しあてられた。しぼんだ風船みたいに、体中の力が抜けていく。わたしは、生きている彼の温もりを確かめながら、そっと目を閉じた。そして、彼のシャツに染み込んだ香ばしいタバコの匂いを、深く深く吸い込んだ。


「あんなこと聞いて、わたしのこと、軽蔑とか……しないの?」

 ずっと鼻をすすり続けている彼に、わたしは恐る恐る尋ねた。

「全然。ただ、口にするのにどんなに勇気がいっただろうって、そう思ったら……」

 北川君はそう言って、少し恥ずかしそうに笑った。

「どうして?」

「どうして? だって……あなたの中では、もう終わったことなんでしょう? それとも……その相手にまだ気持ちが残ってる?」

 びっくりしてわたしは首を横に振る。

「それは、絶対ない」

「誓える?」

 そう言って彼は、わたしの目を真っ直ぐにのぞきこんだ。わたしも目をそらすことなく、強く言い切った。

「誓える」

 彼がふっと笑顔になる。

「わかった、信じる。それだったら、いいよ」

 そう言って、わたしの頭を何度もくしゃくしゃと撫でた。そうしながら、その目のふちがまたふっと赤らんだ。

「もしかしたら、ゆっこちゃんには想像もつかないかもしれないけど……僕はね、ずっと、嘘に囲まれて生きてきたんだ。あの家は、言い訳とごまかしと嘘ばっかりだったからね」

 その声には、怒りとも寂しさともつかないものがにじんでいた。

「知ってる? 嘘はね、増殖するんだよ。一度嘘をつくと、それを隠すための嘘をまたつかなきゃいけなくなる。その嘘がまた別の嘘を生む。そうやっていつの間にか、何もかもが偽りだらけになっていく。でもね、たいていの人間は、平気で嘘をつくんだ。少なくとも、僕のまわりにいた人間たちは、みんなそうだった。だから僕は、誰も信じなかったし、これからも誰も信じないまま生きていくつもりだった」

 彼はわたしの瞳を、じっと見据えた。

「あなたに会うまではね」

 彼の背中越しに、またひとつ星が流れていく。

「ねえ、わかるかな。あなたが僕にとって、どれほどの希望なのか。あなたは嘘をつかない。ううん、きっと、嘘がつけないんだ。そのことでこんなに苦しんできたのにも関わらず、ね。それは、あなた自身にとっては呪縛なのかもしれないけれど、僕みたいな人間にとっては……たったひとつの、救いなんだよ」

 そのことばにハッとして、わたしはもう一度彼を見つめた。

「少なくとも僕はね、あなたのことだけは、信じられる」

 彼の瞳が、泣きそうに優しい光を帯びている。

「ゆっこちゃん」

「はい」

「あなたに出会えて……本当によかった」

 彼はごつごつした長い指でわたしの手をとり、頬に押し当てた。

「ううん、わたしこそ、わたしのほうこそ……」

 あとはもうことばにならなかった。わたしはそっと手をほどき、両腕で彼の頭を抱きしめた。この人は今まで、どれほどの孤独と苦しみを抱えてきたのだろう。わたしはその柔らかな髪を何度も何度も撫で、掻き抱くようにまぶたに口づけをした。そして耳元に、頬に、首筋に、唇に、彼を形作る何もかもに、唇を寄せた。二人の魂が震えながらひとつになっていく。離れたくない、もう二度と。

 その日わたしは、彼の腕の中で朝を迎えた。

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