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月夜の黒い羊  作者: 小日向冬子
14/21

その14

 母が激しい腹痛を訴え大量に下血したのは、父が退院したその夜のことだった。半ば意識を失い救急車で運ばれていく間も母は「父ちゃんの世話しないと」とうわごとのように何度もつぶやき続けていた。

 検査の結果は大腸癌で、すでにかなり進行しているらしく、すぐに手術の日取りが決められた。

「それにしても、何も二人仲良く癌にならなくたっていいのに……」

 急を聞いて駆けつけた姉は、目を真っ赤にし口元を歪ませた。本人はどこまで事態の深刻さがわかっているのか、とりあえずの処置でいったん元気になると、さっさと悪いところ切って家に帰してくれと、いつもの調子で言い放った。

 わたしは来る日も来る日も二人の病人の世話に忙殺された。癇症の母は、ほんの少し汗をかいただけで下着も寝巻も着替えたがる。わたしは毎日病室から山のような洗濯物を持ちかえり、家に戻れば戻ったで、父の食事の世話をしなければならなかった。

 胃が半分しかない父は、一度にほんの少ししか食べることができない。消化がよくて栄養価が高いものをと、料理の本とにらめっこしながら一日に五度、食事を用意した。

 銀だらにすりおろした山芋をかけて蒸し、だしの効いたあんをとろりとかけて出してみると、父はいつものように何も言わずに食べた。しばらくして今度は、山芋の代わりにカブを使ってみたら、父はやはり黙って全部食べた後に、

「今日のは山芋じゃなかったのか」

 とだけつぶやいた。山芋がいいともカブはおいしくないと言ったわけではない。それでもわたしはそれ以来、かぶら蒸しを作らなくなった。

 庭の掃き掃除の最中に近所の人が通りかかると、

「母ちゃんもいっつもきれいにしてたもんなぁ。ゆっこちゃんがやってくれるから安心だ」

 と目を潤ませる。わたしはそのたびにまた、笑顔を貼り付けて曖昧にうなずく。

 親孝行な娘。

 誰も知らないのだ。いい大学に入りはしたけれど、中身は何もない空っぽなわたしを。何の仕事も続かず、だらしなく男に体を開いて生きていたわたしを。そのくせこの年になってもまだ、捨てられた子どものような頼りない気持ちを抱えたまま途方に暮れているわたしを。

 今だって、流されるまま仕方なく親の世話をしているだけで、本当はすぐにでも逃げ出したかった。でも、逃げ帰る場所など、どこにもないのだ。

  北川君。

 あなたなら、本当のわたしを見つけてくれるだろうか。このままのわたしを、抱きしめてくれるのだろうか。


 夕飯の片づけを終えて風呂に入ると、母屋の玄関の鍵を閉め、飛び石の上を歩いて庭を横切り、小さな離れに向かう。姉の高校受験の時に建てられたこのプレハブの勉強部屋が、わたしの城だ。

 部屋で身支度を整え庭に出ると、用心してそっとノブを回し、ゆっくりと鍵を閉める。忍び足で門に向かい、玄関の前で耳を澄ませた。大丈夫、何の音も聞こえてこない。父は夕飯を終えるとすぐに奥の寝室に引っ込んでしまうのだ。

 でも、万が一見つかったら?

 そう考えている自分に気づき、ハッとした。この年になってもわたしは、親を恐れている。失望され、今度こそ本当に見捨てられるのではないかと怯え続けているのだ。でも今は、どんなことをしてでも北川君に会いたかった。いや、会わねばならなかった。

 父が退院する時、彼から、ときどき電話をしていいかと尋ねられた。居間の電話で話す声は、ふすまの向こうの両親の寝室まで筒抜けだ。男との電話に眉をひそめる二人の顔が目に浮かび、そのときはどうしてもその問いにうなずくことができなかった。

 暗闇に身を隠して家から遠ざかると、ひと気のない夜道を急いだ。いつも彼と待ち合わせた公園の電話ボックスに入ると、財布のポケットから小さく畳んだメモを取り出し、大きく息をしてじっと見つめた。何度もプッシュボタンに指を伸ばしてはためらい、ため息をつく。

 怖い。けれどももしこのまま何もせずに家に帰ったら、わたしはずっとこの焼けつくような想いと後悔を抱えて生きていかなくてはならないのだ。

 大きく息をつき、とうとうわたしは思い切ってその番号を押した。コール音が聞こえる。一回、二回……

『はい、北川です』

 柔らかいその声に、胸の中でふわっと花が開いたような気がした。

「……北川君?」

『ゆっこちゃん? ああ、やっとかけてくれた』

 そう言う彼の声は、軽やかに弾んでいた。


 十五分ほどすると、見覚えのある小型の白いセダンが柳町公園の入り口に止まった。駆け寄ると、タバコをくわえた北川君が振り向いて、親指で助手席に乗れという仕草をした。わたしはあたりを見回してからドアを開け、いつものようにすばやく助手席に滑り込んだ。懐かしいタバコの香りが鼻の奥をくすぐる。

「やっと会えた」

 北川君がニッと笑った。

「ごめんなさい、なかなか電話できなくて」

「ひょっとして……お父さんに内緒で抜け出してきた?」

 あまりにたやすく図星を指されたわたしは、気恥かしさに目を伏せた。が、そんなことお構いなしに、彼は続けた。

「早坂さんからだいたいのことは聞いたけど、お母さんはどうなの?」

「うん、手術で悪いものは全部とれたらしいし、順調に回復してる。とにかくじっとしていられない人だから、抑えるのが大変なくらい」

「じゃあ、ひと安心だね」

 そんなことを話しているうちに、車は風車のある公園のがらんと広い駐車場に入って行った。

「知ってた? 今日ね、流れ星がたくさん見えるんだって」

 そう言えば、テレビのニュースでそんなことを言っていた気がする。

「星、詳しいの?」

 わたしの問いに、彼は茶目っ気たっぷりの表情で答える。

「ぜーんぜん。ただの受け売り」

 その口調に、こっちも何だか気が楽になる。

 乾いた落ち葉の音を聞きながら、池のまわりの遊歩道に足を踏み入れた。正面に大きな風車の影が浮かび上がる。その手前に作られた小高い丘を、わたしたちは目指した。

「上まで行ってみようよ」

 北川君が差し出した左手に自分の右手を重ねて、枯れ葉を踏みしめながら丘の頂上に続く階段を上って行った。まるで中学生の恋愛みたいで、なぜだか知らずに涙がにじんできた。

「確か東の方角って言ってた気がするから、こっちかな?」

 丘の上のベンチに並んで座り、それらしき方向をじっと見つめる。月のない夜。周囲にも人影はなく、ただ果てしない静寂が広がっていた。

「寒くない?」

「大丈夫」

 そう答えたのに、彼は自分が羽織っていたジャケットを脱いでわたしの背中にかけ、可笑しそうにくすくすと笑った。

「ごめん、どうしても一度ね、こういうの、やってみたかったんだ」

「ふふふ、あったかい。それになんか、北川君臭い」

わたしはジャケットの襟のあたりに鼻をうずめて、深く息を吸い込む真似をした。

「え? 僕、臭い?」

 彼はあわてて自分の腕に鼻をあてて、くんくんと匂いを確かめる。そのようすに、不意に愛しさがこみ上げてきた。

「ううん、すごく、いい匂い。生きてる北川君の匂い」

 ああ、好きだ。たまらなくこの人が好きだ。

 まるで強い磁場にからめとられてしまったようだった。わたしは吸いこまれるように彼に近付き、柔らかな頬にそっと口づけをした。

「唇じゃないの?」

 くるっとした瞳でわたしを見つめ、彼が言った。そのことばに促されるように、わたしはもう一度そっと顔を近づけた。

 体中の細胞が開いていく。こんな感覚は初めてだった。わたしたちは夢中で何度も唇を重ねた。


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