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月夜の黒い羊  作者: 小日向冬子
13/21

その13

その13を書くにあたり、その12の最後を大幅に変更いたしました。すでに12を読んでくださっている方、申し訳ありませんがもう一度ご確認いただけると幸いです。

 次の日の夕方、母と一緒に担当医から退院後の注意事項を聞き終えると、不要になった着替えやタオルがぎっしりと詰まった紙袋を抱え、父の病室を後にした。いよいよ明日は退院だ。もう毎日ここに通うこともなくなるのだ。ほっとしたような寂しいような気持ちで時間外入り口から出ていくと、北川君が植え込みの影から子どもみたいにぴょこんと顔を出した。

「お疲れさん」

「あ……」

「今日ね、最後だし、一緒に歩いて帰らない?」

「……うん」

 宙ぶらりんの関係では、どんな顔をしたらいいかわからない。ぎくしゃくとうつむいたまま自転車を押し、熱気をはらんだ西日を浴びながらいつもの帰り道を辿る。当たり前のようにとなりを歩く北川君の、明るい瞳の色、髪からほのかに匂い立つタバコの香り、麻のシャツをまとった強くしなやかな体の質感、ふわふわと柔らかな笑顔。手を伸ばせば届く場所にあると、意識するだけで胸が高鳴る。そしてその何もかもを、失いたくないとあらためて強く思う。

「うわ、すごい。なんか、不思議な感じ」

 素っ頓狂な彼の声に顔を上げると、ちょうど夕陽が遠くの建物の影に落ちていこうとするところで、どの家も西側の屋根だけがことごとく金色に光り、街は普段とまったく違う顔を見せていた。思わずわたしたちは立ち止まり、ぽかんと口を開けたまま、神秘的なその光景にしばし見入った。

 やがて一瞬の輝きが過ぎ去り、音もなく夕闇が降りてくる。道路の脇の用水路でザリガニを捕まえていたランニング姿の子どもたちが、口々に何か叫びながら、プラスチック製のバケツをゆらゆらとぶら下げて走り出す。そのようすを見ながら、北川君はふふっと思い出し笑いをした。何を笑っているのかわからないまま、わたしの口元もつられてゆるむ。

「六年生の一学期の終わりにね」

「うん」

「僕、こっちにきて初めて、本物のザリガニを見たの」

「え、初めて?」

「それまでは、田んぼとか全然ないところに住んでたからね」

「そっか、東京にいたんだもんね」

「で、夢中になって、ザリガニ捕りしてたらね、クラスのやつらにからまれたんだ。恥ずかしい、そんなの、小さい子がやる遊びだぞって」

 そう言われてみれば確かに、ここで見かけるのは低学年の子どもたちばかりだった。

「それにさ、服も持ち物も、ほかの子とはちょっと違ってたんだろうね。しゃれた格好して、おまえ生意気だぞって」

 そう、あの年代の子どもたちにとって、みんなと違うというのは致命的なことなのだ。

「それでね、みんなに詰め寄られて、今にも用水路に突き落とされそうになったとき、ちょうどおかっぱ頭でメガネをかけた女の子が通りかかってね、すごい剣幕で『あんたたち何やってんのよ!』って」

 夏の焼けつくような日差し、埃っぽい砂利道、草いきれ、赤いランドセルと水色のプール用バッグ……

「もしかして、それ……」

「思い出した?」

 そうだ。いつだったか、学校から帰る途中で、大勢の男子がたった一人をいじめている現場に出くわして、卑怯だと食ってかかったことがあった。さすがに女子に手を出すこともできなかったのだろう、彼らは興醒めしたようにすぐにパラパラと立ち去ってしまった。

「あー、やっと思い出してくれた」

 そう言いながら嬉しそうにわたしを見た大人の北川君は、種明かしをされた今でも、あの青白い男の子とはうまく結び付かないままだった。彼は少し恥ずかしそうに続けた。

「僕ね、そのときたぶん、その、すごく弱ってたんだ。なんか、なにもかもどうでもよくってさ。僕なんて、川で溺れて死んだって別にいいやって」

「そんな……」

「ホントだよ。毎日、どうやったらこの世界から消えられるかって、そんなことばかり考えてたの」

 そう言って彼は、話している内容と裏腹の、あっけらかんとした笑顔をみせた。

「でもさ、その女の子は、そんな僕のこと、必死に守ろうとしてくれたんだよね。顔真っ赤にして、声枯らして、自分より明らかに強そうな男子と怒鳴り合って……それ見てたら、胸がじわっとあったかくなってね。僕ももっと強くなろうって……そう思えたんだ」

 そこまで言ってから、北川君は立ち止まり、わたしの目をじっと見据えた。

「そのときからね、僕の中には、ずっとあなたがいたんだよ、ゆっこちゃん。そのことだけは、ちゃんと伝えておきたかったの」

 胸が詰まって何と答えていいかわからず、黙ったままただこくりとうなずいた。ひとりぼっちだったわたし。彼と同じように、この世界から消えることばかり夢見ていたわたし。みんなに疎まれ、自分でも大嫌いだったあの頃のわたしが、知らないところで誰かに勇気を与えていたなんて。

 日が暮れて、少しずつ空気が涼しさを取り戻していく。わたしは彼のとなりでゆっくり自転車を押しながら、胸の奥にともったかすかな明かりを、何度も何度も噛み締めていた。


「退院、おめでとうございまぁす」

 玄関まで見送りに出てきてくれた千尋が、ピンクの唇の両端をニッと持ち上げた。

「井原さん、家に帰ったからって、あんまり急に無理しちゃだめですよ」

「はい、はい。すみません、本当に、いろいろお世話になりました」

 いつものように憮然としたようすの母の横で、父が笑顔を作りながら、ちらほらと白髪の混じった頭を深々と下げる。

 タクシーが来るまでにまだ時間があると見るや、千尋がわたしを玄関の柱の裏に手招きした。

「あのね、こんなこと、わたしから言うのも変なんだけど」

 声を落として千尋がささやく。

「北川君のこと、よろしくね」

「え?」

 耳がカッと熱くなった。

「そ、そんなこと……」

「まだ毎日会ってるんでしょ?」

「いや、その……」

「だから、今さら隠したって、意味ないから」

 千尋はあきれたようにため息をつく。

「センセイって、なんでそんなに自信なさそうにしてんの? 昔っからそうだよね? 成績だっていいし、絵も習字もうまかったし、何だってできるのにいっつもおどおどして、わたしは何もできませんみたいな顔して。それってね、周りはよけいに惨めな気持ちになるんだよ」

「……ご、ごめん」

「だから、そこで謝らないの。そんなふうだから、見てるとついイジワルしたくなるんだわ。あんたはね、やることちゃんとやってるんだから、もっと堂々としてたらいいのよ」

 ぶっきらぼうな口調で、千尋が言った。

「そうでないと、わたしがふられた甲斐がなくなるから」

 わたしは驚いて千尋を見た。彼女は小さなため息をつき、口元を歪めてみせた。

「まあそもそも、わたしの手には負えないって気はしてたんだけどね。いつもへらへら笑ってるくせに、実はなんかしんどいもの背負ってるでしょ、あいつ。悔しいけど、センセイにだったら心を開く気がする。ま、せいぜいうまくやんなさい。あ、タクシー来たみたい」

 そう言って千尋はテキパキと荷物をタクシーに積み、満面の笑顔でわたしたちを送りだした。

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