その12
彼は、誰にでも優しいのだ。
そして誰とでもあの店に行き、誰にでも簡単に寂しい生い立ちを話して同情を買おうとする人なのだ。
何度もそう自分に強く言い聞かせながら、身を固くして助手席に座った。けれども、わたしの心は完全に理性を無視して、いつものように、彼の的を得た優しさにだらしなく傾いていった。
思っていた通り、母はわたしの体調が悪いことになど少しも気づかず、いつものように仏頂面で弁当箱を受け取った。やっぱり、とわたしは心の中で皮肉な笑みをこぼしながら病室を後にし、北川君の車に戻った。
「大丈夫?」
彼が心配そうにのぞきこむのを見て、わたしは初めて自分が少し涙ぐんでいることに気がついた。ふっと心が倒れこみそうになるのをぐっとこらえて、唇をかんでうなずく。
「もし体が平気だったら、少し、話さない?」
「……少しなら」
戸惑いがちに答えると、北川君は小さく微笑んだ。車はいつものバラードを流しながら、いつもの道を走り出した。けれどもわたしは、のどの奥に何かがつかえているようでうまく息ができない。走っている間中、そわそわと頬や口元や胸を手で何度も押さえ、唾を飲み込んだ。
「ごめん、やっぱりそのまま送って行ったほうがよかったかな」
いつもの公園に着くと、北川君はわたしの顔色を見てうろたえたように言った。
「とりあえず、もう少し体を倒したほうがいい」
そう言って彼はわたしの体にかぶさるように身を乗り出し、シートの脇のレバーを引いた。鼻先で髪が揺れ、香ばしいタバコの匂いがわたしを包む。その瞬間、かろうじて自分を支えていたわずかばかりの理性が、カチッと音を立ててはずれた気がした。突然、目に見えない激しい濁流に飲み込まれたかのように、まったく息ができなくなった。わたしは溺れかけた人のように必死でもがきながら、目の前で揺れる彼のシャツをぎゅっと握った。彼は驚いた顔で、こちらを見た。
「大丈夫? 気持ち悪い?」
わたしはかすかにうなずきながら、両手で彼にしがみついた。
「どうした? どんな感じ?」
「……苦しい……」
荒い息をしながら、やっと答える。呼吸がどんどん激しくなっていき、手足がぼんやりとしびれていく。
「とにかく、横になりなさい。病院に戻ろう」
そう言って彼はわたしを倒したシートに寝かせようとしたが、わたしは力なく首を横に振りながらながら、なおも彼にしがみつこうとした。
「病院はいやだ……」
「ゆっこちゃん」
北川君は助手席に身を乗り出した不自然な姿勢で、大きく息をしているわたしの背中を何度も何度もそっと撫でた。わたしの体は縮こまり、寒いわけでもないのに小刻みに震えていた。
「大丈夫だから、落ち着いて。ね?」
車内に流れるささやくようなスローバラードに、優しい子守唄のような北川君の声。ごつごつした手のひらから、じんわりと温もりが伝わってくる。
「ゆっくり息を吸ってごらん。じゃあ今度は、ゆっくり吐いて」
最初はそれでもわたしの意志に逆らって激しく暴走し続けようとしていた呼吸が、北川君の柔らかな声に組み敷かれるように少しずつ穏やかになっていく。それを何度も繰り返すうち、次第にわたしの胸に規則正しいリズムが戻ってきた。やがて嵐が去った後のような脱力感が静かにわたしを包み、いつしか意識が遠のいていった。
どのくらいの時間が経っていたのだろう、すっかり眠ってしまっていたようだった。車の窓から見える空は真っ暗で、細く立ち上る白い煙がそこに吸いこまれるように消えていくのを、ぼんやりとした頭でしばらく眺めていた。煙を辿って視線を下に移していく。細長くごつごつした指につながるしなやかな腕。肩の上の軽くウェーブのかかった髪に辿りついたとき、急に彼が振り返った。わたしを見て、あ、という顔になると、慌ててタバコの灰を地面に落としながら運転席に乗り込んできた。
「どう、楽になった?」
心配そうに彼が尋ねる。
「……うん、もう大丈夫だと思う」
「ああ、よかったー」
彼はシートにもたれ、祈るような仕草をして微笑んだ。
「あの……」
「ん?」
「……ごめんなさい」
小さくなってわたしが謝ると、彼は逆にしょんぼりとうなだれた。
「あのさ、もしかして食事作り、結構無理してたんだよね? 僕、ついつい甘えちゃってた。こっちこそあやまらなきゃ」
「そ、そんなこと……」
わたしが作りたかったんだからと口にしかけてから、そのことばはまるで愛の告白だと気がついて、思わず黙りこんだ。
「……お父さん、あさって退院だって言ってたよね」
「うん」
この人の喜ぶ顔を想像しながらメニューを考え、せっせと買い物をし、包丁を握った時間。ほんの短い間だったけれど、今まで味わったことがないほど幸せだった。何を言っていいかわからない。その沈黙を、スローバラードが静かに埋めていく。そうだ、この曲を聴くのも、今日が最後かもしれないのだ。
「……これからはもう、今までみたいに、食事作れなくなっちゃうね」
冷静さを装ってそう言ってはみたが、目が潤み、自分の声が震えているのがわかった。そんなわたしを、彼はしばらくの間じっと見つめていた。
「それは……もう会わないってことじゃないよね?」
声の真剣さに、わたしは思わず顔を上げた。彼の顔は怒っているようにしか見えなくて、わたしは一瞬ひるんだ。彼は、まずい、という顔をしてから、ごくりと一度唾を飲みこみ、ゆっくりと口を開いた。
「僕は……えっと、僕はこれからも、二人で会いたいと思ってるんだけど」
「えっ……」
「ゆっこちゃんは?」
北川君の視線が真っ直ぐにわたしを捉える。頭の中が真っ白で、考えがまとまらない。固まったまま何も言わないわたしに焦れるように、彼は畳みかける。
「……いや?」
その声が急に暗い響きを帯びる。
「そうじゃない、そうじゃないけど……」
わたしは必死に否定する。
「そうじゃないけど、何?」
「だから……」
「だから?」
北川君はわたしから決して目をそらさない。わたしは思わず視線を落とし、口をぎゅっときつく結んだ。
「だから、何?」
彼がぐいぐい近付いてくる、誰も踏み込んだことのないところまで。不意に恐ろしくなり、反射的にくるりと背中を向けそうになった。けれどわたしが拒絶したら、彼はそのまま遠ざかり、二度と手の届かないところに行ってしまうに違いない。
「言ってみてよ、ゆっこちゃんが思ってること」
彼はさらに顔を近づけて、私の瞳をのぞきこむ。
「……こ、怖い」
わたしは絞り出すようにそれだけ言った。北川君はハッとして、ばつの悪そうな顔で頭をかいた。
「ごめん、強引過ぎた」
「違う、そうじゃない、そうじゃなくて……」
わたしは声を裏返らせながら、必死にことばを探した。
「わ、わたし、バカだから。バカみたいに、何でも本気にしちゃうから。相手が軽い気持ちで言ったことも、全部本気にしちゃう。だから、北川君のことばだって、真に受けちゃだめだって、ずっとそう思って……」
とうとう言ってしまった。体ががくがくと震えている。北川君は驚いた顔でそれを見ていたが、やがてふっと表情を崩した。
「わかってないなあ、ゆっこちゃん。僕はね、あなたのそのバカみたいに真っ直ぐなところが、たまらなく好きなんだよ」
翳りのない瞳でそう言われて、よけいに怖くなった。
あのことを知ったなら、彼はいったいどうするだろう。男に体を開き、堕ちていくにまかせて生きていたあの日々。軽蔑されるに違いない。踵を返してすぐさまわたしから去っていくかもしれない。できることなら、何もなかったようなふりをして、ずっとこうしていたかった。でもこの先に進もうとするならば、決して避けて通るわけにはいかないのだ。わたしの中で、それだけははっきりしていた。
「ごめんなさい、もう少し、待っててもらえる?」
別れ際、震える声でそう告げた。彼は何か聞きたそうにしていたが、それを飲み込むように、わかった、とだけ答えた。




