その11
あたりを見回し、誰にも見られていないことを確かめてから、そっと門を出る。夕闇の迫る街角をひとつまたひとつと曲がるたび、胸が苦しくなっていく。あの公園の、あの木の茂みの向こう側に、もしあの白い小型のセダンがなかったら? 車の中で聞いたバラードも、あのとき交わした会話も、わたしに向けられた柔らかな笑顔も、全部夢だったとしたら? 待ち合わせ場所にその姿を見るまで、不安でおかしくなりそうだった。薄闇の中でゆらめくタバコの煙を見つけ、ようやくこれは夢ではなかったと、深い安堵のため息を漏らす。
助手席に乗り込むわたしの目が心なしか潤んでいることを、北川君は決して見逃さない。
「どうした? 何かあった?」
そう言って顔をのぞきこまれただけで、体がカッと熱くなる。何と答えていいかわからずに黙ってうつむき、かすかに首を振るわたしに、彼はそっと手を伸ばし、頭をポンと叩く。心地よいタバコの香り。それだけで、思わず泣きそうになる。三十八度の熱が出たときも、ストーブでやけどをしたときも、毎日のようにいじめられて死にたいと思い詰めていた日々も、親でさえ気づいてはくれなかった。なのにどうして、この人にはわかるのだろう。
二人分も三人分も作る手間は変わらないからと、自分からそんなことを言い出したのは、会い続ける理由が欲しかったからだ。けれども、どうせなら一緒に食べようと北川君が言ってくれるなんて、思ってもみなかった。それからは毎晩、柳町公園で落ち合うとまずそのまま彼の車で病院に向かい、病棟の裏の一番目立ちにくい場所に停めて母の夕飯を病室に持っていった。
一度だけ、朝の交代の時になじられた。
「ゆうべは何時から寝てたんだ。ティッシュもうひと箱持ってきてもらおうと思って電話したのによ、いくら鳴らしても出ねえんだから、まったく」
一瞬心臓が飛び出しそうになったが、娘が電話の音に気付かないほどぐっすり寝入っていたことを疑いもしないその口調に、ほっと胸をなでおろした。家を抜け出してこっそり男と会っているなんて知ったら、この人は一体何を言い出すことだろう。
病院から十分ほど車で走ると、風車のある大きな公園に着く。がらんとした駐車場に車を停めて、二人分のお弁当を広げた。最初は池のほとりのベンチに持っていったのだが、あちこち蚊に刺された上に通りすがりのカップルに変な目でじろじろ見られ、次の日からは、車の中で食べることにした。
お行儀よく「いただきます」と手を合わせ、嬉しそうに箸を動かしはじめた北川君が、口をきゅっとすぼめて目を丸くする。
「うわ、すごいね、こんな固くてしょっぱい梅干し、久しぶりに食べた」
「あ、ご、ごめんなさい、食べにくい……よね?」
家ではずっと当たり前のように食べていたけれど、考えてみれば市販のものとは全然違う。思わず身をすくめて謝るわたしに、彼は不思議そうな顔をする。
「そうじゃなくて、すごく正直な味がするから、びっくりしたの。ね、これって、自家製、だよね?」
「毎年、母が漬けてたから、たぶん今年も……」
「そっか、あのお母さんね」
北川君は顔を上に向けて、面白がるようにくすくすっと笑った。
「塩はきついけど、嘘のない味。僕は、嫌いじゃないなぁ」
えっ、と声がでそうになった。わたしは不思議な生き物を見るような気持ちで、おいしそうに目の前のお弁当を平らげていく彼を見つめた。
来る日も来る日も、わたしの頭の中はその日の夕飯のことでいっぱいになっていた。少ない予算で、どうしたら彩りよくバランスのとれた、満足感のある食事が作れるだろう。畑で採れた人参やインゲンを薄切り肉で巻いてみたり、庭の青じそを千切りにしてゴマと一緒にご飯にまぜたりと、思いつく限りの工夫をこらした。そうして出来上がった料理を食べる北川君の、満足そうな顔。わたしは生まれて初めて、自分ではない誰かのために何かをすることの喜びを知った。
突き刺さるような夏の日差しが徐々にその勢いを失い始めたころ、とうとう父の退院が決まった。父も母もずっと家にいるとなれば、今までのようにこっそり一人分多く食事を作ることも、それを持ち出すことも、そもそもわたしが抜けだすこと自体難しくなるだろう。
沈んだ気持ちで病棟のトイレに向かうと、患者の尿量をチェックしている千尋に出くわした。彼女はわたしの顔を見るなり軽く眉を上げて、手に持ったファイルに数字を書き込みながら言った。
「お父さん、もうすぐ退院だね」
「あ、うん」
「明日家族にも退院後の注意とかあるから、よろしく。井原センセイ、このまま実家にいるの?」
「当分はそのつもりだけど……」
まだ話が続くのかと思い個室に行くのをためらっていると、ファイルから顔を上げた千尋は不意にわたしをにらみつけた。びくっと身をすくめる。
「ね、センセイってさ、北川君と付き合ってんの?」
「え? い、いや、付き合ってるわけじゃ……」
唐突な問いかけに戸惑うわたしを、彼女はさらに強い視線で射すくめる。
「へえ、付き合ってもいないのに、毎日車で出かけるんだ」
「え? あ……いや、それは、あの、ただ夕飯を……」
すっかり動揺して、思うようにことばが出てこない。あんなに気をつけていたのに、一体どこで、誰に見られていたのだろう。そんなわたしの気持ちを見透かすかのように、千尋はうっすらと笑いながら言った。
「どうしてばれたの? って顔してるね。心配しなくても大丈夫、気づいてるのたぶんわたしだけだから」
わたしのほっとした顔を見て、千尋はあきれたように言った。
「そんなに隠したいならね、もっとうまくやんなさいよ。いつも、病院のすぐ裏に車停めるでしょ。すぐ上の病室から丸見えだから」
「いや、だから、そういうんじゃ……」
千尋はおどおどするわたしをもう一度にらみつけると、口の端を意地悪そうに歪めた。
「国道沿いのファミレスでも行った?」
「え?」
「で、小さいころの話とか聞いちゃったのかな」
そう言って千尋は、意味ありげにふふん、と笑った。頭の中が真っ白になった。
「ああ、別に付き合ってるんじゃないんだもんね、関係ないか」
わざとらしい口調でそれだけ言うと、千尋はキュッキュッとリズミカルにナースサンダルを鳴らしながら去って行った。
一気に世界が灰色になった気がした。まるで何かの回路がぷつんと切れたみたいだった。やらなければならないことはたくさんあるのに、体がちっとも思うように動かない。いくら考えようとしても夕飯のメニューは思いつかず、台所に立つ気力もまったくわかなかった。冷凍食品のコロッケと、千切りのキャベツと、炒り卵。途中で何度も座り込み、母の分だけはどうにか詰め終えた。味も素っ気もないお弁当からは、「こんなもんでいいんだろ」という声が聞こえる気がして、泣きたくなった。
何度もためらい、受話器を持っては戻し、深呼吸をして、やっとの思いで北川君の家に電話をした。ひどく迷いはしたが、黙って約束をすっぽかすことだけは、どうしてもできなかった。一回、二回と、コール音が聞こえる。体中が心臓になったみたいに脈打っている。
『はい、北川です』
受話器から聞こえるいつもと同じ柔らかな声に、息が止まりそうになる。
「あ、あの、井原、です」
『ああ、ゆっこちゃん、どうしたの? 今出ようとしてたところだけど』
「あ、あの、その……ご、ごめんなさい。今日、夕飯、作るの無理かも……本当に、ごめんなさい」
『え? どうしたの、何かあった?』
「えっと……あの、ちょっと、そう、調子が悪くて……」
『大丈夫? どんな感じなの? どこか痛いの?』
北川君の声の必死さに、胸が熱くなった。でもきっとこの人は、誰に対してもこうなのだ。そう何度も自分に言い聞かせ、高ぶる気持ちを押さえつける。
「ううん、どこも痛くはないんだけど……なんか、すごくだるくて……でも、寝れば治ると思うから」
『お母さんの食事は?』
「うん、それだけはなんとか作ったから、少し休んでから持っていこうかと思って」
『じゃあ、ちょっと待ってて、すぐ行くから』
「え?」
その言葉を確かめる間もなく、電話は切れてしまった。
五分ほどすると、玄関の呼び鈴が鳴った。軽いめまいを感じながらふらふらと出ていくと、そこには北川君の姿があった。
「うーん、顔色悪いね。疲れてるでしょ」
わたしは黙って視線を落とした。気持ちのせいなのか本当に体がおかしいのか、自分でもよくわからなくなっていた。
「お母さんの食事、僕が持っていくよ」
「いや、それは……」
「え、だめ? いいじゃない、ゆっこちゃん具合が悪いみたいなんでって言えば」
「うん、あの人、そういうのはちょっと……」
子どものころから、風邪をひいてもケガをしても、どうしてそんなに面倒をかけるのかと、母はわたしを怒った。わたしはいつしか、弱った自分の姿を、母にだけは決して見せたくないと思うようになっていた。けれどそんなこと、どう説明していいかわからない。わたしは握りこぶしを口元に強く当てて、唇を左右に歪めた。北川君はしばらく黙って考え込んでいたが、やがて思い切ったように言った。
「よし、じゃあ、病院まで乗せてくよ。ただし、そのあとはちゃんと休むこと」




