その10
走り出した車内に、ささやくような歌声のスローバラードが流れはじめた。車は細い道をくねくねと抜けて、バス通りへと向かう。何度も何度もカーブを曲がるそのたびに、体が横に倒れていってしまわないように、足にぐっと力を込める。
「料理って、お母さんに教わったの?」
「え? ううん」
信号が赤になり、小さなセダンは静かに停まる。
「うちの母は、なんていうか……そういうの、全然ダメな人だから」
「なるほど」
北川君は納得したように小さく笑った。
「あ、でも、姉はすごく上手いよ。料理も、お裁縫とかも」
「お姉さんって、この間、病院で会った人?」
「そう。あの人はね、すごいの。家事だけじゃなくて、優しいし、しっかりしてるし、気が利くし、それでいてでしゃばらないし」
「ああ、そうだね、確かに、そういう感じだね」
この前のことを思い出していたのか、視線をしばらく宙に浮かせたあとで北川君がうなずいた。そもそも自分が姉をほめちぎったくせに、北川君があっさりそれに同意するとじりじりと嫉妬する。何という矛盾。
「えっと……北川君のお母さんは? 料理、上手なの?」
話の矛先を変えようと何気なく口にしてから、しまったと思った。
「あ……ごめん」
「ん? ああ、いいよ、別に」
「でも」
「いいってば。そんなに気を使われると、逆に困るでしょ」
「……ごめんなさい」
しょんぼりとうつむいているうちに、涙がにじんでくる。さっきまでの華やいだ気持ちがウソみたいにしぼんでいく。やっぱりわたしはダメだ。姉のようにはなれない。やがて信号が青になり、北川君がアクセルを踏みこんだ。
「無神経なこと言っちゃったって、思ってる?」
「……」
のどに絡まって声が声にならなず、ただかすかにうなずく。
「だから、気にすることないって」
「……」
ふっと小さなため息が聞こえた。
「バカだなあ」
そう言って彼は、下を向いたままのわたしの頭を軽くポンポンと叩いた。するとそれが合図みたいに、ホロホロと涙が止まらなくなる。どうしてわたしは、こうなのだろう。せっかくの楽しい時間が台無しだ。顔を上げることもできないまま、車はひたすらに走り続けた。しばらくすると、ブレーキがかかる音がした。
「ほら、ちゃんとこっち見て」
北川君がわたしのおでこを軽く触る。おそるおそる見上げると、彼はほんの少し困ったような顔をしている。
「怒ってるわけじゃないから。ね?」
「……はい」
「まったく、ゆっこちゃんったら」
北川君はそう言って、その長い指でわたしの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「でも、ちょうどよかった。いずれあなたには、ちゃんと話そうと思ってたんだ」
「これが、小さいころの朝ご飯」
北川君が手にしていたのは、スティックシュガーだった。わたしは何の事だかわからず、ポカンと彼の顔を見返した。国道沿いのファミリーレストラン。わたしたちは窓際のテーブルに、向かい合って座っていた。
「朝ご飯って」
「うん。うちの母、それこそ家事をしない人でね。朝はたいてい、袋に残ってるお菓子を食べたり、ジャムをなめたり、でなければこれを口にザーッと流し込んで、学校に行ってた」
彼はひとごとのように、淡々とした口調で言った。
「そんな顔しないでよ、大したことじゃないんだから」
「でも……」
わたしの顔をちらりと見ると、彼はふっと微笑んだ。
「そっか、やっぱりこれって、普通じゃないよね。でもね、小さいころは、どこのうちもそんなもんだと思ってたんだ。それに、学校に行けば給食が食べれたから、別にどうってことなかった」
手に持ったスティックシュガーを器用にもてあそびながら、彼は話し続けた。
「最初は起きてこないだけだった母がね、そのうち家を空けるようになったの。しばらくすると、とうとう帰ってこなくなったんだ。気づいたときにはクローゼットはきれいに空っぽでさ。さすがに父もまいって、僕を祖母のところに連れてきたんだ。それが、六年生の夏」
ひょろりとした青白い顔の、もやしのような転校生。
「お母さんは……どこへ?」
「ん? 男と、逃げてた」
彼は、そのことばにまったく不釣り合いな白い歯を見せて笑った。姉が言っていた噂は本当だったのだ。
「だから、そんな顔しないでってば。僕はもう、なんとも思ってないんだから」
「だって……」
北川君の顔は、確かにふんわりと微笑んでいるはずなのに、どうしても泣いているようにしか見えなかった。こんなとき、いったい何を言ってあげたらいいのだろう。
「でもね」
言いかけて北川君はストローに口をつけ、アイスコーヒーをごくりと飲んだ。
「夏休みの終わりに、母がひょっこり僕を迎えに来たんだ。これからは、お母さんと二人で暮らそうって」
「何それ……」
そう言ってしまってから、わたしはあわてて口をつぐんだ。北川君がほんの一瞬、悲しそうな目をしたからだ。けれどすぐにまたふっと微笑んで、彼は話を続けた。
「そうだよね。今思うと、すんごい勝手な話。でもね、子どもってホントにバカでさ。僕はそのとき、飛び上がって喜んだんだ。また、お母さんと暮らせるって」
幼い北川君の姿が、目に浮かぶ。
「……お父さんは何て?」
「もちろんすごく怒ってたけど、僕がどうしてもそっちに行くって言ったから、まあ、仕方なくね」
「じゃあ、それからはずっと、お母さんと?」
「いや、ひと月で、追い出された」
彼は目を伏せたまま、ストローでカラカラと氷の入ったアイスコーヒーをかきまぜた。
「え……」
「すぐに新しい男ができたからね」
北川君が口の端で皮肉な笑みを漏らした。
「で、あとはずっと父と母の間を行ったり来たり。おかげで、こんなひねくれた性格になっちゃった、ふふふ」
彼はそう言って笑みを浮かべながら、箱から取り出したタバコを口にくわえ、ライターで火をつけた。
「別に……ひねくれてるとは、思わないけど……」
ためらいがちにそうつぶやくと、彼はまっすぐわたしの目を見て、にっこり笑った。
「そう思うのはね、ゆっこちゃん、あなたがひねくれてないからだよ」
「え?」
どう答えていいかわからない。わたしは黙って、すっかり汗をかいたアイスミルクティーのグラスを手に取った。北川君の瞳が、くるんと丸く輝いた。
「ゆっこちゃん、今の僕の話、全部本当だと思ってるでしょ?」
「え、え、ち、違うの?」
わたしはびっくりしてグラスを落としそうになった。北川君はくすりと笑って、いたずらっ子みたいな顔をする。
「実は嘘」
「え」
私が一瞬気色ばんだのを見逃さず、面白がるように彼は眉を上げた。
「なーんちゃって、本当は、本当に本当だよ。でも、嘘って可能性もあったわけじゃない? それ、考えてた?」
わたしは黙って首を横に振った。
「でしょ? だからね、そうやって人の話を疑わないで聞けるっていうのが、ひねくれてない証拠。もし僕だったらね……最初から最後まで、こいつ作り話してるんじゃないのか? って身構えながら聞くな」
「そんな……わたし、全然そんなこと、考えてなかった」
「だからね、自分ではわからないかもしれないけど、それだけゆっこちゃんは、恵まれてるんだよ」
北川君のことばに、わたしの胸はぴりりと痛んだ。両親揃っていて三度三度の食事にもちゃんとありつけて、そんなに恵まれているのに何を甘えてるのかと、責められたような気がしたのだ。
「ごめんなさい……きっと、わたし、苦労が足りないから、周りにうまく気を回せないんだよね」
わたしがうなだれて小さな声でつぶやくのを、彼は真顔でじっと見つめていた。
「本当にそう思うの?」
「え?……う……ん」
そう答えると、北川君は、厳しい顔でじっとわたしを見つめた。わたしは反射的に首をすくめ、叱られそうな子どもみたいに体をこわばらせた。やがて彼は、深くひと息つくと言った。
「うーん、だから、そういうことじゃなくて……ゆっこちゃんはね、お姉さんみたいになる必要なんてないんだよ。いや、そうなっちゃ、いけないんだ」
北川君のアイスコーヒーも、わたしのアイスミルクティーも、しゃびしゃびに溶けて何の味もしなくなってから、わたしたちはようやく店を出た。車に向かう途中で、わたしは思い切って尋ねた。
「あの、どうして?」
「ん?」
「どうして、こんな大事な話、わたしに?」
彼は口を曲げて、向こう側に煙をゆっくりと吐き出した。
「うーん。どっかで、聞くでしょ?」
「え?」
「あの話の続き。うちの親父、最後は身を持ち崩して、ばあちゃんの財産だまし取ろうとまでしたからね、この町では有名人なの。だから、ここにいるなら、いずれ誰かから聞くと思うんだ。でも、なんというか、あなたにはちゃんと自分で話しておきたかったの」
どうして? もう一度そう聞きたかったが、口に出すことができなかった。それをわかっているかのように、北川君は意味ありげな笑みを浮かべて言った。
「ゆっこちゃん、さっきの話。あまりわかってないかもしれないけど、ひねくれてないってことは、あなたが自分で思ってる以上に、すごいことなんだよ」




