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月夜の黒い羊  作者: 小日向冬子
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その1

 時計の針は、すでに午前四時を回っていた。地平線から音もなく立ちのぼる薄明かりが、ゆっくりと濃い闇を追い払っていく。じわじわと広がる重苦しい予感にとうとう耐えきれなくなり、わたしはぺたんこにすり減った合皮のくつを引っかけて、古い木造アパートのゆがんだドアを開けた。ひんやりとした空気が頬をなでる。人通りのない夜明けの道を、ペタペタと歩き続ける。知らず知らずのうちにどんどん早足になっていく。カラスが食い散らかしたごみをよけながら細い路地を何度も曲がり、小さな飲み屋が密集する一角に足を踏み入れた。

 店には絶対来るなと言われていた。でもこの一週間、いくら待っても男は姿を見せず、財布の中には小銭しか残っていなかった。

 店はひっそりと静まり返っていた。ひんやりと冷たいノブを力いっぱい揺さぶってみたが、隙間にねじ込まれていた何枚もの請求書がハラハラと地面に落ちてきただけだった。それでもかまわず扉を叩き続けると、隣の店から鶏ガラのように痩せた髪の短い女が顔を出し、こっちを見て眉をひそめた。

「うるさいねぇ、そこ、もうやってないよ」

 女は乾きかけた赤いくちびるにタバコをくわえたまま、しわがれた声で言った。胸の奥底に淀んでいたおそろしい予感が、ゆっくりと確信に変わっていく。

「あれ、あんた、ひょっとしてマスターの……?」

 それには答えず、わたしはまるで阿呆のように、ただ黙ってその場に立ち尽くしていた。女のちりめんのようにゆるんだ肌。その瞳に、かすかな同情の色が浮かぶ。

「……かわいそうだけどさ、あきらめな。まあ、銀行だってつぶれるような時代なんだから、こんなちっちゃな店なんかひとたまりもないさ。なにせ、バブルってやつがはじけちまったらしいからね。うちだって、いつ同じ目にあうかわかりゃしない。あーやだやだ」

 そうぼやきながら女は、ガチャガチャとドアにカギをかけた。

「あんたも、こんなところにいないで早く帰んな――まだ若いんだから、いくらでもやり直せるさ」

 そう言ってラメの入った薄いストールを肩にかけなおしながら、女は去っていった。遠くでカラスがごみをあさっている。わたしは固く閉ざされたドアにもたれ、ずるずるとその場に座り込んだ。


 アパートに戻ったときには、すっかり夜が明けていた。

 となりの部屋からは、遠慮がちな包丁の音が響いている。何度か、赤ん坊を抱っこして作業着姿の夫を見送る、若い妻の姿を見かけたことがある。そのたびわたしは、まっとうな暮らしのまぶしさにおもわず目を伏せた。

 あの妻は、一日中部屋で赤ん坊をあやし乳を与えながら、何度となく聞いていたはずだった。男に体を開くわたしの声を、爪の音を。

 男の髪にしみついた盛り場のすえた匂いと、毛穴が開いてぎらぎら脂ぎった肌。嫌悪しながらも、それに身をまかせることで、この一年間生きのびてきた。

 ほとんど家具らしい家具もないこの部屋で、本棚代わりにおかれた白いカラーボックス。男はいつもわたしに背を向けたまま、儀式のように静かに指輪をはずし、その上においた。そして、若いというだけのこの体をひたすらむさぼりつくしたあとには、空っぽになった何かをけむりで満たすかのように、背中を向けてゆっくりと一服するのだった。

 わたしは大きく息を吸い、男が置いていった箱から、まだ半分ほど残っているタバコを取り出した。ドクン、ドクンと胸の鼓動が大きくなっていく。

 やるの? 本当にいいの?

 何を今さら……もうとっくの昔に決めていたことじゃないか。

 二つの心が激しく葛藤する。渦巻く不安に、めまいがした。なのに手だけが小刻みに震えながら勝手に動いていく。まるでもう、自分の体ではないみたいに。

 そう、それでいい。怖くなんかない。立ち止まるな、何も考えるな。何度考えたところで、行きつく答えは同じなのだから。

 迷いを振り払うように深呼吸をすると、わたしは震える手で一本のタバコをぐいっと口に押し込んだ。


 いつもひとりだったような気がする。両親だって姉だって、友だちだっていたはずなのに、それでも気がつくと、自分だけが世界からぽつんと切り離されているような、どこにも自分の居場所なんてないような気がしてならなかった。

 故郷を離れ東京の大学に進学したけれど、華やいで見えるキャンパスの中でも、やはり孤独なままだった。それでもどうにか卒業し、就職し、それから一体いくつの会社を転々としたことだろう。どこにいっても、誰かの声が怒気を含むたびに怯え、意味などわからないままへこへこと頭を下げ、けれどまたすぐに同じミスをしては怒鳴られ、舌打ちされた。

 どうしたらいいのかわからなかった。ただわかるのは、みんなが簡単にできることが、なぜだか自分にだけはできないということだけだった。

「お勉強だけは上手なのね」

 わたしの出身大学を知った同僚の、皮肉とも憐れみともつかないつぶやき。

 それでも食っていかねばならないと、一年前、最後の力をふりしぼるようにして始めた倉庫の軽作業のアルバイトも、たった三日でクビになった。

 最後のわずかな給料を受け取り、ふらふらとあてもなく街をさ迷った。とてもこれから生きていけるとは思えず、車の前に飛び出してすべてを終わらせる光景ばかりが目の前にちらついた。けれどもいざ大通りで猛スピードの車を目にすると、すっかりに足がすくみ、最後はとうとう道端にぺたりと座り込んでしまった。

 道行く人々はみな眉をひそめて、わたしをよけながら足早に去っていく。そんな中でただひとり、私の顔をぐるりとのぞきこんで「どうした? 具合悪いのかい?」と声をかけてくれたのが、あの男だった。

 当たり前のように連れて行かれた薄暗いホテルの一室で、ついさっきは仏さまのように思えた男の笑顔が、いつの間にかなれなれしいだけのうすら笑いにすり替わっていた。男の手がじっとりと触れるたびに、ぶるっと体が震える。けれどほかにいったい誰が、わたしなんかを相手にしてくれるというんだろう。

 悲しみが波紋のように体中に広がっていく。どうでもいい、もうどうでもいいのだ。どこまでも落ちてしまえばいい。

 ブラックホールのように大きくぽっかりと開いた深い闇に吸い込まれそうになり、気づくとわたしは、目の前にあった汗ばんだ肉体に爪を立て、夢中でしがみついていた。男はほう、という顔をすると、夜が明けるまでわたしの体を執拗に求め続けた。

 汗ばんだシーツにまみれ遠くなる意識の中で、わたしは考えていた。この男にさえも捨てられたら? そう、そのときこそ、何もかもを終わりにすればいい。

 親は少しは悲しむだろうか、死ぬほどの苦しみに気づいてやれなかったと後悔するだろうか。それとも、なにひとつ不自由なく育ててやったのにと、それでもわたしをなじるだろうか。

 タバコのガサガサとした食感を拒絶するように、のどが締まる。なかなか飲み込めないでいるうちに、口の中で葉がほぐれ、悪寒が走るほどの不味さが広がっていく。そのまま吐き出したくなるのをこらえながら、無理やり飲み下した。続けて二本目、三本目を、同じようにフィルターを残してなんとか飲み込んだ。

 それだけでもうくたくたになっていた。最初の勢いが止まると、急に激しい脱力感が襲ってくる。肩で息をしながら、ひんやりとした畳の上に横になり、時を待った。もうこれくらいで大丈夫だろう。あとは流れに身をまかせてさえいればいい。わたしは不思議なくらい冷静な自分を感じながら、そっと目を閉じた。何か大きな仕事をやり終えたあとのような、すがすがしい気分でさえあった。

 けれどもまもなく、穏やかにフェードアウトしていくはずの体は、いきなり激しく暴れ出した。いままでに味わったことのない感覚だった。まるで全身がむきだしの心臓になったかのように、激しい鼓動が全身をうちのめす。

 冷や汗が流れる。

 天井が大きく歪み、回転し始める。

 いったい、これは何だ?

 苦しくて必死に身をよじろうとするのに、手も足も少しも思うように動かすことができない。あらがいようのない圧倒的な力で抑えつけられ、出口のない深い闇に吸い込まれていくようだった。

 奈落の底、ということばがふいに浮かび、ぞっとした。

 そこにいったらもうおしまいだ。

 そう思ったとたん恐怖に体が震えだし、叫び出しそうになった。体中の細胞が全力で抵抗しようともがいている。

 と、体の奥から突然何かがぐっと込み上げてくるのを感じた。わたしは無我夢中で、思い通りにならない体をひきずり、這うようにトイレに向かった。

 便器にたどり着いたその瞬間、噴水のように激しく嘔吐した。さっき食べたタバコの茶色い葉が、否応なく体の中から押し出されていく。チリチリとのどが焼け、涙で視界が滲む。

 たまらずその場にうずくまるわたしに、嘔吐の波は何度も何度も暴力的に押し寄せた。そのたびへとへとになりながら吐き続けると、最後にはとうとう苦い胃液しか出てこなくなった。



 目を開けると、部屋の中はすっかり薄暗くなっていた。体を起こそうとしたが、思うように力が入らない。ぼんやりした頭でゆっくりと記憶をたどる。

トイレのドアは開きっぱなしで、まだかすかにと吐しゃ物のにおいがする。つーんを鼻をつく刺激にさらされているうちに、徐々に数時間前の光景がよみがえってきた。あらがいようもなく体中を埋め尽くした強烈な悪寒を思い出すだけで、ぞわぞわと鳥肌が立ってくる。

 もう、たくさんだ。

 吐き捨てるようにそう思ってしまった瞬間、ああ、わたしはもう死ぬことなんかできないのだ、という痛いほどの確信が、お腹の底に、すとんと落ちてきた。美しい快楽と思っていた死は、実際に近づいて手に取って見ると、夢見ていたよりもずっと醜く、生々しい苦痛に満ちていた。

 死にたいって? 思うに任せない人生から逃げ出したかっただけじゃないか。

終わらせたかった現実は結局、一ミリも変わらずにのうのうと目の前に横たわっている。

 ――井原さんったら、もう、なにやってるのよ。

さげすむような目、嘲笑。うんざりとした声、舌打ち。自分の何がいけないのかさえ理解できないいたたまれなさ。それでもこの世界に、存在し続けなければならないのか。

「ふ、ふふ……」

 笑い声とも泣き声ともつかないものが、知らずに口元から漏れてきた。

 と、白いカラーボックスの上で電話が鳴りだした。はじかれたように目をやると、そこに表示されていたのは、茨城の実家の電話番号だった。恐る恐る手を伸ばす。

『ゆっこか? 留守電聞いてないのか』

 キンキンと受話器から聞こえてきたのは、怒ったような母の声だった。

『まったく、電話しろって入れといたのによ』

 見ると、確かにランプが点滅していた。わたしは心の芯が冷え冷えと凍りつくのを感じながら、受話器をきつく握った。やっとの思いで声を絞り出す。

「ちょっと……バタバタしてたから」

 が、母はわたしのことばなどまったく意に介さぬように話し続けた。

『なんだよ、帰ってこれるんだろ』

「え?」

『父ちゃんの手術よ』

「なに、それ」

『ほれ、来週入院するだろ? 父ちゃんが、どうしてもゆっこも呼べってよ。なんだかなぁ、あっこなら役に立つけどよ、ゆっこが来たってしょうがねぇのにな』

 どこか嘲笑うかのような口ぶりに、体のあちこちで小さな爆発が起きる。叫びださないように、受話器を持つ手をもう片方の手でぎゅっと押さえ込んだ。

「入院って……聞いてない」

『そうだったか? とにかくもう、こっちは一人じゃ忙しくてたまんねえんだ。畑も放っておくわけにはいかねえし。まあ、できるだけ早く帰ってこいな』

 一方的にそう言うと、電話は唐突に切れた。わたしは置いてきぼりをくらった子どもみたいに、ツー、ツーと単調な音だけが聞こえてくる受話器を、呆然と見つめた。

 入院、手術? 不安がぐるぐると渦を巻いてふくれあがっていく。

 突然そんなこと言われたって、こっちにはこっちの都合がある。

 そう思って、はっとした。そんなもの、もう何もないのだ。それどころか、明日にも住むところを失うかもしれない。

 洗濯機の中に放り込まれたみたいに、何もかもがぐるぐる回っているだけで、ちっとも考えがまとまらなかった。わたしは暗い部屋の隅っこで、思わず膝をギュッと抱えた。自分の体がちゃんとここにあることを確かめるみたいに。

 突然、台所の窓の向こうがパッと明るくなった。陽が落ちて、アパートの通路に明りが灯る時間だった。となりの部屋からはトントンと包丁の音がして、だし汁と、ごはんの炊けるいい匂いが漂ってくる。どうやら赤ん坊が泣きだしたようだ。あやそうとする若い母親の声が、かすかに聞こえてきた。

 ――できるだけ早く帰ってこいな。

 母のことばが、耳に残る。

 気がつくとわたしは、ひっそりと声を立てずに泣いていた。



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