クリスマスの恋人
12月25日木曜日。
俺は今頃、小躍りでもし出しそうな軽い足取りで、白い鉄の塊(新幹線)に揺られているハズだった。
そう。
ハズ、だった。
「謝罪に伺うのが遅くなってしまい、重ねてお詫び申し上げます」
俺は深々と頭を下げた。
「御社ほどの大きい会社さんがこんなミスをするなんて、本当にがっかりです」
「返す言葉もございません」
俺の横で頭を下げたのは、隣の設備課の課長だ。
お察しの通り俺は今、いつものくたびれたスーツに安いネクタイを締めて、客先に謝罪に来ている。
12月25日木曜日、午前10時。
「手直しの工事はいつしてもらえるの?」
もちろんキますよね、ソレ。
…ちゃんと日程押さえて来てますヨ。
「年の瀬にお騒がせして誠に申し訳ございません。一番早くて明日と、明後日土曜日も手を押さえてます。年内最終営業日かと存じますので、お忙しければ年始5日月曜日に伺うことも可能です」
社内の技術屋にもこの日程は文句を言わせなかった。
本来であれば契約を取り付ければ営業の仕事は終わるハズを、こちらは契約内容の工事をする施工部門(今回の担当は設備課)の施工ミスを謝りに(とびきり大事な有給を返上して)来ているのだから。
「…じゃぁ、明日でお願いするわ」
そう、本来なら施工部門に営業が関与する必要なんかないハズなんだ。そのためにこの図体のデカい会社は縦割りになってるんだから。
けど営業の先輩らはいつも、施工期間中何度も現場に足を運ぶ。期間が長ければ長いほど、何度も何度も。それは得てして客先へのパフォーマンスや施工部門への社内営業のためだけじゃない、こんな事態(施工ミス)を水際で防ぐためでもあるんだろう。
今回やっとソレに気付いた俺が悪いんだ。
今更そんなことに気付いた俺が。
「かしこまりました。明日必ず、伺います」
この瞬間俺の中で、明日の有給返上も決まった。
「ぁー、腹減った」
俺は事務所の席を立った。
お馴染み入退室に必要な社員証をパソコンから引き抜く。社員証には、4年前入社当時の俺が居る。
高校時代からさほどあか抜けない、今やその面影もない自信に満ち溢れた俺が。
「哲平!お前こんなとこでナニしてんねや!」
少し離れたエレベーターホールの方から聞こえた声に目をやると、心底驚いた様子の山田さんが居た。驚くサマなら俺だって負けちゃいない。
なんつったって今俺がこんなところに居るのは、俺自身が間違いなく一番驚いているんだから。全く、笑えない話だぜ。
疲れた(くたびれたとも言う)俺がそんな山田さんを見やったと同時に後ろで重たい事務所のドアが閉まり、カシャンッと自動で施錠される音が静かな廊下に響いた。
同日午後12時10分。
「いやぁ。今日明日と、現場が入っちゃって」
昼休みも10分過ぎると静かなものだ。
俺はどこかひどく他人ごとのようにそんなことをぼんやり思いながら、山田さんに向かって肩をすくめた。
朝から事務所に寄らずの現場直行だった山田さんとは、今日は今が初顔合わせである。
俺は小走りに山田さんに近付いてから、努めて小声でことのあらましを説明した。
「昨日夜ゴタゴタしとったヤツか。謝りに行ったんなら、明日はもうお前行かんでええやないかい」
どうせ行ってもお前は工事できんやろ、と、俺を見上げる山田さんの目が言っている。
「そうなんすけど、…客先に、完全に技術屋に不信感持たれちゃって」
確かに俺は邪魔なだけだ。知っている。
だがもしまた何かが起こってしまっては、次こそあとがないのも事実だ。
「………お前今日あと仕事あるんかいな」
「?いや、ないっす。メシ食ってからやること探します」
ほんの少し視線を漂わせたあと、山田さんはひとり合点がいったらしく俺をまた見上げた。
俺は、何か悪だくみをしているようなニンマリ笑う山田さんの表情に首を傾げた。
「ほな明日俺行ったるから、お前もう帰れや」
「は?」
有り得ないくらいマヌケな声が出た。
「もうお前は仕事納めや。あとで客先に俺が明日代わりに行くって電話だけ忘れんとしとけや」
「いや山田さん、それは…」
「メガネには秘密にしとくて。別に今日謝りに行ったんやから、客先へのお前の顔はもう立ったやろ」
メガネ、は山田さんが呼ぶ俺の直属の上司のアダナだ。係が違う山田さんが俺のために動くのは、本来なら自分の部下(この場合俺)のフォローをすべきメガネ(と便宜上呼ばせてもらおう)の係長としての面子をつぶすことになる。
けど山田さんは、それを巧くやりこめると言う。
「それに手直しの間する設備のうんちくは、お前より俺のが達者やろ。工事の内容も俺のが監督向きや」
暗に接客も施工管理も任せろと言ってくれている。
そりゃ4年目の俺が、20年超のキャリアに張り合う理由もあるわけがなく。
もともと休みにするハズだった今日明日は、この一件以外に仕事も残っていないわけで。
「………すんません、ありがとうございます」
俺は観念した。
頭を深々と下げて、その場から回れ右して急いで事務所に戻る。山田さんも俺に続いて事務所の重たいドアをくぐった。
件の資料の束を山田さんに手渡す。今回の工事仕様や契約内容も分かる。
ささっとデスクの上を片付けながら、退社前の最後の確認をする。
腕時計を見ると時間は12時20分。…客先への電話は後回しだ。
「すみません、山田さん。じゃぁ明日、よろしくお願いします」
「おぅ、せいぜいよいお年をー。課長にも言うといたるわなー」
俺は自分の席から、既に自分の席に収まっている山田さんに声をかけた。俺の席から二つ上座斜め向かいの席の山田さんとのやり取りは、微妙に離れた距離のおかげてお互いに少々ボリュームが大きくなる。
いまだ昼休み真っ只中で空席の課長の席を顎で差しながら、山田さんはまたニンマリ笑った。言付けるのは、今日の勤怠を午後の半日休暇扱いにする旨だ。手続き書類は手早く書いて既に課長の受け箱の中である(本来は勿論課長の要事前承認だが、今日は元々休みにしていたので問題ないだろう)。
「ほんとすみません。また報告します」
「もぉええからさっさと去ね!」
最後は手で追い払われてしまった。
無論自分の色恋沙汰なんて酒の肴にする趣味はないが、これだけよくしてもらえば簡単な報告くらいはある意味義務だろう。
俺は深々と頭を下げて、荷物はなにも持たずに事務所を出た。いつもの相棒のビジネス鞄は、今回は留守番である。………とびきり大事な有給、仕事のことなんか1ミリだって思い出してやるものか。
そんな決意を新たに、同日午後12時25分。
「まだ今日の約束は有効?」
NOと言わせる気のない事柄を確認するのは、凛曰わくの「不安」の現れだろうか。
俺は(19階に)事務所が入っているタワーオフィスビルからそそくさと抜け出したあと、間髪入れずに茜の携帯をダイヤルした。
『…もちろん』
クスクスと笑う茜の声は、やっぱり心地良かった。
朝からささくれ立っていた気持ちが、まるで波が一気に引くように鎮静化していくのをひしひしと感じる。
「待ち合わせは昨日話したトコのままでええか?」
『東京まで迎えに行くよ、早く会いたいし。在来線の改札前で待ってる』
「…そっか、ありがと」
無論、たった今その他残り全部の疲れが吹っ飛んだのは秘密である。
俺は電話を切ると手早く携帯をスーツに押し込み、近くて遠い事務所から最寄り駅までの道のりを実に数年ぶりに、本気でダッシュした。