浮かれすぎにはご用心
やっちまった。また。
客先に昼一番に直行するツモリだった俺は、貴重な昼メシタイムを泣く泣く返上して、関西地区の全支店(営業所含)を統括する関西支社に向かっていた。
今日客先に持っていく予定だった見積書がまだ「押印の旅」から戻ってないことに気付いたのは、今朝朝礼が終わってから。自分の受けの中に、目当てのそれらしい書類が見当たらなかったのだ。
「押印の旅」とは、支店決裁で発行できない書類のたどる発行までの過程を(俺が勝手に)いう。このテの書類は、支店内で俺(作成者自身)、係長、課長、支店長、のチェック・押印を経たあと、支社に送られ支社営業部の誰それ、支社業務部の誰それ………と、とにかく大量の人間を渡ってから発行される。
しかもそれぞれがそれぞれの仕事の合間にこういったチェック・押印をするので、支社まで送られる類の書類は、大抵が発行までに相当の日にちを要する。書類を作る俺は、これを逆算した予定で仕事(書類作成)をしなければいけないということになる。そして今回もそれは怠らなかった。
はずなんだが。
「ツイてねー…」
………それが感想だ。
「片山さん、こんにちは。お世話になってます」
「ああ、萩野くん。お疲れさま」
俺は昼休みで静まり返ったフロアを少しでも波風立てまいと更に静かに、漫画絵に起こしやすそうなデカい鼻のオジサンに頭を下げた。彼は関西支社の中の、件の書類の最終押印者である。
見た目はにこやかな漫画絵オジサンだが、中身は相当な幅広い知識に定評がある社内でも有数の実力者だ。
礼儀さえしっかりしていればこうも親しみやすい男性だが、彼の中でいったん「×(バツ)」を付けられると一気に仕事がしにくくなる色んな意味でのキーマンだったりもする。
で、あるからして。
俺の中では決して敵に回してはイケない最重要人物として位置付けている(いつも色んなことを教えてもらうので、俺は彼に純粋に懐いてもいるわけだが)。
「すみません、お食事中にお騒がせしまして」
「いやいや、構わんよ。大変だろうけど頑張ってね」
「ありがとうございます」
俺は知っている。
×の人間には彼は決してこんなことはのたもうしてはくれないことを。
俺はバカでかい自分の身長がどうにか足元に収まらないかと、可能な限り腰を折って、立派な肘掛け椅子に座った彼に近付いて書類を受け取った。モチロン、昼休み前に書類を取りにあがる旨は電話で一報済みだ。社内と言って侮る(あなどる)なかれ。
社内の付き合いは時に、社外の付き合いよりも気を使うことがあるのだ。
「じゃぁすみません、愛想なしですが客先行ってきます」
「うんうん、そうだね。頑張っておいで」
少し脇に寄せた愛妻弁当に一瞬目をやったあと、片山さんはにっこり笑った。
ええ、ええ。昼食時に本当に失礼致しました。
俺はフロアを抜ける間も、デスクに着いている他の社員への会釈も欠かさない。暖かい目で送り出してくれる諸先輩方には二、三言交わすのも忘れない。
これぞ(若手用語で)いわゆる「社内営業」ってやつだ。
………さて、昼メシ抜きで、このまま客先行くか。
俺はコートの前ボタンを入念に合わせながら、クリスマスムード全開の街に切り取られた狭い寒空を見上げた。
そろそろ休み(有給)の申請を出さなきゃいけない。
「………」
俺は手帳の月間ページを開いてほんの少しだけ悩んでいた。
けどひとの「悩み」なんてのは、得てしてもう答は出ているものだ(少なくとも俺はそうだ)。
ただ足りないのは、ほんの少しの賛同と後押し。
「よぉー、給料泥棒ー」
「……人聞きワルいっすよ、山田さん」
「誰も聞いてへんからイイやないかい」
「間違いないっすね」
ザ、気のいいオヤジ山田さんの登場である。場所は俺のお気に入りの休憩室だ。
時間は夕方の6時前。
定時が回って、残業前の一服というヤツである。もとい年末の挨拶まわりが主な仕事の今月は、大した仕事は立て込んでいない。
さすがに普段ヘタレな俺でも、こんな年の瀬までヤキモキ仕事に追われるほどトロくはない(と願いたい)。
山田さんは隣の係の係長で、いわゆる「飲み友」だ(いやいや、係は違えど仮にも上司であるが)。よく立ち飲みに連れて行ってもらって可愛がってもらってる上司だ。
「なぁー、哲平」
「ハイ」
夕方6時とは言え、12月も中下旬の空はもう暗い。
俺が背の高いスツールに座って向かい合っている窓ガラスには、後方自販機で缶コーヒーを仕入れる山田さんの立ち姿が反転して映った。今日も相変わらず、カッコイいサイズ感のスーツです。俺もそんな中年オヤジになりたいっす。
「カノジョ、できたやろ?」
「!ぶへッ、…ゲホッゲホッ」
のんびり山田さんに見惚れていた俺は、口に含んでいた炭酸飲料を豪快に気管に流し込んで大きく咳き込んだ。
突然なんなんだ。
いや、というか断定?
まだソコまでたどり着いては居ないが(自分で言うのもなんだが)確かに限りなく断定的状況ではあるが、………なぜオンナ(茜)の影がバレてるんだ。
「なんすか、急に………ゴホッ」
どうでもいいが鼻がイタい。
「いやー、なんとなく。センターから帰ってから雰囲気変わったなて思てな」
フフン、と鼻高々山田さんは言った。次いでただでさえ丸い顔をニンマリ満月並みに更に丸くして笑った。
俺は咳をどうにか治めて、カウンターを軽く押しスツールを反転させて山田さんを見やった。………そう言えば昔、元カノと別れたのを一番初めに見抜いたのも山田さんだった気がする。
俺は観念とばかりに肩をすくめ、頭をかいた。
「まだカノジョやないっすけど、多分付き合えると思います」
「ほう」
山田さんは頷きながら、ふたつ向こうのスツールに軽く腰を下ろした。相変わらずのご配慮感じるその距離感、アリガトウゴザイマス………事情聴取の始まりである。
奥行きの狭いカウンターにコトっと缶コーヒーを置いて、片肘をカウンターに、右手は軽く腰に当てて山田さんは俺に向き合った。
「来週木曜、有給とってまた会いに行くつもりです」
「ほー、クリスマスかい」
そして計算が早い。さすが我が支店きってのデキリーマン。
わざわざ曜日で言ったのにスグ言い換えられて、我ながらベタ過ぎる行動にかなり恥ずかしくなってしまった。26にもなってクリスマスに告白なんざ、我ながら笑える。
「ええやん、ええやん!そんなん若いうちだけやでー。ついでに26も休んでまえや!」
「………」
俺は内心ガッツポーズをした。冒頭の悩みが解決してしまった。
「ソレ、アリっすかね?」
けど一応確認してみる。
「ええやろ、有給は俺らの権利や」
山田さんはピンと親指を突き立てて、力強く拳を突き出して見せた。格好だけじゃないこの兄貴肌にもいつも惚れそうになってしまうのは、若手の中でもきっと俺だけじゃないはず。
今年のうちの会社の仕事納めは12月26日金曜日。
仕事納め前日の木曜に1日休んで上京して、金曜1日のために帰阪して出社、翌日から年末休暇………なんて面倒はしたくない手前、少し派手な有給の取り方に尻込みもあったのだ。なにせ自信のカケラもないヘタリーマンなもんで。
ともあれ上司から見事「ほんの少しの賛同と後押し」をもらった俺はこうしてひとり優雅に、仕事納めを2日も前倒しすることにしたのだった。
が。
世の中そんなにアマくはないらしかった。