07
黒く艶やかな羽衣歌の髪を梳かしながら、ルーリアは昼間の出来事を思い返していた。
午前中の授業を終えて簡単な昼食を済ませた羽衣歌と、ルーリアは午後の授業のための準備をしていた。そこへ先触れもなく、ふらりと宰相リクハルドがやって来たのだ。それはまるで、散歩の途中にちょっと立ち寄った――といった風情であったのだが、宮女達を慌てさせたのは言うまでもない。
宮女となって十年であるが、この時初めてルーリアは間近でリクハルドを見た。そして彼が、噂通りであることを、己が目で見て実感したのだ。
リクハルドの年齢を感じさせない若々しく整った容姿と、耳に優しい響きの声音に、ルーリアをはじめその場に居合わせた宮女達は頬を薄っすらと赤く染めた。その結果、羽衣歌のことをすっかり忘れ見蕩れてしまい、駆けつけた宮女長マルユトの咳払いで我に返るという失態を犯した。マルユトは職業意識が高く、ルーリア達の態度を許せる性格ではない。なので羽衣歌が午後の授業を受けている間中、彼女の宮女達はマルユトから厳しく注意を受けた。
何故リクハルドが、わざわざ羽衣歌の部屋にやって来たのかといえば、それにはもちろん理由があってのことだ。
「ルーリアさん」
名を呼ばれ、ようやく我に返る。いつの間にか手が止まっていて、それを訝しんだ羽衣歌が声をかけたのだ。
「な、なんでございますかウイカ様」
取り繕うように、ルーリアは羽衣歌の髪を梳くのを再開した。じっと、鏡越しに羽衣歌の黒い瞳が、何かを探るように彼女を見る。それに気づいてはいたが、ルーリアは視線を少し伏せながら髪を梳かし続けた。
ふうっと小さな溜息のあと、羽衣歌は膝の上に置いた自分の手へと視線を落とした。
「今日の宰相様のお話ですけど……ルーリアさんはどう思いますか?」
「え? あ、はい。閣下のお話でございますか?」
「はい。わたしを養女にするというアレです」
リクハルドが羽衣歌の部屋に来た理由……それは彼女が、自分の養女になると決まったのを伝えるためだった。
羽衣歌が自分の養女になること――それは午前中の会議を終えた後、各省の正副大臣に残ってもらい、リクハルドが自ら申し出たことであった。
何の前触れもなく、いきなりの申し出に、エルネスティは最初こそ顔を顰めたものの、羽衣歌が彼の養女となれば、自分の妃となるのに問題がないことに気がつき、そこからは口を閉ざし話し合いの成り行きを見守ることにした。
反対する者がでるだろう――と、リクハルドとて予想はついていた。
そしてその予想通り、真っ先に意義を申し立てたのは、ヴェリの実父であり、財務省の副大臣であるパウリだった。パウリは責任感が強く、それ故、羽衣歌を自分達夫婦の養女にし、終生面倒をみさせてほしい――と、誤召された直後から再三エルネスティに願い出ていた。
幾度かもたれた彼女の処遇についての話し合いでも、それが一番良いと皆が口を揃えて言っていた。なのでパウリも、何度も何度もエルネスティに願い出たのだ。だが、エルネスティは「諾」とは言わず、その案を却下し続けていた。
どうして却下するのか?――パウリには、王の気持ちが理解できなかった。彼女は異世界の人間だ。いくら気に入っているからと言っても、王妃にするには問題があり、また、多くの者が反対するだろう。貴族の婚姻は、その殆どが家のためにするものであり、一国の王ともなるとそれが“家のため”ではなく“国のための”となるのだ。故に王妃には、国内の有力貴族の令嬢か、他国の王女がなるのが普通であり、そしてそれが当たり前なのである。
パウリもそう思っていた。
だからこそ早々に、彼女を自分の家に引き取ろうとしたのだ。間違いが起こらないうちに――と。
それに、子の不始末の尻拭いをするのは親の仕事だと、昔から決まっているのだから。
けれど何度願い出ても、エルネスティは首を縦には振らなかった。だからリクハルドにも同じように、王は断わると思っていた。
それなのに、エルネスティは彼の申し出を受け入れた。パウリからの再三のそれは却下したのに、リクハルドのは了承したのだ。
どうしてか?
答えは簡単だ。
とても簡単だった。
エルネスティがそれを……羽衣歌を自分の妃にするのを、心から望んでいるからだ。
本気なのだ。
本気で異世界人である彼女を、王妃に据えようとしている。
王の想いが一過性のものではなく、本物だと知ったからには、それに副う様にするのが臣下としてとる道である。ならば自分よりも、貴族位の高いリクハルドの養女となった方が良い。パウリが下侯であったならば、おそらく彼女は彼の養女となっていただろう。そうなればパウリの心も、ヴェリの心も、幾分かは軽くなったと思う。けれどパウリは中伯だ。王妃を排出できる貴族位ではないのだ。
反対していたパウリが賛成したことで、話し合いはようやく終結し、羽衣歌はリクハルドの養女となることが正式に決まった。そしてエルネスティの許可を得て、リクハルドは羽衣歌の部屋を訪れたのだ。
「良いお話だと思います。ウイカ様がこちらで生きていくためには、やはり身分があった方が生き易いかと……」
「身分……」
ヴァルータは王族を頂点とした国だ。身分というものがちゃんとある。
王族の次が中央貴族であり、その下は地方貴族である。騎士階級の騎族と兵士階級の士族とがこれに続き、最後が国民の大多数を占める平民となる。この平民の中で、さらに職種ごとに細かく階級が分かれており、長子は家業を継がなくてはいけなかった。
政府の役人の半数以上が貴族であるが、年に一度行われる登用試験(身分に関係なく受ける事ができる)に合格すれば、貴族でなくとも役人になることができる。高官も夢ではない。貴族位も領地もない平民であっても、高官になればかなり裕福な暮らしができるというわけだ。
ちなみに聖職者は、神に仕えるため、これとは違った位置づけとなっている。
平民がそうであるように、中央貴族もその中で細かく貴族位(大公・小公・上侯・中侯・下侯・准侯・上伯・中伯・下伯・准伯)が分けられている。リクハルドは上から四番目の中侯であり、下侯までが高位貴族と呼ばれている。王妃となれるのは下侯までであり、側室制度のないヴァルータでは、それ以下の貴族の娘が王の寵愛を受ける機会などない。
また地方貴族は上貴・中貴・下貴・辺貴と分かれており、国境近くの領地に住み、他国の動向を探り、ヴァルータへの侵入を食い止める役割を担っている。
「身分って、そんなに大事なのかな……」
ぽつりと呟いたそれに、ルーリアは「もちろんです」と答える。生まれも育ちもヴァルータの彼女にとって、身分制度というのは当たり前のことであった。
だが、羽衣歌は違う。
全てが平等ではないけれど、貧富の差はあったけれど、彼女いた所ではそんなものは存在しない。
「ウイカ様は、名家のご令嬢なのでございましょう? 手や髪、肌を見れば、それがよく分かりますわ」
「はい?」
ルーリアの問いに、羽衣歌は一瞬意味が分からなかった。が、分かった瞬間、それをおもいっきり否定する。
確かに羽衣歌の父親は会社を経営していた。でも、だからといって、名家などというものではない。それに会社だって、曽祖父が興したそれを祖父と父とで大きくしただけだ。
母親もそうだ。母方の祖父は元金融関係のサラリーマンで、最後はかなり良いポストについていたらしいが、だからといって母がお嬢様と呼ばれる種類でなかったのは確かだ。
手や髪の手入れが行き届いているのは、こちらと違ってハンドクリームやヘアトリートメント、スキンローションや美容クリーム等々、色々な物があるからだ。
「わたしのウチは、一般家庭ですよ。まあ、父は会社経営をしてましたけど、わたしが通っていたのは、極々普通の私学の高校でしたし……」
きょとんと、ルーリアは首をかしげる。今、羽衣歌の言ったことの半分も、彼女には理解できていない。どういったら理解してもらえるのか考え、羽衣歌は「商売を手広くやっている、わりと大きな商家の娘」と自分を例えた。どうやらそれが良かったのか、ルーリアは納得したらしく大きく頷いた。
「さ、よろしいですわ」
「ありがとうございます」
「いえ。これがわたくしの仕事ですから。お礼など仰らないでくださいませ」
「でも……」
ルーリアにしてみれば、これは自分の仕事であり、して当たり前の事である。
彼女はこれで、王宮から給金を貰っているのだ。
けれど羽衣歌にしてみればそうではない。
他人に傅かれるなど、今までの彼女にはありえない事だ。当たり前ではないのだ。
だからついついお礼が口からでてしまう。だが、それはルーリアにとって異質なものであった。
お茶を要れてきますから――と、ルーリアが部屋から出て行って暫くすると、扉が軽くノックされた。誰だろうかと思いながら、羽衣歌が「どうぞ」と返事をすると、入ってきたのはエルネスティだった。彼はシャツとズボンという簡素な格好をしており、濃紺のガウンを上に羽織っていた。
「おや? 宮女が一人もいないが……」
眉根を寄せて渋面になるエルネスティに、羽衣歌が慌てて説明をする。
「あ、あの、今までルーリアさんがいたんですけど、お茶を淹れに行ってくれています」
「お茶を? そう。それならいい」
エルネスティは一人掛けのイスに座ると、羽衣歌も座るよう促した。言われるがまま、右横のイスに腰掛ける。ゆったりとした動作で脚を組むと、彼は明日、飛鳥を見に行かないかと誘った。
「飛鳥を……ですか?」
「ああ。まだ見ていなかっただろう?」
「あ、はい」
彼女がこちらにくる原因となった飛鳥を、羽衣歌は一度も見ていなかった。
見たくなかった――というのが正しいかもしれない。
けれど、それなりに気持ちが落ち着いた今ならば、見ても平静でいられるような気がする。
「嫌、か?」
窺うように、エルネスティが訊ねた。羽衣歌はふるりと首を左右に振り、是非見てみたいと答えた。途端に、エルネスティの顔がぱあっと明るくなり、口端が綺麗に上がる。
「では明日、朝食を食べた後に見に行こう。ああそうだ。もし羽衣歌が望むのであれば、飛鳥に乗せてあげるよ。どうする?」
「え? でも……」
飛鳥に乗れるのは、ヴァルータの王と王太子だけだと聞いている。それをエルネスティに言えば、彼はそれを羽衣歌が知っていることに驚いたらしく、目を数回瞬かせたあと嬉しそうに笑った。
「問題はないよ。あくまでもそう言われているだけであって、それが文書化されているわけではないのだから」
「は?」
「どこにもそんなこと、公式文書として残されていないんだよ」
くすくす笑うエルネスティに、羽衣歌は首を傾け思案した。王たる彼が良いといっているのだから、きっと良いのだろう。乗れるのであれば、話の種に乗ってみるべきだ。何事も経験が大事なのだから。
「それじゃあ、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる羽衣歌を真似て、エルネスティも同じように頭を下げる。
「はい。よろしくお願いされました」
「……」
「……」
ちらりと視線だけ上げれば、相手も同じように視線を上げており、互いの瞳がぱちりと合った。
「ふふっ」
「ははっ」
ルーリアがお茶の用意をして戻ってくると、そこには楽しげに笑う王と、彼の想い人である異世界の少女の姿があった。