06
ヴァルータ王国の良心――宰相リクハルドを人はそう呼ぶ。
今年で四十三歳であるが、羽衣歌だけではなく、同じヴァルータ人から見ても彼の外見は実年齢よりも下に見える。しかも見目麗しく、美中年と言ったらいいのだろうか……娘ほど年の離れた羽衣歌ですら、彼を見た瞬間ポーっとなったほどだ。
リクハルドの着ている服は、常に時代の先端をいく洒落たものであり、彼の着こなしや服装、髪型を真似する者は多かった。そして誰が見てもそう思うように、やはり女性の扱いにも慣れたもので……独身ということもあり、彼の妻になりたいと願っている女性は多かった。そのため、夜会や舞踏会等に彼が出席すると、たちまち女性の人垣ができる。けれどその半数は、実は夫のいる女性――所謂人妻なのだから呆れてしまう。夫と離縁してもいいと、彼女達は本気で思っているのだ。それほどリクハルドは、魅力のある男性だった。
けれど積極的に自分を売り込む女性達や、熱い眼差しを彼に送っている女性達に、彼はこれっぽっちも見向きはしない。やんわりと微笑んで、綺麗にそれらをかわしていた。
地位も名誉も財産もある彼が、何故いまだ独身なのか?――それは心を捧げた唯一の女性がいるからだ。
けして手に入れることのできない、この世で最も気高き華に昔から焦がれており……熱い想いを寄せていた。
「宰相殿」
ふいに呼ばれ、リクハルドは書面から顔を上げる。執務室の入り口に、蜂蜜色の髪を美しく結い上げ、困ったように首を少しだけ傾けている女性がいた。
「これはこれは……王太后様ではありませんか。どうなされたのです? このような場所に、貴女自ら足を運ばれるなんて……」
優美なまでの動作で、リクハルドはイスから立ち上がりオルガの前までくると、彼女の左手を恭しく救い上げ、絹の手袋をはめた指先に唇を寄せた。
「宰相殿……お仕事中にごめんなさいね。実は……貴方にご相談したいことがあるのです。お時間よろしいかしら?」
「もちろんですとも。さあ、お座りください」
猫足の付いた長イスにオルガを連れて行き、宰相室付きの侍従にお茶を持ってくるよう言い付けると、リクハルドは彼女の向かい側に腰を下ろした。
「さてさて、私めに相談とは?」
「あの子のことで」
「あの子? ああ、エルネスティ陛下のことですね」
オルガの一人息子にして、ヴァルータの若き国主――国王エルネスティは、二日前から視察に出ており、現在王宮を留守にしている。元教育係としては王となった今も、エルネスティのことを教師目線で見てしまうことがあり、ついつい小さな子供を叱るような口調になってしまうことがある。その都度、国王補佐官のサムリに苦笑されてしまうのだ。
「違うわ」
「違う?」
「ええ。わたくしが言っているのは、エルネスティではなくウイカのことなの」
オレンジがかった茶色の瞳を細め、オルガは広げた扇子で口許を覆うと、深々と溜息をついた。
「あの子が……エルがウイカを気に入っているのを、貴方もご存知でしょう?」
「ええ。もちろんです」
こくりと頷いたリクハルドに、オルガはもう一度溜息をついた。ゆったりと扇を一扇ぎすると、薔薇色の唇をゆっくりと開いた。が、執務室の扉か叩かれ、侍従がお茶を運んできたので、そこで一旦話が途切れる。カップに紅茶が注がれ、テーブルの中央に焼き菓子の小皿が置かれ、侍従は一礼して出て行った。
まずは一口――と、紅茶を飲む。ほんのりと酸味の利いたそれは、乾燥させた林檎の皮が一緒に入っている隣国の特産物だ。
喉を潤し、気持ちが落ち着いたのか、オルガの口許がほんの少し柔らかくなったような気がして、リクハルドの目許が下がる。憂い顔も美しいが、やはり笑顔の方が格段に良いのだ。
「宰相殿」
「はい」
「ウイカが間違って召喚されてから、もう三ヶ月が過ぎたわ。けれど……彼女を元の世界に帰してあげる術はないの。それは貴方も知っているでしょう?」
「ええ。もちろんです」
秀麗な顔を歪めるリクハルドに、オルガは唇を引き締め眉根をきつく寄せた。
「研究はしているようだけれど、でも、歴代一の召喚士首座であるヴェリの力でも、送環の陣は完成しないでしょうね……。何年……いえ、何十年何百年かかっても、無理かもしれないわ。だからウイカはここで生きていかなくてはならない。可哀想に……あの子にも家族があって、友達だっていたでしょうに……」
今、羽衣歌の世界は狭い。
王宮内に与えられた部屋と、図書室と、庭だけしか知らない。
親もなく、友もなく、周囲にいるのは彼女の世話をする宮女やエルネスティだけだ。
頼れる者も、心を吐露する相手も、羽衣歌には誰もいない。
「エルネスティの庇護下にあるからといって、ここでの彼女の立場が、きちんと確定されているわけではないわ。エルネスティの気分次第で、あの子の環境はがらりと変わる。だからきっと、今の自分が置かれている状況に不安になっていると思うの」
「確かに……」
夜のごとき黒髪の少女を思い出し、リクハルドは眉根を軽く寄せた。
彼が羽衣歌に会ったのは、誤召された後……十日程経った後に一度だけで、その後は会っていない。あの時の彼女は酷くやつれていて、よりいっそう幼く見えた。取り返しのつかない、酷いことをしてしまったのだと、改めて思い知らされた瞬間だった。
「このままじゃ、エルの求愛を受け入れても、あの子……ウイカは王妃にはなれないわ。かといって側室にも……」
ヴァルータ王家に側室制度というものはない。貴族や豪商の中には、愛人を囲う者もいるが、民の手本となるべく王や王族にそれは許されない。
そして王妃になるには“身分”というものが必用で、異世界人である羽衣歌にはそれがなかった。なければ妃にはできない。二人が想いを通わせ、その末に子を成したとしても、王妃から生まれた子でなければ、王族とは認められないのだ。母子共に一生日陰の身である。
「羽衣歌を愛していても、エルは正妃を娶らなくてはいけなくなるわ」
国王である限り、公人として生きなければならない。国に有益な結婚をするのも王の務めの一つだ。
「そうなった場合、エルは王として、国内の有力貴族の娘か他国の王女を妃に迎えるでしょうね。でもそれは白い結婚となるわ。そうなったら今度は、あの子の妃となった娘が可哀想よ」
「王太后様……」
きつく眉根を寄せるオルガに、リクハルドの胸が打ち震える。今すぐオルガを抱き締め、薔薇色の唇に口付けて、思う存分その甘さを味わいたい。
もちろんそれは叶わぬ夢だ。
オルガはもう、リクハルドのものではないのだから………。
二人は祖父同士が決めた許婚であった。
幼い頃から愛らしく、女王然としたオルガのことを、リクハルドはとても気に入っていた。オルガにとってリクハルドは兄の幼馴染みであり、兄のような存在であり、自分だけの騎士であり、そして何でも言う事を聞いてくれる下僕だった。昔から彼は、オルガの“お願い”には逆らえないのだ。だからこそ、彼はオルガが何のために、わざわざここまでやってきたのか……大方の予想はついていた。
「宰相殿」
「はい」
「実は……貴方に願いがあるのです」
「お願い?」
やはりな――そう思いながら、それでもリクハルドは、驚いたように目を瞠った。
「ええ。そうなの」
「はあ……。で、何ですか? その“お願い”――とは?」
「彼女を……ウイカを、貴方の養女にしてほしいの」
「……」
予想外のオルガの願いだった。もっと違う事を、彼女は自分に言ってくると思っていたのだが、まさか“養女に”だとは………。
「私の、養女……ですか?」
ええ――と、頷くオルガの顔はとても真剣で、リクハルドは長イスの背もたれに背中を預けると、ゆったりとした動作で脚を組み替えた。
ウイカが妃になるには、それ相応の位が必要だ。異世界人である彼女がそれを得るには、貴族位の高い家の養女になるのが一番手っ取り早い。リクハルドの貴族位は中侯であり、妃になるには充分だった。だが、ウイカがそれを望んでいなかったら………。
「王太后様、あの少女は陛下のことをどう思っておいでなのでしょう?」
ある程度の事は、サムリから情報を得ている。だが、オルガにはオルガの、得た情報があるかもしれない。
「わからないわ……。だって、まだ三ヶ月なのよ」
ゆるりと首を振るオルガに、リクハルドはフッと双眸を細めた。
「ですが、恋とはそういうものではないのですか? 落ちる時には瞬時に落ちる――そうでしょう?」
時間をかけてじっくりと温める恋もあれば、出会ったその瞬間一気に燃え上がる恋もある。
オルガとの恋は前者であり、けれどそれは、時のヴァルータ国王によって壊されてしまった。男系家族である彼女を、世継ぎのいなかった王が、三人目の妃として迎えたいと言ったせいで………。
王には先の王妃と現王妃の間に、娘が四人ずついたのだが、息子は一人もいなかった。ヴァルータ国王となれるのは男だけで、王はどうしても息子が必要だったのだ。
そこで目をつけたのは、妃になれる家柄でなおかつ、男系家族である娘だった。オルガには五人の兄がいる。そして彼女の家は、王妃となる資格のある中侯家だった。
リクハルドとは正式に婚約していなかったため、それを理由に王からの申し出を断ることは不可能であっり、ましてやこれは、彼女一人の問題ではない。彼女の両親や親戚……一族全員の存亡がかかっていた。初めから拒否権などというものは存在しなかったのだ。
王と王妃の離婚が発表された二ヵ月後、十六歳だったオルガは五十二歳のヴァルータ国王に嫁ぎ、彼の三度目の妃となった。そして皆が期待する中、彼女は十八歳で世継ぎとなるエルネスティを生んだのだ。
「奥方もいない貴方に、養女をというのは間違っていると思うわ。でも、こんなことを頼めるのは貴方しかいなくて……」
「王太后様」
「宰相殿……嫌なら嫌と、そう言ってください」
ゆるり――と、リクハルドは首を振った。そしてオルガの横へと移動すると、白く美しい手をそっと握る。
「私が貴女のお願いを断るはずないでしょう。お忘れか? あの日、私は貴女に言ったではありませんか」
「……」
「私は貴女のものだと……」
「さ、いしょ……」
声を詰まらせ、泣きそうな顔になったオルガの指先に口付けて、リクハルドは灰色の瞳を優しげに細めた。
「貴女らしくありませんよ、我が麗しのオルガ姫。さあ、命じなさい。貴女にはその権利があるのだから」
「リクハルド殿」
「ウイカを、誤召されたあの少女を、貴方の養女にしなさい――と、私に命じるのです。さあ、オルガ姫」
「っ!!」
ああ――と、オルガは目を閉じ、唇を強く噛み締めた。そんな彼女の肩に回し手を回し、そっと自身の方へと抱き寄せると、リクハルドは慈しむようにオルガの髪に頬を擦り寄せその時を待つ。薔薇色の唇が開き、リクハルドにそれを命ずるのを――――――。