04
「そちらのリボンを。いや待て。やはりこちらにしよう。ドレスと同じ色の、白いレースで縁がついている緑のリボンだ」
目の前で繰り広げられている光景に、王太后オルガは「これは夢なのではないか」と、何度も己が頬を抓った。が、痛い。痛いということは、夢ではないという証拠だ。
「ウイカ、とても似合っている」
蕩けるような笑みを浮かべているのは、本当にあの冷血冷淡無表情な我が息子なのかと、オルガは零れ落ちそうなほど目を大きく見開くと、緑色のリボンを結わいた少女へと視線を移す。宮女長マルユトの報告により、例の少女を息子が気に入っていることは知っていた。けれど、ここまでメロメロだとは思っていなかったので、今この状況はオルガにとって衝撃的だ。
飛鳥ではなく、異世界の少女が召喚されてしまったことは、王宮内において公然の秘密である。
つまり誰もが知っているということだ。
秘密なのだが、秘密ではないのである。
召喚に失敗した理由は、召喚士首座の描いた召喚の陣が間違っていた――ということで処理された。
だが、首座の青年は、自分は絶対に間違っていないと主張し続けた。
召喚の陣がどういったものなのか……それを知るのは首座のみである。
故に、彼の主張は簡単に退けられた。
けれどオルガは、彼の言うことを疑ってはいなかった。召喚士首座となってまだ一年ではあるが、首座――ヴェリは何事にも真面目であり、勤勉で、努力家で、己が職務に誇りをもっている。そんな彼が、陣や呪文を間違えるなどありえない。
では、他の誰かが、ヴェリの陣を描き換えたのか?
答えは“否”だ。
誰かが描き換えるには、ヴェリの描いたそれは複雑過ぎた。それは前首座が証言しているので間違いないだろう。彼の召喚陣を確認するため、隠居し、田舎で暮らしていた前首座が、大急ぎで王都に呼ばれた。前首座はヴェリの描いた陣を彼の頭の中から召喚し、それを研究室の床に転写したのだが、最高難度だと絶賛したくらい入り組んでおり難しいものだった。
難しいが、間違ってはいない。
正しいものであった。
そのため、何が原因なのか、余計に謎が深まるだけで、結局原因が分からないので、誰かが泥を被るしかなかった。そしてその結果、ヴェリの描いた陣が間違っていた――ということで、この件は落ち着いたのだ。
もちろんこれはヴェリにとって不名誉で不本意ではある。あるのだが、実際、出てきたのは飛鳥ではないのだから、悔しいが受け入れるしかなかった。
誤召された異世界の少女は、名を【羽衣歌】といい、現在はオルガの息子であるヴァルータ国王エルネスティの庇護下にある。
彼女の処遇については、誤召された翌日に、重臣達により話し合いがおこなわれた。そして処遇案の最有力としてあがったのは、失敗の責任を取り、ヴェリの実家の養女とすることだった。だがそれはエルネスティにより却下され、彼女は王宮内に留め置かれることとなった。
もちろんオルガには、息子が何を考えているのかお見通しで、呆れつつも、ようやく気にいった女性ができたことを、マルユトと一緒に喜んだのは内緒である。
あれから三ヶ月近く……五日に一度の割合で届けられるマルユトからの報告書によると、羽衣歌は文字やら歴史やら、この国のことを覚えようと必死のようで、その姿勢はとても好ましい。一日でも早く、この国に馴染もうと努力しているからだ。
そんな彼女に向けるエルネスティの瞳は優しく、そして熱っぽいらしいのだが……羽衣歌には通じていないようなのである。つまり、誰が見てもそうと分かるのに、彼女だけがエルネスティの想いにはまるで気がついていない――ということだ。
その報告を受けたオルガは、おもわず「そりゃそうでしょう」と、大きな溜息をついた。今の彼女には、恋など二の次三の次なのだ。この世界に、国に、慣れようと必死なのだ。恋などしている場合ではない。
母親から見ても、息子の顔容は整っており美しいと思う。そのおかげか、女性関係には一度も苦労したことがない。自分から手を差し伸べなくとも、相手から飛びついてくるのだから……。だから自分からどうこうすることに慣れていないのだ。語弊があるかもしれないが、エルネスティにとっておそらくこれが、初めての恋――なのかもしれない。
恋に不慣れな息子を不憫に思う。
思うが、女慣れしているのを見るよりも、初心な純情少年のような彼の方が、母としては嬉しかったりする。
「エル」
自分に気がついているくせに、いつまでも無視を続ける息子を腹立たしく思いつつ、けれどそんな素振りなど見せずに、オルガは優雅に微笑みエルネスティを愛称で呼んだ。
「おや、これは母上。いつからそこに? 気づかず、申し訳ありませんでした」
ご機嫌麗しゅう――と、エルネスティは無表情のまま、淡々とした声でそう言う。少し開いたレースの扇子で口許を覆いながら、彼の傍まできたオルガの、苦労を知らない白くほっそりとした左手を掬い上げ、その甲にそっと口付けた。
傍から見れば、流れるような美しさであるが、実はかなりおざなりな態度なのである。実母だからこそ分かることであり、オルガは引き攣りそうになる頬をどうにか抑え、この国一の貴婦人としての矜持から、優美な笑みを浮かべて扇子を閉じると、「ご機嫌よう」と息子に挨拶を返した。
「ねぇ、エル。わたくしに、紹介してはくれないの?」
ちらり――と、オルガは視線を羽衣歌へとやる。
「ああ。これは失礼いたしました」
エルネスティは口端を上げると、羽衣歌の背に手を添え、軽く彼女を前へと押し出した。それに慌てたのは羽衣歌である。「え? え?」と、エルネスティとオルガを交互に見た。
「ウイカです。母上」
目を細め、エルネスティはそれだけ言って黙ってしまう。ちゃんと自分で自己紹介をした方がいいのだろうかと、羽衣歌は視線をめぐらせ宮女達を見たが、ついっと視線を逸らされてしまった。ひく――っと、羽衣歌の頬がひきつる。自分で判断しろということなのだろうかと、ぐるぐると考えていると、先に沈黙を破ったのはオルガだった。
「それだけ?」
「ええ。それだけですが何か?」
充分でしょう――と、自分と同じオレンジ色がかった薄茶色の瞳を細める息子の頭を、手の中の扇子で叩いてやりたくなった。だが理性を総動員し、何とかそれを抑えると、今度はきちんと羽衣歌へ顔を向ける。
「っ……」
自分を見上げる少女の、夜空のごときその黒い瞳に、僅かに見える怯えたような表情に、オルガは動揺を隠せない。朱鷺色の唇を戦慄かせ、左手で口許を覆い隠す。声にならない声で、彼女はこう呟いた。
あぁ、あぁ、なんて小さくて可愛らしい生き物なの!――と。
真正面から羽衣歌を見たのは、今、これが初めてで……遠目にしかオルガは見たことがなかったのだ。なんでもっと早く、本宮に足を運ばなかったのかしらと、悔やんでも悔やみきれない。このバカ息子自ら、彼女を王太后宮につれてくることなど、ありえないのは分かりきっていたというのに………。
わたくしのおバカさん――心の中で自分を罵り、オルガはきゅっと唇を噛んだ。
「母上、あげませんよ」
冷やかなその声に、ハッと我に返る。声の方へと視線をやれば、凍えそうなほど冷やかな目で、エルネスティがこちらを見ていた。
「……わたくし、何も言ってないわよ」
「母上の考えなど、手に取るように分かりますから」
ダダ漏れですよ、母上――と、エルネスティは口端を軽く上げた。その憎たらしい表情に、扇子を握るオルガの手に力が入る。まったく誰に似たんだか――と、思いつく限りの言葉で息子を(胸中で)罵った。
「あ、あの……」
「初めまして、わたくしはオルガ。このバカむ……いえ、エルネスティの母です」
「初めましてオルガ様。羽衣歌と申します。えっと、椛島、羽衣歌です」
「カバシマ?」
「あ、すみません。椛島は苗字……家名です」
「あら、そうなの。貴女の居た所では、家名が先にくるのね」
頷いた羽衣歌に、オルガは優雅に微笑んだ。
「こちらの生活に、少しは慣れたかしら?」
「あ、はい。まだ色々と戸惑うことはありますが、以前よりかは……。皆様には大変良くしていただいて、感謝しております」
「そう。何でも言ってちょうだいね。こちらの不手際で、貴女には償っても償いきれないことをしてしまったのですから」
本当にごめんなさいね――と、オルガは羽衣歌の両手を掬うように持ち上げて、ふわりと包み込むように握った。
あぁ、手もちっちゃくて可愛らしいこと――緩みそうになる頬をどうにかこうにか抑え、オルガはうふふと笑みを深くする。もちろんそんな母を、息子は冷やかに見ていた。
「あげませんよ、母上」
「……だから、わたくしは何も言ってないでしょう」
「ダダ漏れだって言いましたでしょう」
呆れたような眼差しに、オルガのこめかみに青い筋がたつ。
「……嫌な子ね、お前。誰に似たの?」
「母上でしょう。自覚なしですか?」
「……」
大仰に溜息をつくとエルネスティは、握られたままの羽衣歌の手を、さりげなくオルガから引き剥がした。そして「こちらにおいで」と、今度は自分が彼女の手を握る。姿見用の大きな鏡の前へと彼女を引っぱっていくと、そこに映る羽衣歌の姿をじっくり眺め、満足気な笑みを浮かべて大きく頷いた。
「これまでに何人かの仕立て屋に作らせたが、ユハの作ったドレスが一番ウイカに似合っているな」
今彼女が着ているのは、見本として作られた新作のドレスなのだが、彼女の体形にピッタリだった。しかも、見本と言いつつもとても丁寧な縫製であり、店で売っていてもおかしくない仕上がりなのである。
それもそのはず、ユハにとって、今回のこれがまとまれば、今以上に名が売れるのだ。王室御用達となれば、国中にユハの名が知れ渡る。皆がこぞって、自分の作った服やドレスを買い求めるのだ。小さな仕立て屋が国一番になるのだ。逃がしてはならない。そのためには例え見本であっても、手を抜くことなど絶対にできなかった。
「本日持ってまいりましたものは、ティニヤ殿下よりお聞きし、ウイカ様のお体に合わせて作らさせていただきました物……。よろしければどうかこのままお納めくださり、ウイカ様の普段使いにしていただけたら――と存じます」
「どうりで、ピッタリなはずだ。姉上が絡んでいたとは……」
くくっと喉を鳴らし、エルネスティはもう一度ぐるりと羽衣歌のまわりを回って、頭の上から足の先まで見回した。
「よし、決めた。今後はウイカが着る物全て、ユハ、そなたに任せよう」
「ありがとうございます、エルネスティ陛下」
仕立て屋の若き主人は深々と頭を垂れると、そうそうこれをどうぞ――と、羽衣歌に両手ほどの大きさの箱を差し出した。彼女はそれを受け取り、何だろうかと蓋を開ける。すると中には、色とりどりのリボンが入っていた。細いのもあれば太いのもあり、レースが縫い付けてあるのもあれば、複雑な模様の物もある。驚いて目を瞬かせると、エルネスティの方へと顔を向け彼を見た。
「随分と沢山あるな」
「はい。端切れで作れますので……。あぁそうそう。陛下、リボンは髪を結わくだけでなく、こう、首に結わえても可愛らしいのですよ」
「ああなるほど」
そういう使い方もあるなと、エルネスティは口端を持ち上げる。すぐさま中から細身の物を一本取り出して、羽衣歌の首にしゅるりと巻きつけた。だが、今着ているドレスには似合わない。エルネスティは控えていた二人の宮女に、何着かここに持ってくるように言いつけた。彼女達は羽衣歌のドレスがしまってある衣裳部屋へと急ぐと、両手に抱えきれるだけ抱えて戻ってきて、その一着一着をウイカの前にあてる。そのつど、エルネスティは頷いたり首を振ったりした。
「あ、それがいいかもしれない。ウイカ、これに着替えておいで」
結局彼が選んだのはユハの持ってきた見本の中の一着で、襟ぐりが大きく開いたものだった。
「あの、でも……」
ちらり――と、自分が今着ているドレスを見て、ウイカは困ったように首をちょこっとだけ傾けた。
「これ、今着たばかりですよ?」
「うん。そうだね。さっきの桃色のドレスも可愛かったけれど、その緑のが一番ウイカに似合っていて可愛いよ。でも、こっちのこれも着て見せてほしいんだ。これを着たウイカも、きっと可愛いと思うから」
にこにこ笑顔のエルネスティに、ウイカはひくりと頬を引きつらせる。どうしても「嫌」と言えない、どこか脅迫めいた笑顔だったからだ。
ならば――と、もう一度助けを求めるように宮女らへと視線をやるが、こちらもこちらでにこにこと笑っていて、それはまるで「陛下に逆らうんじゃないわよ」と言っているようで……羽衣歌はフッと息を吐き出すと、小さな声で「分かりました」と言って頷いた。
衣裳部屋へと宮女らを伴って向かう彼女の、その頼りなさげな後ろ姿を見送りながら、オルガは喉に小骨が刺さったような……そんな嫌な気分になった。原因はもちろんエルネスティの態度であり、また、強く反論しないで従う羽衣歌の態度だ。
「これは……」
いけないわ――オルガはきつく眉根を寄せると、持っていた扇子を開いて優雅にひと扇ぎし、それで口許を隠して溜息をつく。
やはり早急に、あの少女を王宮から出してあげなくては――そう心に決め、夜会用のドレスのことでユハと話し合っている息子を見ながら、彼女はパチリと音をさせ扇子を閉じた。