03
宮女となって十年……ルーリアはお仕着せの服に腕を通すと、きっちりと一番上までボタンを留めた。頭の後ろで一つに束ね団子状に纏めた髪に、宮女服と同じ色のリボンをくるりと巻いて結ぶ。壁に掛けた鏡でおかしな所がないか確かめ、大丈夫であると確認すると、前髪を指先で軽く直してから、自身に与えられた宮女部屋から廊下へと出た。
早朝の王宮内には、まだ人の姿はぽつりぽつりとしかなく、ピカピカに磨かれた廊下を彼女は奥へ奥へと進んでいった。途中、同僚数名とすれ違ったが、互いに足を止めることなく、軽く会釈をするだけだ。この時間に起きている者は皆、仕事があるからでありとても忙しい。なので、いちいち立ち止まって挨拶を交わす暇などなく、仲が悪いからではないので誤解しないでほしい。
渡り廊下の入り口に立つ護衛官と、ルーリアは既に顔見知りであり、おかげで証明書をいちいち提示しなくても、すんなりとその先へと通してくれる。ここから先は王族の私的な場所であり、許可を得たものしか進むことができない特別な場所なのだ。
王の私室の手前――そこが今、ルーリアの主が住む部屋だ。軽く扉をノックし、ゆっくりとノブに手をかけ扉を開く。そこは控えの間となっており、不寝番の宮女がこっくりこっくりと舟を漕いでいた。それを見てルーリアは溜息をつく。これではいざという時、主の命を守れないではないか――ルーリアは手を叩き、パンと大きな音をたてた。それに反応し、不寝番の宮女が目を覚ます。目の前に先輩であるルーリアがおり、バツの悪そうな顔で視線をそらした。
できればあまり小言は言いたくない。だが、これは言わなくてはいけない。なので背筋をピンと伸ばすと、若いこの宮女を立ち上がらせ、今後二度とこのようなことがないようにと注意をした。
控えの間の扉を開くと、そこは居間となっており、その左側に寝室へと続く扉がある。
扉の前で深呼吸を一度し、ルーリアはその扉をノックして少し待ってから、静かに扉を開き中へと入った。
大きな窓にかかる小花模様の厚手のカーテンは半分ほど閉められており、壁際に近い場所にある天蓋つきの寝台では、この部屋の主が健やか寝息をたてている。それを見て、ルーリアの口許が和らいだ。ここ最近になって、ようやく穏やかな寝顔が見れるようになったからだ。
「起きてください、ウイカ様」
ゆさゆさと体を揺すられて、羽衣歌は重い目蓋を押し上げる。霞む視界の先に見える人物に、やはりここが異世界であるのだということを、否定したくとも実感してしまう。それは時に悲しい気持ちになり、涙が零れそうになる。だが、自分に良くしてくれる彼女達に心配をかけたくないので、羽衣歌は奥歯をぐっと噛んで我慢していた。
この世界に誤召されてからもう三ヶ月近く……涙は流せるだけ流した。いくら帰りたいと言っても、帰れないものは仕方がない。泣こうが喚こうが、できないものはできないのだ。エルネスティの言うとおり、帰ることを諦めるしかない。
足掻いたって無駄である――と悟ってからは、羽衣歌は前向きに物事を考えるようになった。
幸いなことに言葉は通じるし、衣食住は約束されている。あとはこちらの文化や風習を知り、文字を覚えるだけだ。それだって、そう急がなくてもいいと、エルネスティ――この国の王に言われている。
「ルーリアさん」
おはようございます――と、少し舌っ足らずな喋り方は、彼女をひどく幼く見せる。そんな羽衣歌にルーリアの頬がさらに緩む。どうやら朝は弱いらしく、うまく言葉が出てこないのだ。そこがまた、なんとも可愛らしく、ひどく庇護欲をそそるのだが……ここはきちんと言わなくてはいけない。
今朝は怒ってばかりだと、ルーリアはちらりと寝台横のテーブルの上を見て、小さく息を吐き出した。
「ウイカ様、また遅くまで文字の勉強をされていましたね」
目の下に隈ができてますよ――と、きつく眉根を寄せる。何度言っても羽衣歌は、こうして遅くまで文字の勉強をするのだ。それで以前、寝不足で倒れたことがあった。
「だって……」
「だってじゃありません。陛下が仰ってましたでしょう? 焦らずゆっくり覚えていこうって」
「でも……」
「でもじゃありません」
腰に手をあてて、ルーリアは呆れたように頭を振る。羽衣歌はもう一度ごめんなさいと言い、亀のように首を縮めた。
彼女には悪いが、まるで“母親”のようだと羽衣歌は思う。
今現在二十七歳であるルーリアは、嫁にいく年はとうに過ぎてしまったが、それでもまだ充分若い。それなのに“母親”みたいと思ってしまうのは、自分がいた世界の二十七歳と比べて、かなりしっかりしているからだろう。浮ついたところがないのだ。それに顔も、実年齢より幾分か上に見える。
実は彼女だけではない。この国の人達は、外見が年齢よりも上に見えるのだ。それがどうしてなのか、最初は不思議であったが、自分のいた世界とは一年の長さが違うことを教わり納得した。
ヴァルータ王国のある世界では、一日は二十四時間で同じなのだが、一年は十二ヵ月ではなく十四ヵ月であり、そして一ヶ月は三十日であった。ルーリアは二十七歳……それを羽衣歌の世界に当て嵌めると、彼女の年齢は三十一歳くらいになる。それだと見た目とピッタリで、二十歳のエルネスティは二十三~二十四歳くらいだ。多少の誤差がでてしまうが、だいたい実年齢+四歳と考えれば良い――という結論に至り、それでようやく納得できた羽衣歌だった。
だがそこで、ふと気になったことがあった。
果たして自分は、こちらの人達に何歳に見えているのか?――である。
単純に考えれば、四歳引けばいいのだろう。だが、アジア人は若く見られがちだ。それを思うと……想像しただけでも恐ろしい。
「さあ、起きてください。陛下がおいでになるまでに、支度を整えなくては」
こくりと頷いて、羽衣歌はふかふかの寝台から下りた。それを見て、ルーリアは鏡台の前に置かれた丸いテーブルへと移動し、上に乗っている盥に右手を翳した。盥の底には召喚陣が描かれており、ルーリアが呪文を唱えると、あっという間に温かな湯で満たされる。
ヴァルータに魔法は存在しないが、召喚術は存在しているので、毎朝この光景を見るたびに、羽衣歌は不思議な気持ちになる。魔法使いがいたっておかしくないと、ついつい口から出そうになる。しかもこの召喚術は誰でもが使えるわけではなく、ごく一部の人間にしか使うことができないというのも不思議だった。
ルーリアが召喚術を使えるのは、もちろん素質があったからであり、幼い頃から神殿に通って基礎を学んだ。そこでさらに才能を開花させると、召喚士への道が開けるのだが、彼女にはそこまでの力はなかったので、基礎を修め応用術を一年学び終わった年に、王宮の宮女見習い募集の求人があったので、おもいきって応募してみた。
宮女は女子に人気のある職種だ。なので十五名求人のところ、七十六名もの応募があった。幸いなことにルーリアは、召喚術ができることから女神官長の推薦状があり、また、彼女の実家がそこそこ裕福な商家だったので基本的な所作もできていた。おかげですんなりと最終面接まですすみ、そして今に至るというわけだ。
羽衣歌が顔を洗っている間に、衣裳部屋で今日着るドレスを選び、それを寝室へと持っていく。まだこちらの服――ドレスに慣れていない羽衣歌は、手伝ってもらわなくては着替えられない。ルーリアが腰の後ろのリボンを結び、鏡台のイスに座るよう羽衣歌を促した。黙ってそれに従う。鏡台上の美しい細工が施された箱から、壷のような物を取り出し蓋を開ける。それは花の蜜で作った香油入れで、それを匙で掬い取り掌に乗せると、均等になるよう羽衣歌の髪に塗りつけた。そして黒く艶やかな彼女の髪を、目の細かい櫛で梳いていった。
ヴァルータには黒い髪の人間はいない。黒に近い色はあるものの、純粋な黒というのはない。ルーリアはその黒く艶やかな髪を、うっとりとした面持ちで丁寧に梳きあげると、年頃の娘らしく後頭部の高い位置で一つに束ねて括り、造花で作った髪飾りで括り紐を綺麗に隠した。仕上げに、首筋に香水を一、二滴垂らし軽く擦り付ける。
「さ、できました」
「ありがとうございますルーリアさん」
にこりと笑って御礼を言った羽衣歌に、ルーリアもにこりと微笑む。そこへ朝の執務を終えたエルネスティがやってきた。彼は羽衣歌を見て目許を緩めると、彼女の頬にそっと口づけた。
「おはようウイカ」
「おはようございます」
頬を薄っすら赤く染め、羽衣歌はドレスを摘んでちょこんと膝を曲げる。誤召されてすぐの頃は、彼女の挨拶の仕方はこうではなかった。ぺこっと頭を下げる。だが、それも数日だけで、誰かが注意したらしく、今のような挨拶をするようになっていた。それは彼女を彼女でなくしているようで……エルネスティは少し複雑な気持ちになったが、そうすることで一日でも早くこちらの世界に慣れてくるのなら嬉しいことだ。
「さて、朝食を一緒に食べよう。今朝は中庭の東屋に用意させたんだ」
「中庭……ですか?」
「ああ。だいぶ暖かくなったからね。たまにはいいだろうと思って」
さあ行こう――と、エルネスティは腕を曲げ肘を突き出した。そこに、そっと羽衣歌の手が回される。そんな二人の後を、ルーリアは黙って付いていった。
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「ドレス……ですか?」
「ああ。仕立て屋を呼んだんだ」
誤召された翌日、王宮御用達の仕立て屋がきた。そして大急ぎで、普段使いのドレスを数着仕立ててもらった。だが、それだけではない。先月も別の仕立て屋を呼び、ドレス等を仕立ててもらったし、先々週には城下で人気の仕立て屋を呼んだばかりで、その時に作ったドレスが五日前に届けられた。が、正直言ってあまり着心地は良くない。デザインもいまいちで、けれどこれが今、王都の娘達の間で流行っているというのだから……流行の基準が分からない。
今現在、羽衣歌が着ているドレスは、貴族の娘が普段着るような簡素なものだが、使用されている生地はかなり上等なものであり、城下に住んでいる同い年の娘などに比べれば、その値段はかなり高いものである。贅沢をさせてもらっている自覚はあり、羽衣歌はそれを申し訳なく思う。
「わたし、今あるもので充分ですけど……」
「もちろん今着ているものも似合っているが、外出用のを幾つかと、夜会用のドレスを幾つか作っておかないと後で困ることになるからね」
「でも」
これ以上甘えることはできないと、羽衣歌は眉根を寄せた。ドレスの代金がどこからでるのか……彼女にだって分かっている。国庫からだ。それはつまり、この国の人々が納めた税金である。血税だ。そんな大事なものを、ドレスごときに使わせるわけにはいかない。
「いいんだよ甘えてくれて。そうする権利がウイカにはあるんだから」
誤召されてしまった羽衣歌の、ありとあらゆる望みを叶える義務がこの国にはある。けれど羽衣歌はそれを望まない。だからエルネスティがするのだ。この世界で生きていくために必要な物は何であるかを考え、それを彼女に贈るのだ。
「最近代替わりした仕立て屋でね、随分と評判が良いらしい。可愛い系というのかな? レースとかリボンをふんだんに使っていると、確か言っていたな。で、一度作ってみるといいわよと、一昨日ティニヤ姉上に勧められたんだ」
エルネスティには八人の異母姉がいる。何故なら彼の母は前ヴァルータ国王の三番目の王妃で、前の二人の王妃は娘しか生んでいないからだ。殆どの異母姉は嫁いだが、彼のすぐ上の異母姉ティニヤは結婚する気がなく、いまだ王宮に留まっている。とはいても、何もしていないわけではなく、彼女は王姉として外交関係に携わっていた。
他国ほどではないが、ヴァルータでも女性の登用がないわけではなく、一定の成績を修めていれば官吏試験を受けることができる。
元々数国語を話すことができたティニヤは、それを活かした仕事がしたいと考えていた。そこで登用試験を受けようとしたのだが、エルネスティにより阻止された。王族であるのだから、試験など受ける必要はないのだと……。それに王族であるからこそ、上手く事が進む場合もあるのだからと怒るティニヤを宥め、彼女に外交関係の仕事を多く振り分けるよう宰相に話をつけたのだ。
王族としての仕事もあるので、上手に調整しながらではあるが、先月、砂漠の向こうにあるジュネル国との国交が成立したのは彼女の貢献があったからといても過言ではない。
「ティニヤ様が?」
「ああ。姉上はああ見えて、可愛い物が大好きなんだ。ほら、自分は女性としてはそうとう大きいだろ? だから可愛い系のドレスやら小物をあつらえることができない。けど、大好きだから、それが似合うだろう羽衣歌に、その仕立て屋のドレスを着てもらいたいんだと思う」
そう言って苦笑すると、エルネスティは明日その仕立て屋が来ると告げた。その時は自分も同席するからとやんわりと微笑んだ彼に、羽衣歌も口端を少しだけ上げた。