02
蜂蜜色の長い髪を束ねもせず、ヴァルータ国王エルネスティはその身を寝台に横たえていた。
だが、一人ではない。
彼の隣りには夜の空をそっくりそのまま移した髪の少女がおり、瞳はしっかりと閉ざされてはいるものの、その色もまた髪と同じであることを彼は知っていた。
己よりも長く細い少女の黒髪を撫で、涙の痕が残る頬に指を滑らせその温かさを感じると、柔らかな曲線を描く額に優しく口付けを落とした。
眠っている相手に、了承も得ずにできるのはここまでである。これ以上したら、部屋の隅で控えている宮女長から何を言われるか分からない。エルネスティの乳母でもある彼女は、彼が王になっても悪いことは悪いと言い、容赦なく彼を叱り飛ばすツワモノなのである。
王となって二年。教育係であった現宰相リクハルドにより、幼い頃より帝王学を叩き込まれてきたエルネスティは、何事にも動揺することもなく常に冷静・冷淡であり、表情から何かを感じ取る――といったことはできなかった。無表情なのである。それ故、氷王だとか月の君だとかいう別称がついている。
が、誰が見ても今のエルネスティは上機嫌である。 普段の冷ややかな態度からは想像できないくらい柔らかな雰囲気だ。
何が彼をそうさせているのか?
間違いなく、この少女――羽衣歌である。
放っておけば彼女が目を覚ますまで、彼はここでこうしているだろう。だが、いい加減ここから出て、騒ぎの収拾をしてもらわなくてはならない。
「申し訳ありませんが陛下……そろそろお戻りいただけないでしょうか?」
溜息混じりの声音に、エルネスティはあからさまに眉根を寄せた。
「……野暮な男だ、お前は」
だから女に不自由するんだ――と、フンと鼻で笑ってエルネスティは、眠る羽衣歌を起こさないようそっと上半身を起こす。光沢のある彼女の黒髪に指を絡め、名残惜しげにそこへ唇を寄せた。
「ウイカ……また後で」
囁くようにそう言って、そろりと寝台から降りると、一瞬にしてその顔から表情を消した。そして感情の読み取れない顔で、控えている補佐官――サムリを一瞥する。それは先ほどまで羽衣歌へと向けていたものとは違い、この国の至高の存在である“王”の顔であった。
相変わらず切り替えが早いことで――と、サムリは感心しつつ、宮女長からマントを受け取ると、エルネスティの背後へとまわり、羽織るようにそれを彼の肩へとかけた。宮女長が素早く襟元の留め金を嵌める。
「ありがとうマルユト。で、サムリ。召喚士共の様子は?」
「皆、動揺を隠し切れない様子……」
「だろうな」
くつくつと喉を鳴らし、エルネスティは前髪をさらりと掻き上げた。オレンジ色がかった薄茶色の瞳が、きゅうっと細められる。
「まさか異世界の娘が召喚されるとは、誰も思っていなかっただろう」
己が二十歳の誕生日に行われた飛鳥の召喚で、ありえない事態が起こった。きっと過去の記録を調べても見つからないだろう。
歴代一と謳われる当代首座が呼び出したのは、飛鳥ではなく人であったからだ。
しかも、この世界ではない異なる世界の少女だ。
「どうしてこんな事に……」
「さあな。陣が間違っていたのか……それとも……」
召喚の陣は、代々の首座が口頭で次代の首座に伝えており、他の誰かがそれを知ることはない。いわば、門外不出の陣である。
通常、召喚の陣は頭の中でそれを構成し、そして召喚場の床へと転写し術を発動させるのだが、その文様は複雑過ぎるほど複雑で、パッと見ただけでは覚えることは不可能だ。そのため、間違っているかどうかなど、首座自身にしか分からないやっかいな代物である。
「神の加護が、薄れているのか」
「そんな……」
ヴァルータは太陽神の加護を受け、その力の一部を下賜された国だ。それが召喚術であり、これは他の国にはありえないものだった。
ただし、皆が皆、召喚術を使えるわけではない。そして親が使えるからといって、子供も使えるわけではない。誰にその素質が現れるか、まったく分からないのだ。しかも王族は誰一人として、この力を持つ者がいなかった。
飛鳥は太陽神の加護の証――とされている。
何故なら飛鳥とは、聖域にある太陽神殿の庭に棲んでいる神の使いであり、そして神の乗り物でもあるからだ。
太古の昔、神が人の身近に存在していた時代、飛鳥に乗り空の散歩を楽しんでいた太陽神が、とある国の世継ぎの王女に恋をした。王女もまた、美しい青年が神とは知らず恋をした。二人は情を交わし、王女は子を身篭った。
だが、神と人とが結ばれることは許されず、怒った父王たる大神が、太陽神を神殿ごと聖域へと封じてしまった。
聖域からでることは叶わず、地上を映す大鏡で自分を想い泣きぬれる王女を見ることしかできず、何もできない歯がゆさと悔しさに涙を流し、神たるわが身を太陽神は呪い続けた。
日に日に弱っていく息子に手を差し伸べたのは、大地の加護神たる母であり、この先、誰とも結婚できないであろう王女を憐れに思い、息子たる太陽神に王女と生まれてくる子供に加護を与えさせてやってほしいと夫に頼んだのだ。
自分でもひどい事をしている自覚があったのか、大神は妻の申し出を承諾し、王女の国を息子の庇護下においた。
とはいっても、太陽神は等しくその恩恵を与えなくてはならない。
故に、特別な力――使い方を誤れば毒にもなるのだが――を与え、彼らの生活を少しだけ便利にし、王女や子への愛の証として、己が使者であり乗り物である飛鳥を王家に与えることにした。
ただしそれは、召喚により――である。
そしてどんなに召喚士の力が強くとも、直系の王子(王女が生んだのが王子だったため)が王位に就かなければ飛鳥を召喚することはできなかった。しかも国を担う力量がないと、何度やっても飛鳥は召喚できないとも言い伝えられている。
実際には、まだ、一度たりともそのような事は起きていないのだが………。
直系の王子――といっても、生まれなかった場合のことを考慮しなくてはならない。
基本的にヴァルータは一夫一婦制である。もちろんそれは、王族も貴族も平民も一緒だ。
故に、王女しか生まれない場合を危惧し、王の結婚に関してのみ、特別な措置がされていた。そしてその特別措置により、エルネスティの生母は王妃となった。
だが彼には兄弟がいない。
もし今、不慮の事故や病気で彼が他界したら、ヴァルータは太陽神の加護を失う事になり、召喚術も使えなくなるだろう。これは大問題だ。そのためからか、エルネスティに妃を迎えさせる準備を、一部の重臣達が勝手にすすめていた。
だが、どうやらそれも徒労に終わるかもしれない。
無理矢理迎える妃よりも、やはり、好きになった相手の方が良いに決まっている。
「ところで陛下、あの娘をどうなさるおつもりなのですか?」
長い廊下を歩きながら、補佐サムリは硬質な声でそれを問うた。
「どうするもなにも……彼女を元の世界に帰すことができないのだから、そんなことは決まっているだろう」
分かりきったことを訊くな――と、エルネスティは呆れたように眉宇に皺を寄せる。
「そう、ですよね……」
帰すことができない――召喚士はこちらに呼ぶことはできても、呼んだそれを元の場所に戻すことができないのだ。不便ではあるが、できないものは仕方がない。サムリは唇をひん曲げると、泣き疲れて眠っている少女を思い出し、彼女のことを哀れに思った。あの娘にも、家族や友人など大切な人達がいただろうにと………。
「陛下。あの者達の処分を、いかがするおつもりですか?」
「全ては彼女次第だ」
「と、申しますと?」
「彼女が許せないと言えば、あの者達には重い罰を与える。場合によっては死罪もありえる。それだけの大罪を、あの者達は犯したのだから」
見知らぬ世界に、場所に、己が意思と関係なく強制的に連れて来られ、もう二度と元の場所に帰ることができないと知らされた少女は、心が壊れてしまうのではないかと心配になるくらい泣き叫んだ。床に伏して泣くその姿はあまりにも痛々しく……そっと己が腕の中へ抱き寄せれば、顔を上げた少女の涙に濡れた黒く大きな瞳とぶつかり、エルネスティの心臓がドキンと跳ねた。帰してと、涙ながらに訴える彼女を憐れに思いつつ、できないのだと諭すように言えば、エルネスティの肩に顔を埋め嗚咽した。
その泣き声を不快だと、感じることはなかった。
己が全てで守ってあげたいと、そう強く思った。
心から笑った顔が見たいと、そう強く願った。
「陛下」
「なんだ?」
「無礼を承知で言わせていただきますが……」
「うむ」
「……」
「……」
「……顔がだらしなくにやけております」
「っ!!」
バッと両手で己が頬を押さえると、エルネスティはギッとサムリを睨んだ。
「初心な小娘ですか貴方は? そんな風に頬を染めた顔で睨まれても、ちっとも怖くありませんよ。あーあ、氷王とまで謳われている貴方が、なんて顔してるんですか。ったくもう……」
呆れたように肩をすくめるその顔は、有能な補佐官のものではなく、幼少の頃より共に過ごしてきた幼馴染みの顔である。
「う、うるさいぞサムリ!!」
「彼女を気に入ったのは分かるし、とても良いことだと思うぞ。でもな、そんな顔、俺以外には見せるなよエル」
示しがつかないからな――と、わざとらしく大きな溜息をついて、サムリはゆるりと首を振った。
「サムリ、召喚士共の仮処分をさっさと終わらせるぞ」
「はいはい」
「彼女が目を覚ます前に、部屋に戻るからな」
「はいはい」
「ああそうだ。あれだけ泣いたんだ、きっとお腹が空いているだろう。何か軽くつまめる物を用意しておけ。そうそう、甘い物もあるといいだろう」
「はいはい」
「それとサムリ。ウイカの衣装を幾つか仕立てるから、明日にでも担当者を俺の所へ寄越してくれ」
「はいはい」
いつまでも見世物にしておくわけにはいかず、泣きじゃくる羽衣歌を抱き上げ己が私室に隣接している部屋へと連れてきて、泣き止むまで彼女を膝の上に乗せた状態で抱っこしあやしていたエルネスティである。ようやく泣き止んだ彼女から聞き出せたのは、名前と十六歳であるということだけだった。それ以外は分かっていない。何故なら、泣き疲れた羽衣歌の目蓋が、エルネスティの目の前でとろりと落ちていき、彼女は眠ってしまったからだ。
「知っているかサムリ? ウイカの声は、小鳥のごとく愛らしいんだ」
「そうですか」
補佐官とはいっても、あの時は随分とは慣れた場所にいたので、彼女の声はサムリの所まで聞こえなかった。
「さぞかし良い声で啼くだろう」
ふふふと笑う己が主に、サムリはヒクリと頬をひきつらせる。手をつけるつもりだなこのスケベ野郎――と、心の中で悪態をついた。王であるエルネスティに望まれて、否やという女性はこのヴァルータにはいない。だが、あの少女は異世界からきている。これはもしたらもしかするかもしれない。
面白いことになるかも――そう思い、ひっそり笑みを浮かべたサムリの耳に、エルネスティのうっとりとした呟きが聞こえた。
「飛鳥ではないが、アレは間違いなく俺の鳥だ」
何を言っているのだと、サムリは目を瞠り一歩先行くエルネスティを見た。
「俺だけの……王である俺の鳥……王鳥だ」
サムリはまだ知らない。
彼女の住んでいた国の言葉で、ウイカを“羽衣歌”と書くことを。
意識を手放す直前に、羽衣歌が教えたのだ。自分の名は、羽の衣の歌と書くのだということを。
羽とは羽根であり、羽根があるのは鳥である。故に、エルネスティは羽衣歌を“鳥”だと言ったのだ。
「……ご寵愛はほどほどに」
「無理だろ、それは」
肩をすくめ、エルネスティは口端を優雅に上げた。ぞくり――と、背筋が寒くなる。何も知らず寝台で眠る少女を、サムリは心底可哀想だと思った。
異世界から召喚された少女は、王鳥として、王宮という名の鳥籠に閉じ込められる。
王の愛だけを頼りに、この先、少女はこの世界で生きていかなくてはならない。
はたしてそれで、彼女は幸せなのだろうか。
その答えは彼女にしか分からない。