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碧の瞳  作者: 古瀬ヒイロ
本編・胡蝶の夢
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第二章・誰そ彼(4)

 榛名は突き抜けるような青を見上げて、とぼとぼと歩いていた。

 極彩色の空は、碧の目の色に少し似ていた。見ていると飲み込まれそうなほど鮮やかな碧。靄のかかったような秋空を迎えていた以前の世界を思い起こし、榛名は溜め息をついた。


 榛名が住んでいた町は十数年前に出来た住宅街で、当時は大々的に売り出され、若い人ばかりの勢いがある町だった。それが、家並みが風景に馴染み壁の色が褪せていくのにつれ、徐々に勢いを失くしていった。住人の年齢層は上がり、以前は多かった子供が減って、段々声が聞こえなくなっていく。そうなると何だか物悲しいもので、けれどこんなものかと納得せざるを得ない、ぬるま湯に似た空気があった。

 惟は、まるで違った。建物はとても古い。豪華な飾りや電飾もない。けれど、内側から弾けるような瑞々しい力があった。人々の目には気力が滾っていて、それぞれが国という形のないものに息吹を吹き込んでいる。

 そんな活気溢れる人々が更に猛威を振るう市で、榛名のようにぼうっと歩いていたら、威勢のいい呼び込みはあらゆるところから飛び交ってくる。それがどれも新鮮で、子供のように夢中になるうちに、榛名は碧の姿を見失っていた。気がついたときには既に遅く、人波をかきわけても彼はいなかった。

(……これは、間違いなく、迷った……)

 そういうわけで、先ほどから榛名は時折天を見上げながら歩いているのである。

 こういった場合その場に居続けるのが得策なのだろうが、こんな往来では群衆に流されて更に知らない場所に迷い込むこともあり得る。それより、人の少ない目立つ場所を見つけて待っていたほうがよさそうだ。それに時間から考えてもそう遠く離れてはいないはずである。

 出来るだけはやく碧が見つけてくれますように、と祈りながらぐんぐん榛名は歩いた。

「お嬢さん、そこ行くお嬢さん」

 ぐんぐん。

「そこの可愛いお嬢さん、ちょっと待って」

 ぐんぐん。

「おーい。明るい茶色の髪をしたそこのお嬢さん」

 榛名はぴたりと足を止めた。

 訝しみながら斜め後ろを振り返ると、金髪の青年がニコッと微笑んだ。どうやらずっと呼んでいたのは榛名のことだったらしく、人の良さそうな笑顔で小さく手招きした。

(……いいのかな)

 躊躇いながらきょろきょろと周りを窺ったが、碧らしき人影は見当たらない。榛名は慎重な足取りで近づいた。こんなところを見られたら、「どうしてきっぱり断らない」と一喝されるのは想像に難くない。

 どっかりと敷き布の上に腰掛けた彼は、顔に生来の陽気さが滲み出ていた。商売人の顔だ、と榛名は思う。きらきらと黄金に光る髪が眩しく、笑顔もあいまって青年はまるで太陽のようだった。

「さあさ、ちょっと見て行って。大丈夫、眺めるだけでお代をいただいたりしないから。可愛い女の子に相手にあこぎな商売はしない主義なんだ」

 口上はお手の物で、滑るような口ぶりだ。

 お世辞に榛名はやんわりと微笑みかけて、商品に目をやる。まるで世界の色を全てかき集めたように色鮮やかな絨毯の上に、色んなアクセサリーが並べられていた。どうやら若い少女向けの装飾品を扱う店のようだ。形や色が様々で、荒削りなところをみると手作りのものらしい。それでも、一目見れば丁寧に手をかけられた細工だと分かった。作り手の顔が浮かぶような温かみがある。

 我知らず、胸に下げてきた水晶に手が向かった。以前、これはもしやこの世界のものではないかと考えたことがある。手に取ると、その不恰好だけれど温かい感じがよく似ていた。

 似たようなものがあるだろうかと、つい目が追いかける。

 たくさんの品々の中で、一際榛名の目を惹いたのはひとつのブレスレットだった。小さな青い石が連ねられ、硝子細工のようにほのかに、けれどしっかりと輝いている。真ん中には小さな黒い蝶の飾りが下がっていて、風に吹かれて小さく揺れていた。

 よく見ると、他のものにも蝶をかたどったものが多い。何故なのだろうか。

「ああ、この国には多いんだよ。装飾品にしても何にしても、蝶を使ったものが」

 青年は榛名の視線を追いかけていたようで、愛想よく説明してくれた。

「お嬢さん、異国の子だろ。どこから来たんだい?」

 その質問はあまりに自然で、けれど榛名を警戒させないようにと完璧に計算されたものだった。榛名はそれに気付くことはなかったが、言葉を発しそうになる直前にそれは他者の手によって潰えた。

「何をしてるんだ」

 ずい、と体を押しのけられた榛名は驚いて振り返る。しかし、榛名を呼び止める人など、その仏頂面を見るまでもなく、たった一人しかいないと最初からわかっていた。

 探し回ったのだろう、少し髪が乱れて肩が上下している。

 店を覗き込んでいた後ろめたさと申し訳なさで消え入りそうだったが、碧はそんなことは気にしていないようだった。むしろ何故か怒っている。

「……榛名、お前」

 少し低いけれど涼しい声が、不自然にかすれた。

 よく見ると、彼は榛名に体を向けながら目では店の青年を追っている。碧の射るような眼差しに、彼は緩むことなく明快に笑った。

「や! 久しぶりじゃない、碧」

 青年は片手を軽くあげて爽やかに挨拶したが、碧は同じように返事をすることはなかった。それどころか、小さく舌打ちした。

 随分な挨拶だったが、青年は碧の態度にまるで頓着していなかった。それどころか、冷ややかな空気が広がるのを面白がっている風でさえある。その証拠に、碧が苛立って顔を顰めれば顰めるほど、彼の笑みは深くなっていった。人を食ったような意地悪い顔で、ふふんと笑う。間に挟まれた榛名はあわあわと視線を泳がせていた。

「何が久しぶり、だ。お前が出奔したからだろう。その上連絡一つまともに寄越さないのだから、会わなくて当たり前だ。お前と違って俺は忙しい」

「それはもう謝ったでしょー? 随分前に。しつこいなー」

「数年間連絡を絶っておきながらその言い草か」

「うーん……ほら、アレ。なんていうの? もー慣れちゃうと宮殿とかああいう場所は息苦しくってさー。面倒っていうかー、関わるのに疲れたっていうかー。ゴメンネ?」

「……お前。ふざけているだろう」

「んなことないよ? 俺の誠心誠意の謝罪も耳に残らないなんてひどいねぇー、やだなー余裕のない男は!」

「ほんっとうにお前は……っ、くらげのようにふにゃふにゃと変節して、お前には譲れない信条というものがないのか!」

「さあね」

 青年は片眉を上げて微笑んだ。碧に辛辣に詰られても、表情は一切変わらない。目を細めてただ微笑を浮かべたままだ。


「……あ」

 榛名は思わず声を漏らした。男二人の視線が、一度にこちらを振り返る。

「同じ、色……?」

 こちらを見返す二人の双眸は、同じ色をしていた。深い海の、碧の色。

「へ?」

 金髪の青年が、二の句を継げる前に碧が立ちふさがった。

「……こいつは、俺の従兄弟だ」

「いとこ……って、従兄弟?!」

 即答され、戸惑いがちに二人を見比べる。言われると確かに顔立ちが整っていることと、その瞳はよく似ていた。だが、それでも。

「あんま似てないいとこでしょ」

「はい」

 間隙なく榛名は答えた。

 見た目の麗しさは確かに共通していたが、彼らは纏う雰囲気そのものが正反対だった。光と闇のように明瞭に。雰囲気の差だけでここまで変わるのかと感嘆してしまう。艶やかな黒髪、眼光は狩人のように鋭いが、気品高い碧。明るい金髪に似合う、笑顔の絶えない陽気な青年。彼らはあまりにも似ていなかった。目鼻立ちや整った顔立ちはよく似ているが、じっくり見なければ関係性を見抜ける人は少ないだろう。

 青年はおもむろに立ち上がると、ひょいと広げた装飾品を飛び越えてこちらの目の前に立った。碧より少し背が高い。しなやかな無駄のない筋肉は労働者のそれで、敏捷な鹿を思わせた。

 にっと微笑んだかと思うと身を乗り出して、青年はまじまじと榛名を見つめた。覗き込まれる気恥ずかしさで少し鼓動が早まる。

 彼は顔立ちや服装、纏う空気まで全て派手だった。耳元はいくつもの飾りが下がっていて、胸元にも何個も輝く光が見える。括りあげた髪は乱雑だったが、きらきらと陽光に輝いていた。

「俺の名前は影虎。よろしくね」

「あ、えと、榛名です」

「榛名ちゃん、ね。可愛い名前だねぇ。こんな可愛らしい子どこで捕まえたの、碧? かどわした?」

「誰がだ、お前じゃあるまいに……少し事情があって、面倒を見ているんだ」

「へぇ? 珍しいね」

 影虎は笑みを深めた。新しいおもちゃを見つけた子供のように純粋な好奇心に満ちた瞳で。

「……榛名ちゃん、かあ。変わった名前だね?」

「え? えっと……そ、そうですね」

 榛名は首を傾げながら取り繕うように愛想笑いした。榛名にとって、碧や影虎と自分の名前は大差ないように思えていたのだ。

「あんまり見ない顔立ちだし。――どこの子?」

「……あ、の」

「何だ。文句があるのか」

「いんやぁ? ただ変わった子だねって言ってるだけだよ?」

 けらけらと笑う影虎に、碧は不快を表した。生真面目な彼にとって、ふざけた行為は万死に値するほど我慢ならないらしい。眉間の皺はいつになく深かった。……どうも近い親戚だからといって仲がいいわけではないようだ。

「……ねぇ碧。事情って何?」

 急に、影虎は冷たく表情を翻した。

「……お前に言う必要は感じないな」

「ふうん」

 碧が身構えているのが分かる。榛名もおのず固くなって、ただ成り行きを見守っていた。

「――自分だって、信条と違うんじゃないの? それは」

 影虎の言葉に、碧は眉をひそめる。

「ああ、違う違う。勘違いしないでよ、褒めてるんだって。碧にもそういう甲斐性の一つや二つ芽生えてきたのかなぁと思ってさ。寧ろ俺は喜んでるくらいよ? だってねぇ、がっちがちに固まった信条とやらなんて、後生大事にしてようがいつか簡単に真ん中からぽっきりと折れちゃうんだからさ。ちょっとくらい融通利かせないと、ねぇ」

 それは明らかに挑発であったのに、碧にはそう受け取れなかったらしい。僅かの沈黙で、彼の怒りの全てを物語っていた。

「そこに、直れ」

 地獄の底を這うように低い声が、かすかに震える。はて今は冬だったかと思えるほどの冷気が、背筋を撫でていく。かちんと音が鳴って、腰刀に碧が手をかけた。

「碧!!」

 喘ぐように叫んだが、彼の耳には届かなかった。冷たい横顔は怒りを帯びて、榛名のことを振り向きもしなかった。

 影虎は自らが誘っていながら、あくまで眉一つ動かさず微笑む。

「なあに、やる?」

「ああ――いい加減お前とは決別したかったところだよ俺は」

 碧は顔を引きつらせながら、微笑む。その背後に見えるは瞋恚の炎だった。既に目の色が違う。榛名にはただ両者が剣の柄に手をあてるのを呆然と見ているしかなかった。

 典雅に引き抜かれたその剣は、以前榛名の喉元に突きつけられたそれと全く同じものだった。外から見ていれば、その行為はあまりにも恐ろしく同時に美しい。無駄の一切ない所作は、まるで茶を点てる佳人のようだった。眼差しは火花を散らすように苛烈で、先程まで碧を覗きみていた群集は恐れをなしていつの間にか遠巻きになっている。けれどその一連の動きのあまりの流麗さに、ぞくりとしたのは榛名だけだったのだろうか。

 影虎の一手が出る前に、碧は遠慮なく剣を振り下ろした。風が空を切って、真っ直ぐ金の影を目指す。

 しかし、彼は器用にひょいっと避けてしまった。軽業のような仕草に碧はすかさず切り返すが、悠然と引き抜いた刀がそれを受け止める。しかし、抜刀したものの影虎は決して攻撃に回ることはなかった。碧の豪腕を流れるように全て受け止めてしまう。

 何度振るっても空振りし、碧は怒声を上げた。

「お前、ふざけているのか! 逃げるな男だろうが、正々堂々戦え!」

「やー、碧ってばこっわー自分のせいなのに、棚上げ棚上げぇ」

「お前……っ」

 碧はどんどん激怒していく。次第に刀の流れが荒くなっていくのが、素人の榛名にさえ手に取るように分かった。何とかしなければ、このままではただ無意味に建物の被害が拡大していくだけだ。しかし榛名にそう何度も剣花飛び散る中飛び込んでいく勇気はなかった。そもそもあれは勢いだったのだ。今飛び込んでいけばまさに飛んで火に入る夏の虫、それどころかそのまま跡形もなく燃えつきてしまう。

「ああ……どうしよう」

 かといってこのまま傍観するわけにもいかない。貴重な文化が次々に犠牲になってしまう。木の葉のようにひらひらと交わす影虎と烈火のごとく怒り狂う碧を見つめて、榛名は深く嘆息した。そして大きく息を吸い込む。

 ふ、と息を止めて、榛名は腹から声を絞り出した。

「いい加減に、しなさいっ!!」


 鶴の一声だった。二人はぴたりと争いを止めて、まじまじと榛名を見た。しかし榛名はひるむことなく雪崩のように続ける。

「往来でみんなの注目集めて何やってるの! 碧はいつもいつも手がはやすぎるの! すぐに剣を出さない、喧嘩しない! 影虎も影虎で碧のことを挑発しないっ、建物も傷ついてるし迷惑になってるんだよ! もう大人なんだから、周りのことをきちんと配慮して行動しなさいっ!!」

 大の男二人は、少女を目の前にぽかんとしていた。そして互いに目を見交わし、一呼吸置いて影虎がはじけたように笑った。榛名は驚いて影虎を見る。先程まで派手な喧嘩をしていたくせに、一瞬の後にはもう笑っているとは何事か。

 榛名の拗ねたような表情を意に介さず、影虎は頭に手を置いて撫でる。

「あー面白い、榛名ちゃんって。まさかこの年で怒られるとは思わなかった」

 逆に碧はむっつりとした顔で、大きく嘆息する。しかし、榛名に怒りを覚えた様子ではなかった。ゆっくりと刀を鞘に納める。抜き身の剣というのは見ているだけでひやっとするものなので、その姿を見て榛名は安堵した。

「もう喧嘩しないでね」

「うんうん、分かった。だいじょーぶ」

 その時、ふいに影虎が顔を上げた。

「おい、碧」ぴっと指を真っ直ぐに指す。「あれあれ」

 すんなり伸びた指先を辿っていくと、そこには必死で駆け抜けてくる――たぶん、そうなのだろう――姿があった。まるで見えない糸で締めあげられているような苦しげな声をあげ、体を上下左右に揺らしながらやってくる男性に、榛名は見覚えがあった。

「あ、あの人」「ちっ」

 榛名の横で碧があからさまに舌打ちした。

(……どうしてそうすぐに怒るんだろ)

 思わず呆れた。しかしやはり、あれはあの時近くにいた付き人の男性だ。どしどしと音が聞こえてきそうなほどふくよかな体を十分に運動させながら、懸命に進んでいる。可哀相なほど真剣だったが、残念ながら遅かった。運動会の競争で大幅に遅れをとった最終走者を見守るような気持ちになる。

 やっと三人の目の前に立った頃には、既に息も絶え絶えだった。喉が掠れてひゅうひゅうと鳴っている。

「あ、碧、で、あ」

「うるさい!」

 碧が一喝した。一度びくりと飛び上がった拍子に、全身の肉が波打つ。あまりの声量に、榛名までが震え上がった。ちらりと碧はそれを目視したが、声をかけてくれることはなかった。その表情は冷徹だ。彼は榛名の最初に出会ったあの酷薄な態度を持つ碧に切り替わっていた。首を振って、低く言い放つ。

「言わずとも用件など分かっている。すぐに戻る。黙れ」

「で、殿下。そう言われましても……」

 結い上げた黒髪が弧を描いてなびく。迫力のある眼力で、碧は凄んだ。

「黙れ、と言っている」

 しかし碧の意図していたことは、残念ながら時既に遅く、榛名は気付いてしまっていた。


 まさに、青天の霹靂だった。激しい衝撃で、金縛りにあったように動けない。手が微かに震える。何とか必死に口をぱくぱくと喘ぐように動かすけれど、言葉はうまく出てこなくて切れ切れになった。

 こみ上げるように思い出されるのは、碧の姿だった。国の未来を案じ、憂いているあの正直な横顔。悲しげに細められた瞳。

(……ああ。そっか……そういう、ことだったんだ)

「碧は……」

 あまり馴染みのない、『殿下』という言葉。はっきりとではないけれど、榛名にもある程度の意味は分かる。それが示す言葉は。

「王族?」

 彼は決して視線を外さなかった。揺るぎないその瞳に諦めは浮かんでいたが、決して誤魔化しはなかった。

「そうだ」

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