第二章・誰そ彼(3)
眼下に広がっていた世界に飛び込んだとき、彼らは予想以上にすんなりと榛名を受け入れてくれた。
元々移民の増えつつある惟では、多少覚束ない風体でもその広い懐に迎え入れてくれる。
街は大通りを中心にさんざめき、市は視野にも色鮮やかで、とりどりの色が目まぐるしく飛び込んでくる。活況を呈する店先からは多くの呼び込みが飛び交って、鳥の大群の中に紛れ込んだように、明るいさえずりが絶えなかった。
見歩く中、たくさんの人々とすれ違う。老若男女問わず活気に溢れた表情をしていた。肉体は働いて対価を得る人々のそれで、日に焼けた肌はかえってしなやかさを感じさせた。
「凄い……」
榛名はあまりの賑わいに、感嘆の声を上げた。
王国の最盛期とはかくあるものなのか。人々の息吹が色濃く刻まれて、腹から湧き上がるその力が国を動かす。国の力とは規模ではなく、そこに生きる全ての人々の思いを束ねて決まるのだ。凄い。
突然、ぼうっとしていた榛名の肩に軽い衝撃が走った。
「ごめんなさい!」
ぶつかっていった少女を振り返ると、集団で黄色い声を上げて去っていった。まるで熱帯魚のようにひらひらとした衣を着ている。榛名も以前はあんな風に少女同士でお喋りに夢中になっていた、と思って、少し懐かしさを感じたものの、ひどい感傷には至らなかった。とにかく今はこの惟を見て回りたい。
貪るように四方八方きょろきょろ目を彷徨わせながら、せわしなく大通りを進んでいった。
肉が焼ける匂い。狼煙のようにたちこめる煙、まだ生きていてびちびちと跳ねている魚。大通りには沢山の店が軒を連ねひしめいていた。その種類もとにかく豊富で、天井にまでびっちりと服が下げられている店、果物や肉を量り売りしている店、買い物がてら歩きながらつまめるものを売り出している店と様々だ。中には綺麗な装飾品を取り扱う路上の店もある。店といっても、カーペットの上に商品をところ狭しと並べ、店員も一人きりという小さなものだ。
榛名は心躍らせた。ここはまるで夢のような空間だった。こみ上げてくる喜びに、たまらず榛名の歩みは速くなる。
「うわあああああああ」
「おい榛名。きょろきょろとしているとまたぶつかるぞ」
「凄い凄い、碧! 目が眩んじゃいそう!」
伸びをしながらくるりと回ると、相変わらずむっつりとした顔があった。
「……はしゃぎすぎだろう。さっきと違って」
「だから、言ったでしょ? 元気を出すことにしたの!」
ずっと悩んでいた榛名にとって、碧の言葉は単純だったが、素晴らしい効力を持っていた。
もちろん、王の死の秘密を知るという事実は変わらない。知れ渡れば榛名の身の安全に関わる、重大な秘密だ。未来を動かしてしまう可能性も消えたわけではない。全部がすっきりとはいかないが、それでも随分と気が楽になった。
気にしていても仕方ない。可能性ばかりを考えて、萎縮していても解決はしない。
惟は、限りなく広大で、榛名の知るどこよりも美しい場所だ。――ならせめて今は、この国を精一杯生きよう。いつか帰るそのときまで、決して後悔しないように。そう思えた。
「碧、碧、ねえ、あれは? あれは何のお店?」
「骨董品だ」
「でも、毛糸とか本とかもあるよ」
「この店は骨董品専門の業者じゃない。今の季節は天候がいいから素人もたまに出店しているんだ。おのず種類は雑多になる」
「なるほど。フリーマーケットみたいなものかあ」
「……お前の言葉は分からん」
横文字には辟易しているのか、碧はしかめっ面で溜め息をついた。
「業者さんは少ないの?」
「いや。殆どは商売人だ。食物は大体がそうだな。大量の卸が必要になるし、短期間で売り切れなければならないから、気ままに店を開けることは出来ない。素人が出すのは、家にある変わったものや骨董品や、自分の使い古しを安く譲っている店が多い。日と個数を決めて、こだわった手製の料理を出す、というところもあるが、そういう店は一日で売り切れるだけの量になるな。――何だその顔は」
榛名はくすくすと堪えきれず笑っていた。
「……何を笑っている」
「碧って意外と律儀だなぁと思って」
「はあ?」
訝しげな碧に榛名は笑顔で返した。
碧は往々にして威圧的だ。その冷たい反応にしょぼくれてしまうことだってあるが、それでも今まで、聞いたことには呆れながらもきちんと説明をしてくれた。答えをはぐらかしたり、面倒だからと無視することはない。簡潔に、けれど丁寧に、物分りの悪い榛名に根負けすることなく教えてくれる。
「碧、連れてきてくれてありがとう」
頭を下げると突然の謝意に驚いたのか、碧が目を丸める。そのうち苦りきった顔で、首を振った。
「……お前は本当に、理解しがたい」
「そうかな? わたしには碧も充分理解しがたいけど」
「言うようになったな」
じとりと睨まれて、榛名は首をすくめた。
確かに、慣れとはありがたいもので、碧の対応に関しては随分と逞しくなった気がする。今や彼の尊大な態度の裏を見つけていくことが、榛名にとって日常の中の小さな喜びになりつつあったのだ。
市は街を貫くように宮殿から真っ直ぐ一本に伸びている。他よりずっと道幅のあるこの通りは、鳴通りといって、日によって店すら変わる目まぐるしさが特色であり、麓鳴の中でも一番賑わう場所だ。
他の通りに入ればきちんとした店構えを持つところも少なくないが、榛名の国にあったスーパーマーケットのように、何でも揃う万屋はどこにもないのだそうだ。まとめて揃えたいときはまず鳴通りを真っ直ぐ歩く。いくつか店を覗けばそれでもう不自由しない。それほどに雑多なのである。
「この先を行けば賀来通りというのが、鳴通りを丁度横切る形である。そこからは市は小さくなるが、代わりに大きな老舗の店舗が多くなってくる。大体市では扱えないような高級品、専門書、薬などを揃えているな。表通りの店は問題ないが、間違っても裏道には入るなよ。あまり品の良くない連中も出入りするところだ」
さらさらと説明する碧の横を歩く榛名は、最初のはしゃぎ具合がどこへやら、段々と言葉少なになっていった。
というのも、かなりの数の視線が二人に向けられていたからだ。――正確には、碧に。
碧はかなり人目を引いていた。だが榛名でさえ、それは当然だと思わざるを得なかった。碧は目立つのだ。
いつもより随分と質素な服装で、身を飾るものも玉の首飾り一つ、決して目立つような服装だとは言えないが、それでも纏う雰囲気は他者と圧倒的に異なって、群衆の中でもはっきり色づいて見えた。その迷いなく闊歩する姿に惹かれて、見るととんでもない美丈夫なのだから、視線が集まるのも無理はないだろう。
碧は慣れているのか、衆目に晒されてもたじろぐ様子はなかったが、よほど不愉快なのか三割増しで凶悪な顔をしている。
居心地の悪さに耐えかねて、榛名はおずおずと言い出した。
「碧、あの」
「何だ」
「……すっごく見られていると、思うんだけれど……」
榛名の言葉が聞こえたのか、周囲の女性たちはここぞとばかりに碧に向かって手を振った。
「知るか。俺は人を不躾に注視するような奴は嫌いだ」
「わっ聞こえてるってばっ!」
青ざめて制止したが、時既に遅く、女性たちはさっと気色ばんで向こうに行ってしまった。
「……碧ってば、ちょっと今のはひどいと思うよ。あの人たち、見ていただけなんだし」
「どうでもいいだろう、そんなことは。人の顔をじろじろ見てきて、それで相手が喜んで手を振り返すと思っているほうがおかしいんだ」
「碧っ」
窘めても考えを改める気はないらしく、碧は視線が合うたびきつく相手を睨み据えた。これで相手が男性ならば喧嘩に発展しかねなかったが、目が合うのは決まって女性だった。どうしたものかと気を揉んでいたのだが、とうとう榛名より年下に見える可愛らしい少女がちらちらと遠慮がちな視線を向けていたのにさえ容赦なく舌打ちしたので、榛名は肩を落とした。
「碧……もう、碧が目立つのにも問題があるんだからね」
青ざめて泣き出しそうになりながら逃げ去っていく少女を見ると、可哀相でならなかった。
「目立つ、と言われても」
碧は困ったように溜め息をついた。
どうも目立っている自覚はあるが、それが何故なのかは分かっていないらしい。地味な格好をしているし、なんら問題はないと言いたいのだろうが、問題はそこではなかった。
真っ直ぐ射るような眼差し。姿勢よく闊歩する背中。こんなにたくさんの人がいる中でも、気品というのだろうか、彼は格が違っていた。小さな仕草ひとつひとつが優雅で、とにかく目を引くのだ。そこにつけてこの美貌が上乗せされているのだから、目立たないはずがなかった。
「とにかく、睨むのは……」
言い添えようとした瞬間、突然がくんと足から力が抜けた。
あっと思った、その拍子に背後からやってきた人が体勢を崩した榛名にぶつかり、前に向かって無防備な状態で突き飛ばされる。
本能的に受身を取ろうと手が伸びると同時に、力強い腕が榛名の体を掬い上げた。
見上げると、碧が目を見張っている。咄嗟に榛名を抱えてくれたお陰で、転倒しかけたものの膝を軽く擦っただけで済んだらしい。落ち着くと至近距離に迫る顔が恥ずかしくなって、身を引こうとしたが、まだうまく足に力が入らなかった。
「……急に動くな。危ない」
宥めるように榛名を制する。
そのままゆっくりと抱えた榛名を引き起こし、自力で立てるようになるまで手を取って支えてくれた。
「突然どうした」
「……ごめんなさい」
碧が珍しく心配そうに表情を曇らせた。
「お前、どこか悪いのか」
榛名は一瞬どきりとした。碧は硬い声で言う。
「変な倒れ方をしていた」
少し躊躇いながら、榛名は笑ってみせた。
「……たいしたことじゃ、ないんだよ。覚えてないんだけど、昔、わたし足を怪我したんだって。それで、今もたまに力が抜けて、よくこけちゃうんだ。でもそんなに頻繁じゃないし、普段は走ったり飛んだり何でもできるの。だから大丈夫。気にしないで」
「……そうか」
表情を緩めた碧を見て、大丈夫と念押しするように繰り返した。
すると碧は、少しだけ、柔らかく微笑んだ。甘く、溶けるように。
「な、なに?!」
自分でもはっきりと分かるくらい急激に心拍が上がって、榛名は火照った頬を見られないように押さえた。動揺する榛名を置いて、碧はいつものしらっとした態度に戻っていた。
「いや。……馬鹿なやつだな、お前は」
「へ?」
「変わっている、と言っている」
「そ、そう? わたし何か変なことした?」
「悪かったな」
「え?」
「足。今まで気がつかなかった」
「そんなことないよ。自分でも忘れちゃうくらい、本当に大した傷じゃないから」
「――気がけておく」
碧はそのまま進みだしたので、榛名は奇妙に思いながらもついていった。
すぐにその歩調が変わっていることに気付く。
(……あ)
垣間見える横顔はきりりとしていたが、以前よりぐっと近く見えた。
どこが違うのか分からない。けれど、そんな小さなことでも、榛名にとっては驚きだった。
榛名にとって、碧は遠い存在だった。どれほど慣れても本当の意味で近づくことはできない、誇り高い孤高の獣。どれだけ時間をともに過ごしても、この層は重ならないのだろうと思っていた。
けれど今、彼の背は優しかった。自分の気の持ちようでそう見えるだけなのではないかと疑ってしまうくらい、僅かな差異だけれど、確かに張り詰めた空気が和らいでいた。
――変な人。
こんな時代に突然やって来て、もう嫌だ帰りたいと、何度繰り返しただろう。
けれど塞ぎこんで、そこに留まり続けていたら、きっと気付かなかった。この世界の美しさと、明るく地に根ざして生きる人々。そしてそれを大切に思う、自分の心。
(碧がこんなに変な人だから、元気でいられたのかな)
誇り高く、真っ直ぐで、折れない強さを持っていて。けれど不器用で、人に優しくすることひとつうまく出来ない。彼は榛名に停滞を許さなかった。そのお陰で、榛名はこうして前を向いていられる。
――碧のおかげだ。
「……何だ。まじまじと」
首を捻って振り返る碧に、榛名はえへへ、と頬を緩ませた。
「あーお」
覗き込んですっと頬に手をやると、ひんやり冷たかった。
はっとしている瞳と目が合う。
一呼吸飲むと、榛名は思い切り――そう思いっ切り、その頬を引っ張った。
「な」
そんなことをされた覚えがないのか、まさかそうくるとは思ってもみなかったのか、間抜け面のまま彼は拍子抜けしてぽかんとしていた。
「え・が・お! しかめっ面じゃあ楽しくないよ、碧」
手を離しても碧はまだ唖然とした表情のままだ。ぷっと笑って、榛名は言った。
「ね、折角だから、いっぱいまわろうね。笑って」
「だからといって人の頬を引っ張るな」
「はい。ごめんなさい」
素直に謝ると、碧は面持ちを緩めて、情けなく眉を下げて苦笑した。仕方のない奴だという声なき声が聞こえてくるようだった。
ぱ、ぱぱぱーん。
耳に破裂するような盛大な音楽が響いて、榛名は音の鳴るほうに目を向けた。
異国風の変わったリズムだ。一抱えもある大きな楽器をくるくる回す楽団の中心には、呼び声高く張り上げる道化師がいた。目にも眩しい色彩の衣装は人垣の中でも特に目立つ。とっとっと、と時折よろけてみせる姿に観衆は手を叩いて笑っている。
「あれなあに?」
「見世物だ」
「行ってもいい?!」
目を輝かせて身を乗り出す榛名に、碧は少し身を引きながらも頷いた。
「碧、置いてくよ!」
一目散に駆けて行く榛名に、碧は呆然としていて、視線だけがその姿を追いかける。
既にびっしりと人垣は埋め尽くされていて、割り入る余裕はどこにもない。半円に取り囲む背の高い群衆の隙間から必死でぴょこぴょこと背伸びしている榛名を見て、
「……はる……」
声をかけかけて、碧は伸ばした手を下ろした。
「何をしているんだか……」
――らしくない。
溜め息は大気を濁らせて消えていった。