第六章・心火(3)
背中で風の鳴るような情けない喘鳴が聞こえる。苛立って聞こえるように舌打ちすると、ひぃぃと悲鳴が漏れた。
(どうしていつもいつもこいつがついてくるんだ)
床板を踏み抜かんばかりに荒々しく碧は歩いた。彼を侍従に据えた透に夜通し文句を垂れたい気分だ。
この常におどおどしている肥満体型の侍従が、碧はどうも好きになれなかった。始終怯える、体力がない、様子を窺うばかりで仕事も出来ない。不満だらけだ。立場上この侍従のように気弱で日和見する性質のほうが都合いいと分かっているが、だからこそ顔を見るだけで腹立たしかった。
こいつはもう限界だろう。息は上がって、今にも倒れこみそうな足取りだ。使えないどころか、捜索には足手纏いである。
――はやく巴を見つけて、済ませてしまいたいのに。
ひたりと足を止め、碧は突然棒立ちになった。
「で、殿下……?」
訝って無神経にも覗き込もうとしてくる恥知らずな顔を叩きつけ、ぴしゃりと言いつけた。
「お前はここでとっとと帰れ」
「えっ……は……?」
「何度も言わせるな。息がうるさい足が遅い。邪魔だ迷惑だとっとと帰れ。俺は俺で探す」
「い、いやしかし、透殿が……」
「透には俺から伝えておく。――そのみっともない汗を落ち着かせてから言え」
上衣の裾を翻して、碧は戸惑い顔に「ついてくるなよ」と念押しした。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔のまま立ち呆けている男の姿が小さくなっていき、清々したと碧は胸を撫で下ろした。元々、碧は一人で仕事をするのが好きなのだ。誰かがいると集中出来ない。何にも邪魔されず没頭するほうが性に合っている。
角を曲がって、自室へ急ぐ。榛名たちが待っているはずだ。巴のことで不安げだったから、顔を出すだけでも安心するだろう。
蝶の格子戸の前にたどり着き、手をかけたとき声がかかった。
「碧」
「……透。何だ、俺の部屋に向かうところだったのか?」
灰色の髪を揺らして、別の通路から走り寄って来る。
「そうですよ。影虎の都合を聞き忘れましたし」
「ああ……」
そういえば碧もすっかり忘れていた。なし崩しに任せてきてしまったが、影虎は今まで一度も宮に泊まっていったことはない。あの年で門限はないだろうが、いつまで残るつもりか聞いておく必要があるだろう。
「そちらは巴、見つかりました?」
「全く。見かけたという話すら聞かない」
「こちらも道中聞いてはみたんですけどね。……外に出ていないといいんですが」
透は渋面で嘆息した。
通用口も大門も、ともに一晩中兵が詰めている。特に通用路のほうは夜間は閉鎖されるため、そこから出て行くことはないはずだ。それでも、崖を下れば絶対に出られないわけではない。――出ていたら、収拾のつかない事態だ。
つられて深刻になる碧に、透はにたりと笑った。
「それにしても、碧、あなたどうやって榛名さんと知り合ったんですか?」
「は?」
藪から棒にそう聞かれ、碧は眉根を寄せた。
「今更何だ。唐突に」
「いえ、変わったかただな、と思いまして」
「何かあったのか?」
尋ねると、透はふっと笑った。
「あなたを心配していましたよ。ついでにきついお灸を据えられました」
「は……? 榛名が?」
お前にか。そう言いたげにあんぐりする碧を見て、透はくすりと笑う。
「……巴のこと。あなたが思い詰めるようになったのは全てを任せきりにした私たち皆の責任なのだと、そう言っていました。他人のために本気で怒ってくれる人はそういるものじゃありません。大切に、なさい」
言葉が染みていくと同時に、碧は声もなく頬に朱を上らせた。
――そんなことを、考えていたのか。
あの大人しい榛名が、それで。
緩む口を隠して、碧は目を細めた。
巴のことを一人で解決しようとするようになったのは、なにも透たちだけのせいではない。碧もまた、自分しかいないのだと思っていた。自分のせいで壊れていった彼女へ、それがせめてもの償いだと。
けれど、そんな碧のことをあれからずっと榛名は考えていたのだ。味方になりたいと、そう言ったときから。
――変わっていく。
光が移ろうように、瞬く間に。
「そうとなれば早く見つけましょう。心配させますよ」
「うるさい」
からかいを振り切って大股で闊歩する。程なく部屋の前にたどり着き、碧は異変に気が付いた。
一歩踏み込む、その足音がやたらに反響する。広くはないその部屋に、人気はない。火も落とされ、衣擦れの音一つ聞こえてこなかった。
「……いません、ね」
透もまた顔を強張らせた。
出かけているはずはない。こんな夜中に、それも巴が出歩いている状況で、影虎が榛名を連れ出すわけがない。
頭が冷えていく。焦りを唾とともに嚥下した。
(いや――何かあるはずだ)
影虎は決して弱くない。戦闘においては碧よりも秀でているほどだ。だが、ここには乱闘の形跡がない。ということは恐らく、榛名とともに自ら出て行ったのだ。
慌てて碧は油皿を引っつかむと火を灯した。自分から出て行ったのなら、必ず何かを残しているはずだ。机にはなかった。油皿を投げるように放り出すと榛名の部屋へ向かう。花柄の灯篭をかざすと、ぽつりと寝台に置かれた手紙に気が付いた。乱暴に鷲掴むと、皺の寄った両端を開く。目が字句を追うとともに握り締めた手に力がこもり、小指の爪が肉に食い込んだ。
「どうかしました?」
卓上の光しか入れなかったのを灯篭に移し変えて透がやって来た。
その声に冷静さが戻ってきて、息をつく。
「……影虎は巴を追ったそうだ。榛名と」
「……は? どこにです」
「西の森に」
「森に……?」不可解に瞬いた瞳は、はっと見開かれた。「まさか」
「そのまさか、かもしれない」
「そんなはずないでしょう。巴は既に覚えていないはずです。これまで一度もそんなことは」
「だとしても、思い出す可能性はある」
二人は苦虫を噛み潰したような顔で目を伏せた。髪を掻きあげて、透が深く息を吐く。
「だから嫌な予感がしたんですよ……」
「追うぞ。火皿がまだ熱かった。そう時間は経っていないはずだ」
大きく顎を引くのを視認して、碧は大股に踵を返した。
*
はあっ。
荒い息が耳に疲労をもたらした。
まだまだと踏ん張る意気を挫くように、疲れている、と自覚する。
一歩、土を踏みしめる音は雨を含み、泥の匂いが立ち上る。淀んだ空気は喉を締め付け、靴裏はべったりと湿っていた。
「大丈夫、榛名ちゃん」
振り返る影虎に、榛名は頷いた。疲労は足に纏わりついていたけれど、限界というわけではなかった。
鬱蒼とした木々は人の手の入らぬことを物語っている。決して楽な道程ではなかったが、それでも進めるのは、勾配が急ではないことと、前を歩く影虎が邪魔な枝葉を打ち払ってくれているからだった。お陰で、その手には細かな傷がいくつも出来ている。
(気を、つかわせてる)
榛名は体力がない。あちらでも運動部だったわけではないし、こちらに来て引きこもってばかりで、体力は衰える一方だった。だが、ついていくと決めたのは自分だ。取り柄は根性だと自分を叱咤して、重い足を持ち上げた。
無理をしているのに気付いているのか、影虎は眉を下げて微笑みかけた。
「ごめんね、連れてきて」
「ううん、わたしが行くって決めたから」
息を荒げながらも力強く答えた。歯を食いしばると、気合を入れて大きな根を踏み越える。
「……榛名ちゃんはさ」
「ん?」
「巴のこと、怖くないの?」
「怖いよ、すっごく」
思いのほかきっぱりとした答えに、影虎は目を向ける。
「あんな風にここにいない人を見るのは、きっと誰だって怖いよ。でも、碧のほうがずっとずっと怖くて、痛かったんだと思う。だから、わたしは怖がってられない」
「碧のためってこと?」
慎重さの隠れた問いかけに、榛名はふっと相好を崩した。
「……わたしね、強くなりたいんだ。わたしはきっと疫病神みたいなものだよ。翠に死を運んできた疫病神。でも、そうなりたくない。碧たちに厄災だけ運んでくる存在には」
「そんなこと」
「ううん。何て言ったって、翠に告げたことが消えるわけじゃない。わたしはひどいことをしたの」
告白したとき、本来なら榛名は手打ちにされてもおかしくなかった。王に余命を告げるというのはそういうことだ。
けれど、碧たちはそれを受け止めてくれた。ただの主君ではない、大切な兄弟のことだったのに、動揺をおくびにも出さず、翠に会わせてくれた。それが嬉しかったのだ。そう出来る彼らを強いと思う。優しいと思う。叶うなら自分もそんな風になりたい。彼らが大切にするように、同じく守りたい。この国を。生きる人々を。
「だからわたし、後ろは向かない。決めたの、前に進むって」
「やっぱり、榛名ちゃんは強いよ」苦く笑って、影虎は低い声で呟いた。「……ひどいことなら、俺もやってるよ」
横顔は薄氷のようだった。驚いて注目する榛名を振り返ることなく続ける。
「榛名ちゃん言ったよね。巴から逃げ出した全員が、碧を一人にしたって。――俺だってそうだよ。結局は碧や翠を置いて、ここから逃げたんだ。あいつを一人にした。……仕方ないとかね、言うのは簡単だけど、それであいつはあんだけ思い詰めることになったんだから、やっぱり俺のせいだよね」
乱雑な音とともに葉が震える。力任せに断たれた枝が、無残にばさりと足元に転がった。
「……今はこうして戻ってきたけど、榛名ちゃんがいなかったら、俺はきっとあのまま一生碧には会わなかったと思うよ。会いたくなかったし」
自嘲を漏らす影虎に、榛名は激しく首を振った。
「違う。わたしのせいじゃないよ。どんなことがあったって、戻るのを選んだのは影虎だよ」
「……うん。そっかも。でも俺、あの時――榛名ちゃんに初めて会ったとき、結構びっくりしたんだよね。碧が女の子連れてたことにも、それなのにあんまきつい顔してなかったのにも。会わない間に、碧も変わったんだなって思った。だから大丈夫かなって。……結局、会えば心配になるんだよね。放っとけなくなっちゃった」
互いにくすりと笑う。木の根と岩が絡みついた段差に難儀していると、手が伸びて、引き上げてくれた。
「ありがとう」
「いーえ」
「影虎はさ」
うん?、と首を傾げる彼に、榛名は言った。
「影虎は、一度好きになった人のこと、何だかんだ言っても放っておけないんだよ。そういう巡り合わせなの、きっと。言ったでしょ? 碧のこと、結構好きなんだって」
「……俺は可愛い女の子とそういう巡り合わせになりたいんだけど」
本気の口調に榛名は声を上げて笑った。影虎も苦笑しながら肩を揺する。
「ま、とにかく巴を何とかしないと始まんないよね。まずはどこ行ったのか見つけなきゃ」
「見失っちゃった?」
「いや、姿は見えないけどここってしばらく行くと崖になるんだよね。巴の足で行ける範囲はあまり広くない。雨上がりだし、歩いた形跡も分かるから、見つけるのはそう難しくないよ」
ちなみに巴が歩いたのはあっちね、と影虎は木々の向こうにある一段低い道を指差した。当たり前だが、榛名たちは彼女と同じ場所は通らない。鉢合わせになるからだ。
しかし――影虎は何故、巴の歩いた道のりを見渡せる高さがあり、木々を打ち払えば歩くことも出来る場所を知っているのだろうか。
「……ここ、慣れてるの?」
「うん?」
「ここ、よく歩いてたの? 森って迷いやすいはずなのに、影虎、迷いなく歩いてるから」
「ああ――昔ね、碧たちと忍び込んで、よく遊んでたんだ。危ないから入るの禁止されてたんだけど、逆に冒険心が疼いて、入り込むのはしょっちゅうだった。だから知ってる――」
影虎は喉の奥を鳴らして、きらりと目を光らせた。「この奥に、何があるのか」
「……何、が……?」
息を潜めて囁いた榛名は、そのまま影虎の背中にぶつかった。
「……やっぱり」
短く舌打ちして、影虎は額を摩る榛名を振り返った。
「榛名ちゃん、ここで行き止まり。巴と同じ道になるけど、少し戻ってそこから下りよう」
「えっ?」
影虎の背後を覗いたが、確かにそこからは崖になっていて、上っていくのも不可能な急斜面だった。不安げに見下ろせば、土の中には白いものがぽつぽつと置かれていた。苔生しているそれは、よく見れば石畳だ。
「……あれ? あの、影虎……この先に何かあるの?」
「あるよ。塔」
「塔?」
先に下りた影虎に支えられながら慎重に下りる。
「……そこから、海が見える。海上からの敵を見つける、物見の塔だよ」
物見の、というわりに長いこと使われてはいないようだった。並べられた石畳は、一部剥がれていたり欠けていたりしている。真っ白だったはずの色も土で汚れ、苔で変色していた。上を歩けば、ずるりと生暖かい感触がする。
そのうち石畳は割れたものが減ってきた。ぬるぬるとした苔も消え、日のない中、石畳の白だけが目に眩い。整然と並ぶ様はまるで社のようだった。見上げる空は狭く、葉で包むように閉じられている。
(不思議な場所……)
しばらく行くと、石畳の脇には石灯篭が現れた。人が行き来している様子はないのに、何故か火が入れられている。等間隔に並ぶ、手をこまねくように揺れる火に、榛名の意識はぼやけていった。宙に浮く。乖離する。
――果たしてここは現実だろうか。まるで胡蝶の夢に迷い込んでしまったかのようだ。鬼火の舞う、闇と光のあわい。現実と夢の狭間。自分が蝶になる夢を見たのか、蝶が自分の夢を見ているのか分からなくなる――
榛名は、どちらだったのだろうか。あちらにいた榛名と、こちらにいる榛名、どちらが夢で、どちらが現実だったのだろうか――
「榛名ちゃん!」
呼びかけに榛名はびくりとした。
「あっごめ……」
弾かれたように返事をしたが、影虎は強い力で榛名の腕を引っ張った。
「隠れて」
強く耳打ちする声にはっとする。
二十歩ほど先には祠があった。石造りの小さなそれには花が供えられている。
その前に、彼女は立っていた。背筋はぴんと伸び、切り揃えられた髪から垣間見える顎は細くて、後姿からでは彼女が狂っているようには見えなかった。けれど――。
榛名は鈍く唸る胸を掴んで、唇を噛んだ。……気付かれている。肌でそれを感じる。これ以上近づくなという警告を全身から発している。にじった足がざらりと音を立て、彼女はゆっくりと振り返った。深紅の唇が目を引く。
見合わせた幼い顔立ちは、思いのほか無邪気に笑った。
「あら、影虎」
「……っ」
驚きに目を見開きながらも、影虎は即座に身構えた。そんなことは気にも留めず、彼女は笑う。
「どうしたの? あなたも姉さまのところに?」
「……」
「久しぶりにここに来たら、ねえほら見て、お花があるの。わたしも持ってきたらよかったわ……姉さま、お花が大好きだったから。うっかりしていたわね」
自分の失態を照れたように茶化す彼女に、榛名は狼狽した。
何だ、これは。あまりに――あまりに、彼女は「普通」すぎる。普通の、どこにでもいる妙齢の女性にしか見えない。笑い方にも話し方にも、微塵も狂気の欠片は窺えない。
巴にもこんなまともな一面があったのだろうか。しかし、その考えは影虎の表情が断固として否定していた。
違う。榛名が僅かに見知った彼女、あれが全てなのだ。幼い子供のような拙い喋り方をする、夢の中を彷徨う彼女――もしくは、怒りを顕わに口汚く罵倒する彼女。そのどちらかしか存在しない。
けれど、今の彼女はそのどちらにも当てはまらなかった。何より、あの洞のような、誰を見ているともとれない目がなかった。
透の言葉が木霊のように反駁される。――いつもとは違う。そう言っていた。確かに、いつもとは違いすぎる。宰相の息子である影虎に敵意を向けることさえしない。
異常事態に、影虎の顔が険しくなった。
「……お前は何をしに来たんだ」
吐き出すように影虎は言う。
「こんなところまで、何をしに来たんだよ……!」
何度か瞬きして、巴は柳眉を歪ませて呟いた。
「姉さまに、会いたくて……」
哀愁に揺れるその瞳に、薄く膜が張る。思わず同情したくなるような儚さに、榛名は怯んだ。すんと一度鼻をすすって、巴はふふっと微笑んだ。
「教えてもらったのよ。姉さまがどこにいるか」
「教えてもらった……?」
「そうなの。ずるいわよね、ずっとずっと隠していたのよ。独り占めにしていたの。わたしから隠しておきたかったのよ……ずっと、ずっと……ずっとずっとずっとずっとずっとずっと」
駆け上がるように言葉が醜く潰れていく。気付いたときには遅かった。
「ひどいわよ!!!!」
怒声とともに光が一閃し、その瞬間榛名は突き飛ばされた。
どしん、と腰部に重く痛みが走る。顔を上げると、裂かれた袂が目に入った。冷水を浴びせかけられたように、すぐさま頭が冷えていく。
「影虎!!」
見上げる横顔には緊張が刻まれている。額には玉の汗が浮かんでいた。
「逃げて」
影虎が低く呟く。相対する巴の手には、鈍く光るものがあった。――短刀だ。懐中に忍ばせていたのだ。
(ま、待って)
逃げなくては、と頭では分かっている。こんな状況になってしまっては、榛名は足手纏いでしかない。彼の枷をなくすためにも、逃げなくてはならない。けれど、このまま巴と二人で残していっていいのだろうか。巴は影虎には容赦しないというのに、一人で。
迷いは正直に体に伝わり、腰にも足にも、立ち上がれる力は沸き起こらなかった。――どうしよう。どうすれば。
こんな時、碧ならどうするだろう。きっと一緒に戦う。透なら、茜音なら戦うだろうか。萎える足を蹴飛ばしてでも逃げるだろうか。――翠なら、どうするだろうか。
こくりと喉が鳴る。
「た」
唇が震える。
「たすけ……」
動揺が声を小さくさせる。
腹にまで届くように大きく息を吸い込んで、榛名はキッと目尻を吊り上げた。
「助けて、碧ぉおおおおおおおおっ!!!」
やけっぱちの咆哮が木霊して、森中に響き渡る。
わんわんと最後の残響が返って来たとき、葉を掻き分ける音とともにそれは絵に描いたようなタイミングで現れた。
緑の向こうから現れた血色の悪い顔は、榛名を見て僅かに緩む。相当慌てたのか、藤色の上等な衣は泥で汚れ、木々で引っ掛けたような跡がいくつもあった。
「榛名!」
坂を滑り降りて碧は榛名の手を取る。指先は氷のように冷え切っていた。はあ、と深い吐息が頭上に落ちる。
「……心配、した」
「ご、ごめ……」
「透」
碧のあとに続いてきていた透はそれだけで了解して、榛名の手を引き取った。
「大丈夫ですか? 怪我は」
「な、ないです。でも影虎が」
「それは碧に任せましょう。大丈夫ですよ、見ていれば終わります」
その言葉通り、碧は刀にも怯むことなく影虎に並んだ。巴を見て、穏やかに話しかける。
「……巴。剣を収めてくれ」
「あら、殿下」
喜色を浮かばせて、巴は啜り上げるように奇妙に哂った。
「久方ぶりですわ。ご立派に成長なさいましたわね……姉さまのことを殺したくせに、あなただけ」
「お前っ!!」
顔を赤くして腰に手をかける影虎を、碧は手で制した。そして静かに向き合う。
「……一面、そうかもしれないな」
「あなたは王に相応しくない」
「確かに、俺には向いていない。影に徹するほうが性に合っている」
「あなたは呪われているわ」
「それも、その通りだ。この目は確かに呪われている」
「あなたは」
すうと、一筋の涙が頬を伝った。
「わたしの大切な人を、殺したわ……」
それを聞いて、碧の顔が悲痛に歪んだ。
巴は知らない。彼女が大切な人を失ったのと同じく、碧も大切な生母を失ったのだということを、きっとこれから先も一生理解することはない。
「ねえ、碧」
頬を濡らしながら、彼女は美しく笑った。
「一緒に、死んでくれる? ここで、姉さまが身を投げたこの塔で、一緒に、死んでくれる?」
(……な)
ぞっとして背筋が凍りつくのと同時に影虎の怒声が響き渡った。
「ふ……っざけるなよ!! 一緒に自害しろだ?! そうなる前に俺がお前を殺してやるよ! そんなに死にたいなら俺がっ」
「影虎」
影虎の柄に伸びる左手を碧が食い止めた。そして首を振る。
「……碧」
「いいから、待ってくれ」
掴んでいた手首の力が緩むのを確認して、碧は手を離した。
「……巴」
碧は真っ直ぐに巴を見据えて、僅かに苦笑した。
「……済まない。もし昔の俺だったら、翠さえいなければお前とともに心中してやってもいいと多分、思っていたと思う。けれどそれは出来ないんだ。……俺は変わった。翠がいる。他に大切にしたいものも、守りたいものある。だから、お前とともには行けない」
穏やかだったが、確かな口調だった。拳をかたくして視線を上げる。
「だから俺は……」
「裏切るの?」
射るような眼差しに、碧は反射的に息を詰めた。
「わたしのこと、もういらないの?」
「違う、巴。俺は……」
「いや、聞かない。聞かない聞かない聞かない!」
「巴」
困ったように眉を下げて、けれど碧は根気強く繰り返した。
「捨てはしない。きっと一生抱えていく。それがお前を一人にした、俺の責任だ。……だが、お前と二人だけでは行けない。死んでやることは……出来ないんだ」
しんと静まり返って、突然巴は掠れた声で呻いた。
「……どうして?」
どうして。どうしてなの。
その一言が、壊れた音響のように繰り返される。
潤んだ瞳は次第に燃える炎を宿し、憎しみをもって碧に向けられた。
「裏切り者!! 嘘つき!! 一人にしないってそう言ったくせに!!」
言葉は短刀よりも奥深くまで貫く刃となる。その深い憎悪に、毅然としていた碧ですら視線を落とした。思いつく限りの罵倒が浴びせられ、息が上がったのか巴は黙り込む。そして一言だけ、搾り出すように呟いた。
「……ねえ、さま」
ぽたりと涙が落ちる、それが最後の合図だった。彼女は最後まで、碧の影に垣間見える慕わしい人の姿だけを見て――そして、襲い掛かった。
目を伏せていた碧は一瞬反応が遅れた。目前に迫る姿に息を呑んでたたらを踏む。
「碧っ!!」
誰の叫びか、声が重なって判然とはしなかった。
振り上げられた刃がきらりと瞬いて、思わず目を閉じた瞬間――
不吉な音が聞こえた。
体内で骨が折れる、汚泥のような音。
巴は目を見開き、一度唇が震えて、ごぼりと血を吐き出す。
「な……」
ごおおん。鐘が鳴る。
いや――鐘ではない。巴の手にしていた短刀が、割れた石畳に落ちた音だった。それが彼女の絶命を知らせた。喉を貫いた刀以上に、何より確かな音だった。
驚愕に震えながら、碧は呻いた。
「……な、ぜ」
巴の背後から現れた人物は、にこやかに答えた。
「お久しぶりです、殿下」
そう言って小さく礼をしたのは、惟国宰相、寧――その人だった。




