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碧の瞳  作者: 古瀬ヒイロ
本編・胡蝶の夢
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第一章・奇跡(2)

 告白は大仰な溜め息をもって迎えられた。


「お前は馬鹿か? 俺がそんな話を信じるとでも思っているのか」

 碧の剣幕にたじろいだ榛名は、俯いて自分の握り締めたこぶしを注視した。馬鹿、の一言にやたら力が込められている嫌味っぷりに、溜め息が出た。

 碧は椅子に体を投げ出すように、深く腰を据えていた。見下ろす目は胡乱げで、だがしかしそのあまりの高慢な態度に榛名は閉口せざるを得なかった。腕組みをして、乱雑に重ねた足はコツコツと拍子を刻み、苛立っているのが分かる。

 しかし、榛名に何の落ち度があるというのだ。不満を滲ませて榛名は呟いた。

「信じてくれるとは思っていないけれど……」

 そう、こんな荒唐無稽な話を信じてくれるとは思っていない。それでも今までのことをありのままに話したのは、自分でもこの状況がよく理解できないからだった。

 誤魔化したところで下手な嘘はすぐにばれるだろうし、何より正直に話せば、碧が自分の滅茶苦茶な話に対し、何か明快な答えを導き出してくれるかもしれない、助けになってくれるかもしれないと少なからず期待していたのだ。あまりに都合のよすぎる話だと自分でも理解していたが、こうもあっさり裏切られるとやはり打ちのめされてしまう。

 碧は少し眉を顰めた。

「お前の話は無理がありすぎるんだ。まず何故あそこにいた?」

「だから、気がついたらあそこに……というか、同じ部屋にいたはずなんだけれど違う部屋になっていたの。違うって言っても、綺麗になっているっていうか、まるっきり違うってわけじゃないけど」

 また碧が嘆息する。榛名も自分の説明がうまく噛み合っていないことをわきまえていたが、これ以上どう説明すれば理解してもらえるというのだろう。榛名自身でさえ何も分かっていないというのに。

 碧は眼差しを強めて睨み据えた。

「あそこは禁域だ。お前のような一般人が入れる場所じゃない。あの部屋には劇薬、国宝、あらゆるものが揃っている。今いるこの部屋も居住区にあたるため一般人は立ち入ることが出来ない。そもそもここに勤める人間以外は夜間、宮殿には入れない決まりになっている」

 榛名は驚いた。そんな説明、どこにもなかった。

「そんなこと、知らなかったんだもの」

「知らなかったじゃ許されないんだ」

 碧は冷たく言い放った。榛名はそれにむっとする。禁域にいた自分もいけないのかもしれないが、それは刀で脅されるほどのことだろうか。ましてや人違いだったというのに。碧の短絡的行動で驚かされた分、帳消しにされてもいいと思う。

 碧は一度息をのみ、少し身を乗り出した。

「じゃあもう一つ聞こう。あの部屋で、人影を見なかったか」

「見てない」

「よく思い出せ」

「だから、見てないんだったら。私があそこに来たのは、碧があの部屋に来る直前だよ!」

 碧は眉をぴくりと動かした。そして徐に言う。

「碧様、と呼べ」

 榛名はその一言に、口をあんぐりと開けた。

 見た目から察するに、彼の年齢は十八、九ほどだろう。榛名は十五歳なので、年上だ。年長者は敬うべきものであると彼女は知っているし、そうしてきたつもりだが、榛名を刀で脅してきた上、偉そうにふんぞり返るこの人物に、『様』などと畏まった敬称をつけて呼ぶ気にはなれなかった。

「碧も私を榛名って呼ぶでしょ。だから、おあいこ」

「俺はいいんだ」

「……」

 あまりに自分勝手な理論に頭痛がしてきて、榛名はこめかみに手をやった。これはまともに会話が出来ていると言えるのだろうか。今までの疲れがどっと噴き出して、肩に重石が乗ったようだった。

 意気消沈した榛名を見て、碧は会話を諦めたのかついとそっぽを向いてしまう。

 今日幾度目か分からない溜め息を落とすと、榛名は碧の顔色を窺った。むっすりとした顔をしているが、見れば見るほど端整な顔立ちだった。湖面のような清涼さのある、すっきりとした目鼻立ちに、それに似合う紫がかった藍色のような深みのある色をした瞳。だが、その美貌は今苛立ちに歪んでいた。

(そんなに怒らなくてもいいのに)

 事態が正確に飲み込めていないせいか、不思議と榛名は楽観的だった。とにかく今は彼が苛立っていることのほうがよっぽどの問題だ。

 何を考えるでもなくぼうっとしていると、突然声がかかった。


「おい」

 声の主である碧が、衣服を榛名に投げつける。榛名は慌てて受け取った。

「……何、これ?」

 広げてみると、それは明らかに女物の服だった。真っ白なワンピース、が一番近いと思う。榛名の着ている制服と違い、かなり上等そうだ。服の生地や縫製をさして気に留めたこともない榛名でもそれは分かる。これは自分はおよそ一生着ることのないような高級品なのではないだろうか。

「お前の服だ。お前がその格好のままでいたら目立って仕方なかろう」

「目立つ? 制服って、そんなに変な格好なの?」

 榛名がきょとんとして問いかけると、碧は一瞬憐憫にも似た色を浮かばせた。

「少なくとも、俺は見たことがないな」

 ずしり、とその言葉が圧し掛かってくる。見たことがない。ミタコトガナイ。

「……そ、っか……」

 榛名の着ている制服は一般的なセーラー服だった。それに、自前のキャラメル色のセーター。榛名の世界でいう珍奇な格好は、むしろ碧の服のほうだ。見た目は着物のようだが、ブーツにも似た靴を合わせているし、普通の和服ではない。異国の服装――しかしここでは、それは榛名のほうなのだ。榛名はぎゅうっと服を握り締めた。ワンピースに灰色の跡がつく。

 やはりここは別の世界なのだ。今、自分は白いシーツに落ちたインクのしみのような異物になっている。タイムトリップだとか、そんな馬鹿みたいな話は到底信じられないけれど。とにかく現実はこうして全く知らない世界にやって来てしまった。何もかも分からないが、それだけは実感として胸の底に沈んでいった。

 部屋はしんと静まり返った。どこからか、虫の鳴く声がしている。

「……違う世界から来た、か。それが本当なら」

 碧はぽつりと呟いた。それは誰かに向けて発せられた言葉ではなかった。窓から覗く月を見上げる碧の横顔はどこか遠く、美しかった。

 本心が垣間見えた言葉に榛名がはっと顔を上げると、碧は静かに見返した。そして、すっと部屋を出て行きながら、聞こえるか聞こえないかの声で榛名の目線に答えた。

「何でもない」




*



 碧は榛名がワンピースを着用して、しばらく後に帰ってきた。しばらくと言っても、当初帰ってこないことを疑問に思い、次に置いていかれたのかと不安になり、最後にやっと服を着る時間を与えてくれたことに気付き、あたりを警戒しながら用心深く着替えたので、随分間延びした尺度の『しばらく』だった。そのため、榛名に考えるための時間は山ほどあった。

 帰ってきた碧に、榛名は早速意を決して質問した。


「はあ? ここがどこで、何時代かだと?」

 返ってきた不躾な答えに、こくこくと頷いた。

 落ち込む暇はない。めそめそしていたって現状は変わらないのだ。ならばまず榛名のすべきことは、今の自分の居場所を確かめることからだった。

 碧は月を見ていた時の不思議な穏やかさは掻き消えて、今まで通りの碧に戻っていた。何故だか寂しげにも見えた頼りないあの様子は影も形もない。それに胸を撫で下ろしたしたとき、意外なことだが碧が尊大な態度を取るからこそ、この異様な状況のわりにまだ安心できているのだと知った。碧の隣にいたあの小太りの人のように一緒にあわあわされてしまうと、不安は募るばかりだっただろう。

「……本気で言っているのか?」

「当たり前です」

 榛名は力強く答えた。

 予想では、ここは多分惟の国か、その少し前の時代だ。宮自体は変わらずあるので、全く見ず知らずの異界に来たのではないと推量する。具体的に絞り込むなら、碧やあの小太りの人を見る限りこの時代は決して困窮しているわけではなさそうだし、翠王、あるいは翠王以前の緑王時代ではないだろうか。もしこの事象が、ただ単に時間を飛び越えただけならばの話だが。

 碧は眉間に幾重にも皺を寄せ、不快と大きく達筆で書かれた顔のまま、押し殺した声で尋ねてきた。

「……お前は記憶に何か障害でもあるのか」

「何にもないよ。記憶自体がないから」

 訳が分からん、と碧が唸る。榛名が逆の立場で、もし碧が榛名の時代にやって来ていたのなら、きっと榛名も意味が分からないと思っただろう。頭を強く打ちでもしたのかと疑ったかもしれない。碧の反応は当然のことだ。それは理解できたが、差し迫った状況下にいる榛名にとって、その反応は辛いものでもあった。状況を推察してはいたが、焦りや不安もまだ自分を大きく突き動かしていたからだ。それでも榛名は現状を確認し、進まなければならないのだ。

 必死な様子に碧は少し呆れたように溜め息をついた。

「――ここは惟の国。翠王の時代だ。ちょっとは思い出したか」

(思い出すも何も……でも、予想は当たってる)

 タイムスリップしたということか。榛名はそのありきたりな言葉におかしくなった。窮地に立たされている榛名にとっては、陳腐にも程がある。

 しかし、一つ問題があった。翠王は十九で暗殺されるが、記憶にある限り、具体的に十九のいつ頃だったかなどの記述はなかったはずだ。内部でのクーデターなので、一番危険なのは暴動が起こるこの宮殿。勿論それから荒廃の一途を辿るはずなので、どこにいても安全とは言い難いのだが、少なくとも翠王が十九の歳を迎えるまでに、何としても榛名は元の国に帰らなければならない。

 榛名は機を逃さぬよう、そのまま続けた。

「ねえ、今翠王って何歳?」

 碧は榛名の常識のなさ――全く違う場所からやって来た以上当然なのだが、勿論彼にそれが納得できるはずもない――に心底呆れたようだった。深く嘆息し、眉根を寄せながら答えた。

「翠王陛下と呼べ。陛下は御歳十八であらせられる」


 一気に体中の力が抜けた。


「……うそ……」

 言葉だけが勝手に喉から搾り出された。

 けれど、頭の中は真っ白だった。

 あと、たったの一年。

 ―― 一年しかない。

 タイムリミットは榛名の想像よりはるか目前に迫っていた。

 一年といっても没する正確な時期が分からないので、もしかすると数ヶ月後かもしれない。そんな短期間で、榛名の世界へ帰る術を見つけられるのだろうか。どうやって来たのかすら分かっていないのに。

 自問するまでもなく、既に榛名の中では、絶望的な答えが出ていた。そう思いたいわけではない、可能性がないなんてことはあり得ないと自分を励ますが、心に出来た影は暗い可能性ばかりを耳元で囁いた。

 ――反乱――暴徒――助かるはずがない――抵抗する術を持たない――そもそも――この世界でどうやって生きるのかも――検討がつかない――弱い――帰るあても――

 どろりと胸のうちで淀んでいた全てが、突然の出来事に奔流のようにこみ上げてくる。それは不安とないまぜになって榛名を責めたてた。崖に追い詰められた猫のように孤独で、恐怖に耐えられずがくがくと手足が震えだす。嘘だ、嘘だ、とその一言が耳元でこだまし続けた。

(帰れるの? どうやってここに来たのかも分からないのに……ちゃんと帰れるの? それもたった一年で。帰れなかったらどうなるの? これから起きる戦争の騒乱の中で、私なんかが生き残れるはずない……、じゃあ)

 導き出された答えは、ひどく絶望に似ていた。

「私、死ぬの……?」


「は? ……おい?」

 今度は碧が狼狽する番だった。

 榛名は泣いていた。喚くでもなく、叫ぶでもなく、ただ静かに。

 大切な人たちが脳裏に浮かぶ。榛名にだって家族がいる。友達がいっぱいいる。こんな突然に、選択の余地もなく命の危険に晒される場所に連れて来れられて、そのままもう逢えないのだとしたら。

「やだ……」

 か細い声でそう呟いた。涙と一緒になって落ちたその言葉は、擦り切れたレコードの音のように、消えるのではないかと思うほど儚かった。

 帰りたい。自分でも驚くほど、帰りたくてたまらなかった。

 決して円満な仲のいい温かい家族ではなかったと思う。両親は冷たく無関心で、姉はどこかよそよそしく、そもそも家を出ているのであまり会うこともない。弟も両親の仕事の都合でしょっちゅう祖父母に預けられていて顔を合わせることは少なかった。

 それなのに今、家族に会いたくてたまらない。再びあの世界の空気に包まれたかった。母親の膝の上に帰る幼子のように温もりにくるまれて、無条件に安心したかった。

 突然の事態に麻痺していた痛みが、榛名の胸にどっと去来した。途方もない恐怖が、どんどん膨れ上がり少女を押し潰していく。

「お……おい、お前! 榛名、何を泣いている! 説明しろ!」

 泣きじゃくる榛名に、どう対応していいのか分からない碧はひたすら問いを繰り返した。身勝手で無神経で高慢で、出来るならこの人からも解放されたかった。しかし、そうなったら今度こそ榛名はこの世界で一人きりになるのだ。この世界はあまりにも理不尽だった。榛名に対し、恨みでもあるのかと詰問したいくらい冷たい態度を取った。

「……いやだ……帰りたいよ」

 あの、温かい世界へ。何もかも手放しで忘れられる場所へ帰りたい。

 体を折り曲げて榛名は泣き暮らしていた。嗚咽し、声を上げながら、とうとう喉が枯れてしまうまで泣いた。泣いて何かが変わるわけではないし、今閉じられている目を開けば、元の世界に戻っているというわけでもない。それでも泣かずにはいられなかった。

 それまで右往左往していた碧は、諦めたのか静かに榛名を見守っていたが、ふいに声をかけた。

「家族か」

 碧の声が聞こえる。だが、返事をしようにも、涙が邪魔で言葉にならなかった。分かるか分からないか瀬戸際の、本当に僅かに頷くだけで精一杯だった。

「会いたいか」

 また同じように頷く。頭の中まで泣き喚いていて、痛みがじんじんと響き、碧に伝わっているのかは榛名にも分からなかった。

「……も、……もう、やだ……」

 切実な願いだった。何もかも投げ出してしまいたかった。自分勝手に放り出して、忘れてしまいたかった。箍が外れると、弱い榛名は次々顔を出す。堪えていた不安や混乱が黒い血となって全身を巡っていくのを感じた。

 しばらくそのまま空白があって、ふと妙に力強い声が降り注いできた。

「ならば、俺がお前の居場所を探してやる。だから泣くな」

「……は?」

 榛名がしゃくり上げながら真っ赤な目で見上げると、相変わらずしかめっ面の碧が堂々と言い放った。

「だから、俺がお前の帰る場所を探してやると言ったんだ。一回で理解しろ」

 呆気にとられて、一瞬言葉を忘れる。その一瞬で碧は先ほどの言葉を翻してしまいそうで、慌ててつっかえながらも何とか言葉をひねり出した。

「碧が?」

「碧様だ」

「そんなの、どうやって」

 憮然とした表情で言い返すと、得意気に碧が笑った。

「お前は俺を誰だと思っている。俺に不可能はないんだ」

 呆けたようにぼんやりとしていた榛名は思わず、ふ、と笑い声を漏らした。碧はむっとしたようだったが、一度笑ってしまうとどんどん笑みが深くなっていった。変な人。矜持が高くて扱いにくくて、無神経で自分勝手で……でも、優しくないわけではない。そんな、人。

 心を侵食していた黒い靄が、動きを止めた。残された明かりが、薄ぼんやりと光を放つ。

「……あり、がと」

 そしてこの世界にやって来て、初めて笑えた。

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