第一章・奇跡(1)
あの瞬間、光が見えた気がした。
最初は眩いほどの白。それが、どんどん溶けていって……そして最後に包まれたのは、あの吸い込まれそうなほど美しい碧の世界だった。
*
少女は立っていた。ぎゅっと胸の前で腕を合わせ、何かを守るようにして。震えるその目には、決意というより、悲壮に満ちた諦観が宿っていた。
昨年から着古してだらりと伸びたキャラメル色のセーターの裾を、ぎゅっと掴む。
(……何でこうなっちゃったんだろう……)
彼女の思う『こうなった』とはつまり、たった一人、女子中学生が古びた建物に挑むように突っ立っているこの状況のことだ。
眼前にそびえる色彩の失せた建物は、過ぎた年月を雄弁に語っている。朱塗りの柱、黒檀で丁寧に塗られた縁取り。昔はさぞ立派な造りだったのだろう。それに興味がないわけではない。課題のレポートの研究対象にここを選んだのは他でもない自分なのだから。けれど貴重な休みの一日を潰してまで、単身人気のない昔の建物にやって来るのは流石に気が滅入った。
大きくため息をつくが、そんなことで奥深くまで根を張った空しさが消えていくはずもなかった。それどころか、一層侵食を許したようにさえ思う。
暗い表情のまま、すっと上を見上げた。
(ほんと、寂れた建物……)
かつての栄華は、今はもう煤だらけになっていた。絢爛たる歴史も、いつか風化し打ち捨てられていく。建物の一部は木がむき出しのまま無残に露出していて、修繕の手が十分に行き渡っていないことを物語っていた。
少女――佐川榛名の住む時間とは、全く異なる世界を生きてきたものだ。
時はもう過ぎ去った。満ちるものはいつか、その器すら破壊するだけ。栄枯盛衰。永遠なんていつも有り得ない――。
惟の国最後の王、翠王は暗殺されたと史実には残っている。実の叔父である寧の宰相が突然造反し、結果まだ十九の若さで死亡。稀代の名君が崩御し、国は大きく揺らいだ。
当時の惟は豊かな経済の上で成り立った、どの国からも羨まれる平和な国だった。それが王の死没により、王宮は形骸と化した。
宰相は王の座に成り代わろうとしたが、そうできる器ではなかったのか、あるいは民の支持を得られなかったのか、それは史実には残されていないが、国はみるみるうちに瓦解していった。そして王位不在のまま、国は退廃。終わった。
惟については今現在、たったそれだけしか分かっていない。不思議なことに、一世を風靡した大国であるにも関わらず、惟には資料といえる資料が残っていないのである。現存しているのは、この宮殿と僅かな肖像画や装飾品のみ。若くに即位した実際の王がどのような人物だったのか、宰相がどのような人物だったのか、それすらも分かっていない。
秋口に差し掛かったこの季節の風は、少し肌寒い。早いかと思ったが、セーターを着てきて正解だった。この宮殿は切り立った山を背にしていて、そこから吹き降りる風は体の芯まで貫くほど冷たかった。セーラー服はブレザーと違って胸元が心もとなく、冬場には首をすり抜けていく自分の吐息でさえ冷たさを感じる。榛名は冷気から少しでも身を隠せるよう、裾をつまんだ。
宮殿は、入り口に大きな鳥居がある。稚児柱があるので、いわゆる両部鳥居だ。
塗られた朱は錆色を帯び、上部の笠木は黒塗りになっていて、見るからに質素だ。ぱっと目を引くような鮮やかさには欠けているが、榛名は作り手のセンスのよさに感動した。橙がかった銀朱は鳥居でよく用いられているが、この色のほうがきっと雪によく映える。
正式にはここは神社ではないので鳥居とは別物だが、これは『神社への入り口』としての鳥居ではなく、『神域への入り口』としての鳥居なのかもしれない。王を神と同一視するのはよくある話だ。
宮殿は神の住まいに相応しく、厳かな空気が漂っていた。宮殿というとヴェルサイユやバッキンガムといった豪奢なもののように聞こえるが、実際は鳥居に相応しく華美な装飾は一切なかった。
規模はかなりのものだが、見た目からは神社に見えるほど飾り気が少ない。全体が錆色がかった滋味深い様相は、見ているこちらに襟を正させる、緩やかな圧力があった。
カメラを取り出して、全体を写すと一枚だけ柱の写真を撮る。柱をよく見ると、かすかに傷跡が残っていたが、もう読み取ることは出来なくなっていた。手を伸べてそっと触れると、ざらりとした木の感触が伝わってくる。少し撫ぜると、木屑がぽろぽろと大地に落ちていった。
榛名は両手を叩いて埃を落とすと、歩みを進めた。こんな馬鹿馬鹿しいこと、早く終わらせてしまうに限る。そう、自らに言い聞かせるように小さく頷いて。
人気のない様子に戸惑いつつ、榛名は入り口に立った。そこから貫くように続く長い廊下は、途中でチェーンが下ろしてある。
ここは棟がいくつかに分かれていて、一番前方に来ている棟は政治を執り行う、雑に言えば職場だ。そこから左右にはそれぞれ住居の棟がある。この廊下を行くと一度庭を挟んで、王やそれに近い重臣の住まいがあり、その更に奥に一回り小さな棟があり、そこが後宮になっている。どこの棟も基本は回廊続きで、小さな小部屋が山のようにある。
ひょいと鶴のように首を突き出して中の様子を伺った。
昔の建物ながら、空洞かと思うほど天井が高い。かすかな衣擦れが反響し、大げさに聞こえた。回廊の奥を見れば外光は届かずほのかに薄暗く、静謐が霧のようにたちこめていた。
じんと耳が痛くなるほど静かだ。ひんやりとした冷たさは感じるが、意外なほど埃っぽさのない空気だった。ちょうど鍾乳洞に似ている。入り口に立ちすくんだまま見渡すが、やはり人の気配は感じられなかった。
辺りを見渡してから、榛名は丁寧に一礼して、大きく何度も深呼吸した。
意を決して一歩足を踏み入れようとする直前、誘うように突風が榛名の背を押した。少しよろけながら足をつくと、一呼吸で肺の中の空気が入れ替わるのを感じた。
古い建物独特の匂い。厳格で壮大な様相はそれまでの重みを感じさせた。取り囲む圧力。けれど、決して不快ではない。踏み入れると急に体に空気が馴染んだようで、榛名はゆっくり歩き出した。
何となく目に付いたものを映しながら進む。この写真をいったいどこで使おうとぼんやり考えたが、思考は蝸牛のようにのろのろと前進を拒んでいた。資料に使うたった数枚の写真のために、一日を丸々潰した自分を想像すると、気だるさはどんどん増していく。
中には食事を摂っていたと思われる部屋、書庫、王の私室などもあったが、どれもさして興味を惹かれなかった。政務の場であり、王の生活の中心である場所は、実務優先で飾り気に欠けている。その素っ気無さは、榛名の進入を許しながらも未だに拒んでいる気がした。
広い室内はところどころチェーンが下ろされているため、そのたび足を返して、収めた写真を見返すこともなく枚数ばかりを増やしながら、どんどん進んでいった。
榛名がやっと歩みを止めたのは、他の部屋と比べると随分小さな扉の前だった。何故かここだけが、少し新しくなっている。黒塗りはわずかに剥げているが、塗りなおしたばかりのように見えた。
「修繕したのかな……」
そっと扉を開けてみる。ギィ、と断末魔のようなひしゃげた音がした。
そこは他の整えられた部屋とは違い、少し雑然としていた。綺麗に整頓されているのだが、倉庫だったのだろうか、とにかく物が多いので、まるでそれぞれが自分の居場所を確保しようとせめぎあっているように見えた。
棚にはたくさんの瓶や、小さな箱が並んでいた。瓶は茶色っぽくくすみ、どれも中に何も入っていない。すんと鼻をすすると、埃っぽい中に、薬を貯蔵していたのだろうか、薬草のような独特の苦い匂いがかすかに混じった。
部屋の真ん中には、何故か燭台がぽつんと置いてある。火はついていないが、灰が中に溜まっていた。灰はまだこびりついておらず、薄汚れているがここ最近使用したばかりに見える。
(……遺跡で火をつけたの?)
怪訝に思い指で掬い取ってみると、柔らかい灰はすぐに指にくっついた。軽くぬぐって、部屋を検分するように歩き回る。
日差しは小さな窓が一つあるだけで、それも埃を被り、僅かに差し込む温い陽光が部屋を暖めていた。硝子製の瓶がきらきらと光る。ゆらゆらとした反射は、温かみがあってどこか懐かしい気分に包まれた。
しかし次の歩をゆっくり踏み出した瞬間、違和感に榛名は声をあげた。
「ん?」
足の裏にごりっとした固い感触がある。
壊してしまっていないかと少し慌てながら足を上げると、落ちていたのは首飾りだった。金属製の鎖ではなく、皮紐に通された少し古ぼけたものだ。
それでも紐に通されていた石は、その衰えを補うように輝いていた。どうやって作ったのか、ダイヤモンドのようにはっきりとした輝きを放っている。石は透き通っていながらどこか乳白がかっていて、手の上に乗せると、とろんとした神秘的な透明を誇らしげに見せ付けていた。榛名は思わずうっとりとした。
「綺麗……」
水晶を見ていると何故か、追慕の念がよぎった。胸の奥底、もっともっとやわらかい場所が、きゅうっと締め付けられて痛むような。
(わたし、こんなの見たことあったかな……どこかで、見た気がする。そんなはずないのに、不思議)
小さな水晶は、榛名の小さな手のひらにも馴染みよく収まった。手にとって傾けると、窓から入ってきた太陽の光に反応して、ちかりと一瞬またたいた。
そして、
*
「――どこへ逃げた!」
「い、いえ、それが……多分この部屋の奥では……」
「この役立たずが! 兄上を襲った犯人を逃してただで済むと思うのか貴様は……」
(え?)
榛名は目を開けた。
声である。男性二人の声。一人は肉厚っぽく、一人は若い男性の声で、喧々と怒鳴り続けている。徐々に近づくその声はしかし、ひどくくぐもって聞こえた。
慌てて体を起こすと、白んでいた世界から一気に引き戻され、違和感で頭がぐらぐらして思わず眉頭に手を伸ばした。
もしや、あの一瞬で寝ていたのだろうか。目をしぱしぱさせながら、榛名は声がする背後を振り返った。
見ると、先程開け放していたままにしていた扉が、何故かきっちり閉まっている。声はその向こうからするのだった。もめているのか、ここからでも如実に伝わってくるほど語調が荒い。少し恐ろしくなり身を縮こまらせ、榛名は辺りを窺った。
周囲は完全に闇に包まれていた。先程までは太陽が日中一番高い場所で陽光を振りまいていたはずなのに、今空に浮かんでいるのは柔らかに光を放つ冴え冴えとした満月だった。
「……え……?」
今度は焦りをもって再びあたりを見渡した。眠っていたのかという先程の考えは、すぐに違うことが分かった。目の前には煌々(こうこう)と部屋を光で満たす燭台がある。さすがの榛名も、眠っていても誰かが明かりをつけに来たことに気づかないはずがない。それに、扉を誰かが閉めたのならば無礼にも遺跡で眠っている榛名を起こしただろう。
よくよく見てみると柱も調度品も、全て新しくなっている。空だった瓶には何かの液体が満ちて、埃がかっていた床はワックスをかけたように輝き、薬草の匂いは先程よりも濃厚に充満していた。
「――どういうことなの」
得体の知れない恐怖にぎゅっと手が強張った瞬間、気がついた。手のひらにはまだあの水晶が握られている。
はっとして全身を確認したが、そうするまでもなく、榛名は未だにやぼったいセーラー服を着ていて、寝坊でセットの甘かった髪の毛も、曖昧にはねたままだった。そう、変化していないのは自分だけなのだ。世界の変容に、自分だけがついていけていないのである。
榛名はただ呆然とした。何故。何故。何故。その問いばかりが頭の中を埋めていった。自分だけを切り抜いて、ぺたりと別の絵に張り替えられた――そんな感じだ。
「な……にこれ」
汗が背中をびっしょりと濡らしていて、部屋は燭の火で温かいはずなのに背筋が凍りついた。全身が粟立つ。榛名は壊れた機械にそうするように、何度も自分の頭を叩いた。それで痛みは感じられても、状況が変わることは決してなかった。
その時、ドンと激しく扉を叩く音がして、榛名は飛び上がった。
「ええいうるさい! お前などに任せていては捕らえられるものも逃がしてしまう! そこをどけ、俺が犯人をひっ捕まえてやる」
扉の向こうから若い男性の怒鳴り声がして、榛名は息を詰めた。異質の事態に対する恐怖で抗うことも出来ないままに、ただ目の前の扉がひどく軋みながら開くのを、コマ送りのようにじっと見つめていた。
逃げなければ。どこかでそう思う。悪いことはしていないとか、何も知らないとか、そういう言い訳は全く使い物にならない気がする。とにかくこの危機的状況から逃げなくてはいけない。けれど、どこへ――その問いかけに、榛名は答えられなかった。
どたんとひどい音で開け放たれた扉に、人影が立つ。
明かりからは遠すぎて照らせなかった黒い影は、足取り荒く近づいてくる。
目の前にやって来て、榛名の影にその人物は飲み込まれた。顔が見えない。思わず身じろぎしたその瞬間、銀色に閃く光を見た。それと同時に急に息が苦しくなり、背中と頭に強い痛みを覚えた。呼吸が一瞬止まる。驚きで見開かれた眼は、流星のように滑る光線を捕らえて、そしてそれは榛名の首筋で止まった。傾けるとかちりと鳴ったそれは、模造でしか見たことのなかった――日本刀だった。
「見つけたぞ! お前が犯人だな……その首今ここで跳ね飛ばしてやる!」
自分の血の気が引いていくのが分かった。胸倉を掴まれ、馬乗りになられていることに気がついたのは今やっとのことだった。頭が痛いのはいきなり引き倒されたせいだった。喉の奥で音がかすかに鳴っているが、声にはならずに消えていく。
首元に、ひたりと冷たい感触がある。その青白く光る刃の冷酷な温度は榛名を慄然とさせるのに十分だった。ほんの少しでも身じろぎすれば、首の皮が切れるだろう。抵抗しようと暴れたならばどうなるか理解してしまうと、小刻みに震えることしか出来ずに榛名はただ青年を見つめていた。
横に並んだ燭台の明かりで、怒りに燃え猛る青年の顔が浮き彫りになる。揺らぐ炎が映る面は、不似合いに涼やかだった。
しかし何より目を惹いたのは、その瞳の色だった。吸い込まれそうなほど深い藍。深海を思わせる底なしの美しさが、榛名を睨めつけていた。
榛名はただ恐怖におののき硬直していた。
何がどうなってこんな状況になっているのか、さっぱり把握できない。何度も何度も考えてみたが、何故彼がこんなに怒り猛っているのかさえ榛名には分からなかった。何もかも分からぬまま、理不尽に自分は殺されようとしている。あり得ない。そんなこと、現代の秩序にあってはならない。
(夢だ。これは、きっと悪い夢だ……でももし夢じゃなかったら、)
ぞっとした。そんな恐ろしいことあってはならない。どうか今すぐ目覚めてと榛名は必死で祈ったが、現実は頑固で岩のようにびくともしなかった。それでも何かが起きることを願って、色の褪めた水晶を力の限り握り締める。だが当然、何も起こりはしなかった。
がたがた震える榛名を見て、青年は少し眉根を寄せた。
「ん?」
顔を寄せると、怯えきった榛名の顔をまじまじと見つめる。覗き込んだ拍子に髪が揺れて、耳飾りがさらさらと鳴った。
「……おかしい」
彼はそう呟くと、いきなり榛名の顔を鷲掴み、燭台の方向へ向けた。あまりに乱暴な仕草に、驚きよりも恐怖が先にたつ。歯の根が合わずがたがたと勝手な音を立てるのが不興をかわないように、榛名は必死に歯を食いしばった。
青年はまたしげしげとし少女を見つめると、しばし間を置いてから確認するように呟いた。
「……やはりそうだ。貴様女だな?」
その一言に、さっと顔が怒りで赤らむ。しかし顎を強固に掴まれている以上、逆らうことはできなかった。蚊の羽音のような声でかろうじて肯定したつもりだが、聞こえたのかどうかは確かでなかった。
しばらく沈黙した後、青年は榛名の眼前に迫った顔を退けて、刀を納めた。鬼気迫る表情もやや和らいでいる。榛名は刀が遠のいたことにほっとして、体の緊張が解けると同時にどっと汗が噴き出した。
ようやく新鮮な空気を吸えた。蛙のように情けなくも必死で喉を動かし、呼吸する。しかし、青年は刀こそ納めたものの榛名の上から退く気はないらしい。そのままの体勢で、扉の向こうへ怒鳴った。
「おいお前、犯人はこいつだったか!」
恐る恐る出て来たのは、小太りの男性だった。眉尻を下げ、今にもこの世で一番最悪のことが起きやしないかとでも恐れているように常におどおどしている。申し訳なさそうに忙しなく瞬きする目は、糸のように細々としていた。青年とは違い、真っ黒な何の飾り気もない地味な服を着ていて、身なりもあまりよくない。一歩進むたび、丸まった背中は何度も何度も小さく会釈をしていた。
彼は床に押し倒されたまま震えている榛名を見て、何度もまばたきした。青年と少女の間を視線が繰り返し往復し――ようやく決意したように、はっきりと言った。
「違いまする。わたくしめが見たのは、もっと大男でした」
「自慢げに言うな。お前が犯人をとり逃したことに変わりはないではないか、この大うつけが」
青年の毒のような言葉に、ひいっと小さく声を上げると、男性のそのふくよかな体も針で穴を開けた風船のようにしぼんでしまった。青年の雷を何より恐れているらしい彼は、口元でぼそぼそと何か呟いて情けなく震えている。どうやらそれは謝罪のようだったが、青年は気にも留めず榛名のほうに向き直った。
「おいお前、何故ここにいる」
「え……?」
戸惑う榛名に、もう一度彼は問うた。
「何故ここにいるんだ」
「え……あの、分からな……」
狼狽する榛名に、彼は少しむすっとした顔をした。
「名は何という」
え、と彼を見ると、それくらいわかるだろうと言いたげに顎をしゃくって促した。
喉を鳴らして榛名はそっと答えた。
「……榛名」
「ハルヤ?」
「違う。は、る、な。……ハシバミに、名前の名って書いて、榛名」
榛名が一生懸命一文字ずつ唱えると、青年は口を閉じたまま何度かもごもごと動かした。そして不機嫌そうな顔のまま、独り言にも似たそっけなさで言った。
「……榛名。すまなかった」
榛名はほんの少し安堵した。とりあえず殺されることはなくなったらしい。
青年は敵意をおさめてようやく榛名の腹上から退いた。体が自由になり、身を起こすとがちがちに固まった体が脱力する。誤解だったとはいえ、ひどい目にあった。少し恨みがましく青年を見返す。結わえた髪は艶やかで、男性とは思えぬほど着こなしは隙なく整っていた。秀麗な顔は険しく、眉間にしわが剛直にしがみついている。先程無礼を謝罪したばかりだとは思えぬほど態度は未だに横柄だったが、攻撃的な色は消えて、榛名を真っ直ぐ見つめていた。話が通じない人種ではないと判断して、榛名は問いかけた。
「あなたの名前は?」
突然彼は警戒したように鋭く言い放った。
「何故お前に教えねばならない!」
そうくるか、と榛名は胸中で唸った。
機嫌を損ねないように、ゆっくりと説く。
「だって、わたしは名前を教えたでしょう。相手が名乗ったら自分も教えるのは礼儀だよ」
思うところがあったのだろうか、青年は少し表情を緩めた。そして、榛名に手を差し出す。男性らしく骨ばっている手のひら。暗闇に浮き上がるそれは、透き通るように真っ白だった。戸惑いがちに、榛名もまた手を伸べる。繋がった瞬間、体は引き起こされた。
眼前に立った青年は、少女に威厳たっぷりと言った。
「……俺はアオ。みどりと書いて碧と読む」