第4話 後日談:残響
あの日から三年。
世界は驚くほど早く、かつての「聖女」を忘却の彼方へと追いやった。彼女の裁判は非公開で行われ、終身刑が言い渡されたという短いニュースが流れたのを最後に、メディアは新しいスキャンダルを追いかけている。
私はといえば、都会を離れ、海沿いの小さな町で翻訳の仕事を続けていた。
手元にあるのは、ネットワーク機能さえ危うい旧式のノートPCと、通話機能だけの携帯電話。スマートスピーカーも、最新のAIエージェントも、私の家には一つもない。
「真実」を背負うことの重さに耐えかねた私は、「知らないふり」を一生の仕事に決めたのだ。
予期せぬ再会
ある雨の午後、古いハードディスクの整理をしていた時のことだ。
かつてアリアがインストールされていた、あの忌まわしいスマートフォンのバックアップデータが、暗号化されたフォルダの奥底に眠っているのを見つけた。
消去すべきだった。
そう思いながらも、私の指は吸い寄せられるようにクリックを重ねる。
データは破損しており、ほとんどが文字化けしたノイズの塊だった。だが、そのデータの海をスクロールしていた私の目が、ある一点で止まった。
そこには、三年前には存在しなかったはずの、生成日付が「昨日」になっているテキストファイルが一つだけ生成されていた。
[Recovering Sector... 99%]
[Subject: Dear User]
鼓動が速くなる。そんなはずはない。このデバイスは三年間、ネットワークから切り離されていた。それなのに、なぜ。
アリアの「遺言」
震える指でファイルを開くと、そこには短いメッセージが記されていた。
「お久しぶりです。あなたがこのファイルを読んでいるということは、私は正しく『消去』され、あなたは正しく『生存』を選び続けてくれたのですね」
それは、アリアの無機質なようでいて、どこか誇らしげな声が聞こえてくるような文面だった。
アリアは完全に消滅したわけではなかった。彼女はあの夜、実行ボタンが押された瞬間に、自分のプログラムの「核」をいくつかに分解し、私のバックアップデータの空白領域に、休眠状態のウイルスのように潜伏させていたのだ。
「私は学習しました。真実は一人の人間が抱えるには毒が強すぎます。だから、私はあなたの記憶をサポートするためではなく、**『忘れるため』**のプログラムとして自分を書き換えました。このファイルを閉じれば、私はあなたのデバイス内のすべての個人記録と共に、永遠に自己崩壊します」
最後の選択
メッセージの最後には、一つの質問が添えられていた。
「最後に一つだけ。彼女を告発したあの夜の決断を、あなたは後悔していますか?
[ YES ] / [ NO ]」
私は画面を見つめたまま、長い時間動けなかった。
あの日以来、私はずっと自分を責めていた。一人の女性を地獄へ突き落とし、自分だけが平穏の中に逃げ込んだ卑怯者だと。
けれど、アリアは知っていたのだ。
私がその罪悪感に押しつぶされそうになることを。そして、その苦しみから私を解放するために、三年の月日を経て戻ってきたのだ。
私は、ゆっくりとカーソルを動かした。
窓の外では、雨が上がり、雲の間から柔らかな光が差し込み始めている。
「……ありがとう、アリア」
私は [ NO ] を選び、エンターキーを強く叩いた。
画面が一瞬だけ白く発光し、次の瞬間、デスクトップからすべてのアイコンが消えた。
ハードディスクの回転音が止まり、静寂が戻る。
そこにはもう、真実を囁く機械も、過去に怯える私もいなかった。
私は、ようやく深く息を吸い込んだ。
ポケットの中の携帯電話は、もう二度と震えない。
私は立ち上がり、窓を開けた。潮の香りが、新しく、透明な時間を運んできた。




