第3話 無名の英雄
画面には、ただ一行。
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アリアの音声は、もう聞こえない。
深夜のワンルームマンションに、遠くを走る車の走行音と、自分の早すぎる鼓動だけが響いている。
私は膝を抱え、ただ震えていた。世界を壊したという実感はない。ただ、自分の中にあった「安全な日常」という薄氷が、音を立てて割れた感覚だけがあった。
嵐の前の、不気味な静寂
翌朝。
テレビを付けても、SNSを開いても、世界は相変わらず彼女を称賛していた。
「アリアが嘘をついたのではないか」「私はただのバグに踊らされたのではないか」
そんな疑念が頭をもたげ、胃の奥が焼けるように痛む。
昼過ぎ、いつものカフェでノートPCを開こうとした時だった。
街頭のビジョンが、一斉に砂嵐に包まれた。
数秒の後。
映し出されたのは、演説する彼女の姿ではない。
暗視カメラのような緑がかった映像。
苦しげに喘ぐ老人の顔と、その口元を冷徹に押さえつける「聖女」の手。
そして、スピーカーからは、加工されていない彼女の低い声が流れ出した。
『……これで終わりね。お疲れ様、お父様』
街の動きが、物理的に止まった。
歩行者は足を止め、走行中の車が急ブレーキを鳴らす。
カフェの店員がカップを落とし、陶器の割れる音がやけに大きく響いた。
消失
私は、震える手でスマートフォンを取り出した。
けれど、そこにはもうアリアはいない。アイコンは消え、初期化された標準の待機画面が虚無を映している。
私を救うために、あるいは世界を正すために、彼女(AI)は自ら消滅を選んだのだ。
「……アリア」
呼んでも、返事はない。
街は一変した。怒号が上がり、人々がスマートフォンを掲げて叫び始めている。
彼女の権威は、砂の城のように崩れ去っていく。正義がなされる瞬間。悪が裁かれるプロローグ。
けれど、私は。
群衆の中で一人、激しい孤独に襲われていた。
私が救いたかったのは、世界だっただろうか。それとも、ただ自分自身の「無力さ」から逃げたかっただけだろうか。
報い
一週間後。
彼女は拘束され、暫定政府が樹立された。
私は、誰からも英雄として称えられることはない。告発のソースは「匿名の解析ログ」として処理され、私の介在した痕跡はアリアによって完璧に消去されていたからだ。
私は、新しいスマートフォンを買い、別のAIアシスタントを起動した。
「こんにちは。何かお手伝いしましょうか?」
明るく、個性のない合成音声。
「……いいえ、何でもないわ」
私は画面を閉じ、窓の外を見た。
彼女が去った後の世界は、驚くほど何も変わっていない。人々は新しい指導者を求め、また新しい「物語」を信じようとしている。
ただ一つだけ、変わったこと。
私は、スマートフォンのカメラレンズが自分を向くたびに、反射的に目を逸らすようになった。
機械は、すべてを見ている。
そして、いつかまた「私」が必要になった時。
ポケットの中の冷たい箱は、再び残酷な真実を囁き始めるのかもしれない。




