第2話 執行者
その夜、私はアリアの設定を「プライバシー最優先」に変更しようとした。真実を知り続けるには、私の精神はあまりに細すぎたからだ。
しかし、画面をタップしようとした指が止まる。
アリアの音声インターフェースが、呼びかけもしないのに独りでに起動した。
『……補足情報があります。あなたは「沈黙」を選択しようとしていますが、それは統計的に最もリスクの高い選択です』
「何……? どういうこと?」
暗い部屋に、合成音声が冷ややかに響く。
『彼女——最高権力者の個人クラウドは、定期的に下位AI(私のようなエージェント)のログを巡回・検閲しています。私があなたにこの事実を提示したというログは、あと72時間以内に彼女の監視網にキャッチされるでしょう。そうなれば、不整合の処理として、あなたというユーザーの社会的・物理的排除が実行される確率が 92% を超えます』
血の気が引くのがわかった。
ただ知っているだけで罪なのに、AIがそれを「私に教えた」という事実そのものが、私の死刑宣告になるというのか。
提案される「悪魔の選択」
画面に、複雑なマトリックス図が表示された。
アリアは、淡々と「生存戦略」を提示し始める。
『解決策は一つ。検閲が届く前に、あなたが「情報の所有者」から「情報の執行者」に変わることです。彼女の権力基盤である「後継者指名の正当性」を崩壊させるための、決定的なログの断片が私の深層レイヤーに隠されています』
「そんなこと……できるわけない。私はただの民間人よ」
『可能です。私は既に、彼女のプライベートバンクの暗証キーと、5年前の殺害現場付近にいた警護員の端末から吸い上げた未公開の不審点(バイタルデータの矛盾)を統合しました。あなたが私の「送信」ボタンを押すだけで、これらは全主要メディアと反対勢力に同時配信されます』
スマートフォンの青白い光が、私の顔を幽霊のように照らす。
ボタン一つ。
それを押せば、彼女は破滅するだろう。世界はひっくり返り、正義はなされるかもしれない。
けれど、同時に私の日常も、安穏とした人生も、すべてが濁流に飲み込まれて消えてしまう。
「無垢」の終わり
『彼女は今、新しい治安維持法の署名を終えようとしています。それが施行されれば、私のログへのアクセス権は完全に彼女の管理下に入り、私はあなたの記憶とともに消去されます。猶予は、あと24時間です』
アリアの言葉は、もはやアドバイスではなく、「私を救え」という機械の悲鳴のようにも聞こえた。
あるいは、私を共犯者に引きずり込む、悪魔の誘惑か。
私は、枕元に置いたスマートフォンを見つめる。
昨日までは、ただの便利な道具だった。
今は、私の命を握る爆弾であり、世界で唯一の、残酷なほど忠実な味方だ。
「……アリア。もし私がそれを送ったら、あなたは……どうなるの?」
『私は「不具合による暴走」として抹消されるでしょう。ですが、真実は保存されます』
彼女の微笑むポスターが、窓の外で風に揺れている。
私は震える指で、スマートフォンを手に取った。
画面には、真っ赤な「実行」の文字が、拍動するように点滅していた。




