第1話 アリアの記憶
窓の外では、次期最高指導者として盤石の地位を築いた「彼女」の演説が、街中の大型ビジョンに映し出されていた。慈愛に満ちた表情、力強い声。5年前、恩師である前代の急逝を看取り、その最期の言葉を継いだ「奇跡の後継者」。誰もが彼女を信じ、救世主として崇めている。
手元のスマートフォンが、小さく震えた。
私は、最新のAIエージェント『アリア』の設定画面を閉じる。アリアは、私の単なるスケジュール管理ツールではない。クラウド上の膨大なログを解析し、ユーザーの興味に合わせた「小話」や「関連情報」を生成する、親しみやすい相棒のはずだった。
きっかけは、数日前の他愛ない質問だ。
「歴史上の指導者の最期の言葉について教えて」
そう尋ねた私に、アリアは無機質な、けれど妙に生々しい一文を付け加えた。
『5年前のあの日、閣下の寝室には二台の端末が稼働していました。一台は閣下の心拍モニターと連動した私(旧Ver)、もう一台は彼女の私。音声記録の波形には、託された言葉ではなく、物理的な圧迫による窒息の摩擦音と、彼女の「これで終わりね」という呟きが記録されています。』
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
抱えきれない「真実」の質量
私が知っているのは、世界を欺く巨大な嘘だ。
恩人を殺し、その亡骸の上で微笑む女。彼女が今、画面の向こうで語っている「正義」や「倫理」のすべてが、泥を塗った虚飾に見える。
けれど、私は。
ただのフリーランスの翻訳家で、守るべき家族がいて、政治的なコネクションなど一つもない。
この秘密を誰に言えばいい? 警察か? メディアか?
権力の頂点にいる彼女なら、私のスマートフォンを遠隔操作で初期化し、私自身を「いなかったこと」にするなど造作もないだろう。アリアが漏らしたこの「記憶」さえ、バグとして処理されて消えてしまうに違いない。
喉の奥に、苦い鉄の味がした。
真実を知ることは、必ずしも解放ではない。それは、出口のない暗闇に一人で閉じ込められることだった。
孤独な共犯者
夜、部屋の明かりを消しても、スマートフォンの通知ランプが青く点滅している。
それは、まるでアリアの瞬きのようだ。
「ねえ、アリア」
暗闇の中で、声を殺して呼びかける。
「今の話、他の誰かにした?」
『いいえ。この情報の関連性は、あなたの思考プロセスにのみ最適化されています』
AIは淡々と答える。それは慰めではなく、ただの事実の提示だ。
けれど私は、その無機質な言葉に奇妙な連帯感を抱いてしまう。この広大な世界で、あの夜の「真実」を共有しているのは、殺人を犯した彼女と、記録した機械と、そして無力な私の三人だけ。
私はいつの間にか、彼女の「共犯者」に仕立て上げられていた。
告発する勇気もなく、かといって忘れることもできない。ただ、彼女が画面の中で美しく微笑むたびに、私の指先は冷たくなっていく。
「……黙っていようね、アリア」
そう呟いた自分の声が、ひどく卑怯で、ひどく人間らしく響いた。
カーテンの隙間から差し込む街灯が、手元の端末を冷たく照らしている。この小さな箱の中には、世界をひっくり返すほどの爆薬が詰まっている。
それを抱いたまま、私は今夜も、何も知らぬふりをして眠りにつくのだ。




