第八章 運も愛も大胆に振る舞う者の味方をする6
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けだるいけど、すごく幸せ――。
あの後、長い時間を一緒に過ごし、たくさん触れ合ってからシャワーを浴びた。着替えようとした俺を、穂高さんは名残惜しそうにもう一度ベッドへと引き寄せた。
「……あの時間が」
「もう少しだけ。ほんの少しでいいから」
肩口に顔を埋め、甘えるように抱きしめてくる。その仕草がやけに可愛くて、離れがたい気持ちは俺も同じだった。
抵抗すれば簡単に外れそうな、けれど絶妙に力を残した抱き方。俺も同じ強さで抱き返す。これ以上力を込めたら、本当に離れられなくなりそうで、少しだけ怖かった。
――ずっと、こうしていたい。でも……。
穂高さんの後頭部をそっと撫で、意を決して身体を離す。
「行かなきゃ。そろそろ時間だから」
そう言いながらも、掴んだ手を離せず、横になったまま固まってしまう。自分から距離を取ったくせに、情けない。
「千秋……」
穂高さんは、迷う俺の手を両手で包み、静かに外した。切なげに揺れる瞳で見つめてから、ゆっくりと体を起こしてくれる。床に落ちていたシャツを拾い、そっと肩に掛けられた。
何も言わず袖を通し、ボタンを留める。背中に触れる手が微かに震えているのが分かってしまって、胸が締めつけられた。
愛しい人と過ごす時間は、どうしてこんなにも短く感じるんだろう。何度経験しても、慣れることはない。それでも――。
「夏休み、楽しみに待っていてね。穂高さん」
次に会えると分かっているから、俺はここから出発できる。待っていてくれる人がいるという確信が、背中を押してくれる。
ジーパンを履いて振り返り、背中に触れていた手を両手でぎゅっと握る。伝わる温もりを忘れないように、少し強く。
「千秋、待っているよ。首を長くして」
「フェリー乗り場までは来なくていい。ここで、一旦バイバイしよう」
「……でも」
その寂しそうな表情を、他の誰にも見せたくなかった。俺だけが知っていればいい、大切な顔。
少しの間でも繋がりを感じられるように、肩を引き寄せ、そっと同じ場所に歯を立てる。
「っ……千秋?」
「お揃い。ほんの少しの間だけど」
微笑んだ穂高さんを見つめ、カバンを肩に掛ける。
「千秋……」
「漁協の皆さんに、よろしく伝えてください。すごくお世話になりました」
「ああ、わかった」
(――行かなきゃ。時間がない)
視界の端で、穂高さんの手が動くのが見えた。触れられたら、きっと振りほどけない。自分から触れても、きっと同じだ。
それをこらえるように拳を握りしめた、そのとき――。
「いってらっしゃい、千秋。ただいまって帰ってくるのを、ここで待ってる」
背中を押され、玄関へと導かれる。手のひらの温かさがじんわりと伝わってきて、鼻の奥がつんとした。
――でも、泣かないと決めた。
強くなって、穂高さんを支えると決めたから。ここでは泣かない。
靴を履いて振り返り、精一杯笑うと、穂高さんも同じように微笑んでくれた。
忘れない。この笑顔を――。
「……いってきます、穂高さん。修行、頑張ってくださいね!」
返事を聞く前に扉を開け、外へ飛び出す。胸の奥で燻る残り火が、引き留めようとする言葉になりかけて、慌てて飲み込んだ。
昨日より冷たいはずの風が、今日はやけに温かく感じる。
後ろは振り返らない。涙を堪えて笑ってくれた、あの優しさに応えるために。背中を押してくれた、その強さに甘えすぎないために。
前を向いて歩いていく。ここから始まる、俺たちのセカンドステージのために――。
【了】




