第一章 火種5
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井上さんはいつ来るのか。どんな顔で接客すればいいのか。そんな不安を抱えながら仕事をしていた。
店のドアが開くと、それを知らせる音が鳴るシステムになっている。その音を聞くたびに、緊張感が一気に高まって、胸をドキドキさせていた。
「い、いらっしゃいませ!」
挨拶する声もどこか硬くなってしまう。
(――バカ、意識しすぎだ……)
頭を振って仕事に集中しても、ドアが開くたびに身体が反応してしまった。こうして勝手に翻弄された結果、バイトが終わる頃には疲労困憊で思わず苦笑いする。
「……現れなかったということは、諦めてくれたのか?」
この日、井上さんは現れなかった。自分としては、助かったと思いたかった。しかも本人が来ていないのに、勝手に翻弄された俺ってバカみたいだ。
そんなことを考えながら、ゆっくりと自宅アパートに辿り着く。この日は悪夢を見ずに、いつも通り寝ることができた。
しかし次の日も、井上さんが現れなかったのである。これは本当に嬉しい展開だった。昨日よりビクビクせずに仕事ができたのは、やっぱり睡眠のおかげだろう。
来たら来たで、いつも通りすればいいやと腹をくくったら、すんなりと仕事をすることができた。もう井上さんの車に乗ることもないし、店の中ではお客様だけど一歩外に出て俺に手を出せば、ただの変質者だ。
(――襲われそうになったら声をあげてやればいい! 助けを求めれば何とかなるだろう)
そんな気合を入れて仕事をしていたのに、結局井上さんは現れなかった。何だか、肩透かしを食らってしまった気分。
バイトの時間もあと五分足らず。ほっととしながらレジの傍で、書き物をしていた時だった。
「こんばんは、千秋……」
深い闇から聞こえるような声と言えばいいのか。とても低い声が、俺の耳に聞こえてしまった。
(――しまった、油断した。ドアの開閉の音を聞き逃したのかもしれない。来ないだろうと、たかをくくったのがまずかった)
恐るおそる顔を上げて、声の主を確認する。
「いらっしゃいませ……」
「忙しいところ悪いね。いつもの」
「はいっ! ただいま、ご用意いたしますっ」
いつも以上に俊敏に動き、メンソール入りの煙草を手に取ってテキパキとレジに金額を打ち込み、ニッコリと笑った。たぶん、かなぁり引きつった笑顔だと思う。それなのに……。
「今日もいい笑顔してる。逢えてよかった」
井上さんはこんな作り笑いを、心底嬉しそうに眺めてくれた。
「あ、ありがとう、ございます……」
お金を手のひらで受け取る。いつも通り冷たい指先――あの時の燃えるような熱を感じられなかった。
「……昨日は来られなくてゴメン」
レジに打ち込んでいる最中、不意に話しかけられる。視線を井上さんに移すと、寂しげな表情を浮かべていた。
「昇進したせいで仕事が変わって、それの引継ぎが忙しくてね。煙草はここでしか買わないと決めていたから、結構つらかったよ。それよりも――」
「はい?」
「君に逢えなかった方が、何倍もつらかった。逢いたかったよ千秋」
嬉しさを噛みしめるような艶っぽい声で言われてしまい、どうしていいかわからなくて、視線を逸らしながら、あたふたするしかない。
「そんなこと言われても、こ、困ります。はい、これお釣りです」
お釣りを渡す手が明らかに震えていた。その手を井上さんはぎゅっと握りしめる。捕まえたと言わんばかりの握力で。
「千秋……」
痛いくらいに握りしめられた俺の手。そこから伝わってくる熱――さっきまで冷たかったのに、すごく熱い。
誰もいない店内。声をあげても誰も助けに来てはくれない。
「や……」
やめて下さいと口を開きかけたら、
「外で待ってる……」
俺の言葉を止めるようにすかさず言って、さっさと身を翻した井上さん。入れ替わるように入ってきた、次のバイトが俺を不思議そうに見る。
「お疲れ様です、どうしたんですか?」
レジ前に腕を伸ばしたまま固まってる俺を見て、首を傾げられてしまった。
「やっ、何でもないよ。お疲れ様でした」
しっかり頭を下げてから、事務所に向かって逃げるように走る。掴まれた右手が熱いまま――それを何とかしたくて、ぎゅっと握りしめた。




