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残り火  作者: 相沢蒼依
第六章
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第八章 運も愛も大胆に振る舞う者の味方をする4

***


 狭い浴槽の中で穂高さんは先に腰を下ろし、俺は向かい合う形で身を預けていた。距離が近すぎて、湯気の向こうにある表情がやけに鮮明に見える。


「……いい眺めだ」


 からかうように言われて、思わず視線を逸らした。


(すごく恥ずかしい。でも、今ここで話さなきゃいけないことがある――)


「あのね、穂高さん」


 区切りをつけないと、前には進めない。


「……済まなかった、千秋」

「え?」

「昔のことだ。ここに……こんな痕が残るほど、力の加減がわからなかった」


 穂高さんは俺の肩口に視線を落とし、指先でそっとなぞる。


「独り占めしたい気持ちを、あのときはどうしても抑えられなかった。君の体に残るものを見るたびに、自分の未熟さを思い知らされる」

「……」

「正直に言うとあの頃の俺は、君が離れていくのが怖くて仕方なかった。繋ぎ止める理由を、無意識に探していたんだ」


 その声は、いつもの強引さを帯びていなかった。俺は重ねられたその手に、自分の手をしっかりと添えた。


「穂高さん、縛り付けなくても俺は……」

「わかってる」


 遮るように、穂高さんが小さく首を振る。


「今も、ふと考えてしまう。ここから千秋が帰れなくする方法を。でも――」


 一度言葉を切り、深く息を吐いた。


「それを口にしたり形にしたら、俺は君に嫌われる。そうわかってるから、なんとか止めてる」


 伏せられた睫毛が、微かに震える。


「千秋の話を遮りたくなるのも、聞いてしまったら……泣いてしまいそうだからだ」


 情けないと笑うその表情に、俺は思わず苦笑した。


「穂高さん、好きでいていいだろうか、なんて……冗談じゃないですよ」

「千秋……」

「迎えに来るとか責任を取るとか、勝手に決めないでください」


 真顔でそう言うと、浴室が一瞬静まり返る。


「何年待たせる気なんですか。俺、そんなに気長じゃないんで」


 目の前の男は、本当に泣き出しそうな顔をした。


「……すまない」

「謝らないでください」


 沈みかけたその手を、両手で包み込む。


「好き、なんて言葉じゃ足りない。俺は……愛してほしい」

「もちろん。千秋だから」

「だったら、愛して待っていてください。今度は俺が穂高さんを追いかけます」


 その言葉に、穂高さんの目が見開かれる。


「君が?」

「そうです」


 胸の前に引き寄せた手に、力を込める。


「俺ね、別れてから気づいたんです。与えられてばかりで、穂高さんを信じることを怠っていたって」


 俯きながら続ける。


「疑ったのも不安になったのも……俺が、ちゃんと愛する覚悟を持ってなかった」

「……」

「だから今度は、穂高さんに見合う男になりたい。並んで立てるくらい、強くなりたいんです」


 頬にすりり、と穂高さんの額が寄せられる。


「建物で再会したとき……別人みたいだった」

「魚、ぶちまけるくらい?」

「それも含めてだ」


 くすっと笑う声が、少し震えていた。


「Audentem Forsque Venusque iuvat.意味は、運も愛も大胆に振る舞う者の味方をする」

「それ、イタリア語ですよね?」

「父さんに教わった」


 真剣な視線が、まっすぐ俺を射抜く。


「千秋、君が自分で歩こうとしてるから、運がこっちに転がってきたんじゃないかと思うんだ」

「ふふっ、まだまだですよ」

「それでいい」


 額に触れるだけの、静かな口づけ。


「千秋、俺はここで待ってる。一生懸命に修行しながら」

「俺、絶対に来ます!」

「俺を捕まえに?」

「覚悟してくださいね。絶対に逃がしません」


 穂高さんは、困ったように嬉しそうに笑った。


 長風呂を経て、狭い浴槽から俺が先に抜け出し、穂高さんに手を貸す。


「大丈夫ですか?」

「少しのぼせた」

「無理しないで」

「……君が目の前にいるのに、我慢してる自分を褒めたい」

「褒めません」


 そう言うと、また笑った。昔と変わらない部分もちゃんと変わった部分も、全部含めて――。


 この人を俺は追いかける。今度は対等な立場で。

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