第八章 運も愛も大胆に振る舞う者の味方をする4
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狭い浴槽の中で穂高さんは先に腰を下ろし、俺は向かい合う形で身を預けていた。距離が近すぎて、湯気の向こうにある表情がやけに鮮明に見える。
「……いい眺めだ」
からかうように言われて、思わず視線を逸らした。
(すごく恥ずかしい。でも、今ここで話さなきゃいけないことがある――)
「あのね、穂高さん」
区切りをつけないと、前には進めない。
「……済まなかった、千秋」
「え?」
「昔のことだ。ここに……こんな痕が残るほど、力の加減がわからなかった」
穂高さんは俺の肩口に視線を落とし、指先でそっとなぞる。
「独り占めしたい気持ちを、あのときはどうしても抑えられなかった。君の体に残るものを見るたびに、自分の未熟さを思い知らされる」
「……」
「正直に言うとあの頃の俺は、君が離れていくのが怖くて仕方なかった。繋ぎ止める理由を、無意識に探していたんだ」
その声は、いつもの強引さを帯びていなかった。俺は重ねられたその手に、自分の手をしっかりと添えた。
「穂高さん、縛り付けなくても俺は……」
「わかってる」
遮るように、穂高さんが小さく首を振る。
「今も、ふと考えてしまう。ここから千秋が帰れなくする方法を。でも――」
一度言葉を切り、深く息を吐いた。
「それを口にしたり形にしたら、俺は君に嫌われる。そうわかってるから、なんとか止めてる」
伏せられた睫毛が、微かに震える。
「千秋の話を遮りたくなるのも、聞いてしまったら……泣いてしまいそうだからだ」
情けないと笑うその表情に、俺は思わず苦笑した。
「穂高さん、好きでいていいだろうか、なんて……冗談じゃないですよ」
「千秋……」
「迎えに来るとか責任を取るとか、勝手に決めないでください」
真顔でそう言うと、浴室が一瞬静まり返る。
「何年待たせる気なんですか。俺、そんなに気長じゃないんで」
目の前の男は、本当に泣き出しそうな顔をした。
「……すまない」
「謝らないでください」
沈みかけたその手を、両手で包み込む。
「好き、なんて言葉じゃ足りない。俺は……愛してほしい」
「もちろん。千秋だから」
「だったら、愛して待っていてください。今度は俺が穂高さんを追いかけます」
その言葉に、穂高さんの目が見開かれる。
「君が?」
「そうです」
胸の前に引き寄せた手に、力を込める。
「俺ね、別れてから気づいたんです。与えられてばかりで、穂高さんを信じることを怠っていたって」
俯きながら続ける。
「疑ったのも不安になったのも……俺が、ちゃんと愛する覚悟を持ってなかった」
「……」
「だから今度は、穂高さんに見合う男になりたい。並んで立てるくらい、強くなりたいんです」
頬にすりり、と穂高さんの額が寄せられる。
「建物で再会したとき……別人みたいだった」
「魚、ぶちまけるくらい?」
「それも含めてだ」
くすっと笑う声が、少し震えていた。
「Audentem Forsque Venusque iuvat.意味は、運も愛も大胆に振る舞う者の味方をする」
「それ、イタリア語ですよね?」
「父さんに教わった」
真剣な視線が、まっすぐ俺を射抜く。
「千秋、君が自分で歩こうとしてるから、運がこっちに転がってきたんじゃないかと思うんだ」
「ふふっ、まだまだですよ」
「それでいい」
額に触れるだけの、静かな口づけ。
「千秋、俺はここで待ってる。一生懸命に修行しながら」
「俺、絶対に来ます!」
「俺を捕まえに?」
「覚悟してくださいね。絶対に逃がしません」
穂高さんは、困ったように嬉しそうに笑った。
長風呂を経て、狭い浴槽から俺が先に抜け出し、穂高さんに手を貸す。
「大丈夫ですか?」
「少しのぼせた」
「無理しないで」
「……君が目の前にいるのに、我慢してる自分を褒めたい」
「褒めません」
そう言うと、また笑った。昔と変わらない部分もちゃんと変わった部分も、全部含めて――。
この人を俺は追いかける。今度は対等な立場で。




