第八章 運も愛も大胆に振る舞う者の味方をする2
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本当はこの後、魚の選別などの仕事があった穂高さんなんだけど――。
『せっかく内地から、おとーとが来てるなら孝行しとけ!』
という船長さんのありがたい命令のおかげで、今日の仕事は急きょオフになり、なぜかそのまま一緒に自宅へ向かうことになってしまった。
「……あの、穂高さん。突然ここに来ちゃってすみません。しかも誤解が誤解を生んで、弟になってしまって」
別れを告げた相手が、本当に幸せに暮らしているのか。それを勝手に確かめに来ただけだなんて、どう説明していいのかわからない。しかも、困ったことはそれだけじゃなかった。
『千秋……現生……』
そう呟いたきり、穂高さんはずっと何も話さない。
感情を読み取れないまま歩く時間は、想像以上に居たたまれなかった。喜怒哀楽のどれも浮かべず、真顔を保った横顔を、下からそっと窺うしかできなかった。
(……呆れてる、よね)
やっていることは、正直ストーカーと同じだ。別れた相手が突然島まで押しかけてきたら、誰だって引く。
「千秋……」
「や、本当にごめんなさい! 遠くから仕事してる姿を見て、それで帰ろうと思ってたんです。でもオバさんたちに声かけられて、すごい大騒ぎに――つっ!?」
言い終わる前に、たくましい二の腕が攫うように腰に回された。
次の瞬間、大きな体にぎゅうっと抱き込まれる。伝わってくる体温と一緒に、懐かしい香りがふわりと鼻をくすぐった。
――一瞬で、時間が戻ったみたいだった。付き合っていたあの頃と同じぬくもり。同じ腕。同じ鼓動。
(……いいのかな)
この腕に、また抱き返しても。俺に、そんな権利があるんだろうか。
揺れる想いと押さえきれない感情が、穂高さんの体温から一気に流れ込んできて――。
「穂高さん……」
気づけば、俺も腕を回していた。
「千秋……千秋ぃ……」
震える手で、その存在を確かめるように背中に触れる。確かに、ここにいる。
「穂高さん……」
胸が締めつけられるように痛む。だけどその痛みは、どうしようもなく心地よかった。
「千秋、ずっと逢いたかった」
低くて優しい声。それだけで、体の奥に熱が灯る。
別れたあの日、あなたの涙で消えてしまったはずの炎は、本当の理由を知った瞬間からずっと心の奥で燻っていた。
すべてを捨てて何も言わずに島へ渡り、ひとりで漁師の修行を始めた穂高さん。そんなあなたに、俺はもう必要ないんじゃないかって、何度も思った。
それでも――気持ちだけは変わらなかった。
「穂高さん……俺も、ずっと逢いたかった」
目の前には、赤い車が停まった一軒家。ここが穂高さんの家だとわかっているのに、どうしても腕は解けない。
「千秋、背、伸びたね」
「穂高さんも……体、大きくなった。力仕事してるから?」
言葉にしなくても、全部伝わってくる。
「こんなに近いと……止まらなくなるかも」
「……何が?」
「――キス」
そう囁いて、そっと唇が重なる。次の瞬間、荒れた唇が強く押しつけられ、割って入ってきた舌が迷いなく絡んできた。
「んっ……」
潮風が、ふわりと二人を包む。熱くなりすぎた体を、わざと冷ましてくれるみたいに。
――とはいえ。
「あの……さすがに、ここはダメだと思います」
(実際、抱き合うのが、ギリギリだ……)
そう思って顔を離したのに、追いかけるように唇が迫ってくる。
「穂高さん、ダメって言ってるのに!」
「言っただろ。止まらなくなるって」
「兄弟設定で、これは絶対おかしいですから!」
(――どうしよう。久しぶりすぎて、穂高さんのワガママを止める方法を忘れた……)
「兄にお帰りなさいのキスを、もう一回くらい……」
「もう一回してるでしょ!」
「全然足りない」
真剣な顔で言うから、なおさら困る。
「あの……イチャイチャより話がしたいです。俺、今日の夕方のフェリーで帰るし」
その瞬間、穂高さんの表情が一気に固まった。次いで腕を掴まれ、そのまま自宅へ引きずられる。
「ちょ、穂高さん!?」
無言のまま発動する、彼ならではの強引さ。ついていくのが正直かなり大変だった。
「……穂高さん、初歩的なことに戻ってもいいですか」
「何?」
「俺たちって……別れたんじゃなかったっけ?」
玄関の鍵を開けようとしていた手が止まる。そして――カシャン、と鍵が床に落ちた。
「…………」
数秒の沈黙の後。
「……すっかり忘れてた」
青ざめたその顔が、やけに印象に残ったのだった。




