第六章 余炎―残された想い―
ふわふわとした足取りで、自宅に帰り着いた。
いつものように真っ暗な部屋に入り、壁際のスイッチに手を伸ばす。ぱちりと灯りがついても、誰もいない。それでも、反射的に「ただいま」と声が零れた。
ハンガーに掛けられたままの穂高さんのジャケット。吸殻の残った灰皿。片づければいいのに、そのままにしているものが、まだ部屋のあちこちに残っている。
まるで、そこに彼がいるみたいで。
穂高さんと過ごした時間は、夢の中にいたようだった。最初から振り回されてばかりだったのに、不思議と苦しくなかった。楽しいこともつらいことも、全部が鮮明だ。
向けられる想いに戸惑っていたはずなのに、いつの間にか、それが日常になっていた。気づけば俺は、彼の存在を求めることが当たり前になっていた。
視界に入ったジャケットを手に取り、胸に抱き寄せる。
「……こんなにも、深く入り込んでいたんだな」
微かに残る香りに、胸の奥がきゅっと締めつけられる。抱きしめられた感触を思い出して、今でも息が詰まりそうになる。
別れを告げられた夜も、同じように苦しかった。
突然現れた穂高さん。コンビニの灯りが逆光になって、最初は表情がよく見えなかった。でも彼が微笑むと、空気が柔らかく変わる。その変化に気づいて、俺もつられて笑ってしまった。
会いに来てくれたことが、ただ素直に嬉しかった。それなのに口にした言葉は、予想もしないものだった。
『さよならを言いに来た。兄さんから聞いたんだろ。俺のこと』
『ホストの仕事も、君だけじゃ満足できなくなったからだ。最初から、深い意味はなかった』
胸の奥が、音を立てて崩れた。
そんな言葉を、あんなに穏やかな顔で言えるなんて。仕事だと割り切れる人なら、簡単にできるのかもしれない。
痛みをこらえきれず、思わず感情が溢れた。手を振り上げてしまったことよりも、その瞬間に自分の中で何かが壊れた感覚の方が、ずっと強く残っている。
『……悪いな。全部、嘘だ』
『君を騙すためだった。愛してなんていない』
俺に向かってその言葉を告げたときの穂高さんの表情がどんなものだったのか、きっと彼は知らない。
逆光の中で一瞬だけ見えた顔は、ひどく歪んでいて目に涙を溜めていた。
嘘をつき続けることが、彼なりの優しさだったのだと今ならわかる。だから俺は、その嘘を受け取ることにした。
雨から庇うようにジャケットを掛け、震える手で俺の涙を拭ってくれたこと。あの優しさが、最後に残された本心だったのだと思っている。
――これで、本当に終わりなら。
そう思って、精一杯の言葉を彼に伝えた。
『出会ってくれて、ありがとう。どうか、幸せになってください』
そう願ったはずなのに――今日知った現実は、あまりにも重かった。
真実を告げに来たのは、穂高さんの兄――藤田さんだった。
平日の深夜。俺が仕事を終えたあと、彼は静かに話し始めた。
穂高さんが背負ってきたもの。家族の事情。仕事の責任。裏切られた過去。
それらを聞けば聞くほど、胸が締めつけられた。
知らなかった。知らないまま、俺は穂高さんを責めていた。
「……全部、知ってしまったら後悔するかもしれない。それでも、知りたいか?」
藤田さんの問いに、迷いはなかった。
「知りたいです。穂高さんのこと」
好きだからこそ、逃げたくなかった。
穂高さんが、今イタリアにいること。母親を見送り、自分の人生と向き合おうとしていること。
戻ってきたらすべてを手放して、新しい場所へ行くつもりだということ。
遠い話のようで、急に現実味を帯びた。
「君に、アイツを追いかけてやってほしいんだ」
藤田さんの言葉に、胸が大きく揺れた。
簡単に頷ける話じゃない。けれど何もしないまま終わる方が、もっと後悔する気がした。
「……俺、自分の足で行きます」
誰かに背中を押されるのではなく。誰かの助けを借りるのでもなく。自分の想いとして――。
「好きだから、です。だから、自分で向き合いたい」
そう言うと藤田さんは少しだけ目を細めて、強く肩を叩いた。
「それでこそ、穂高が選んだ相手だ」
夜景の向こうに、まだ見ぬ未来がある気がした。
遠く、イタリアの空の下にいるあなたへ。この想いが、いつか届きますように。
――俺はもう一度、あなたに会いに行く。




