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残り火  作者: 相沢蒼依
第八章
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第八章 運も愛も大胆に振る舞う者の味方をする

***

 ここまで来るのに、思ったよりも時間がかかってしまった。穂高さんがちゃんと幸せかどうか、自分の目で確かめたかった俺は、藤田さんからの援助を断った。


『な、んでだよ? 今だって穂高のことが好きなんだろ。どうして――』

「好きだからですよ。だからこそ俺は、人の助けを借りちゃいけないって思うんです」


 そうはっきり告げたあの日から、すでに五ヶ月が経っていた。


 一番安く行く方法を藤田さんが教えてくれたおかげで、目標額が設定できたのは幸運だった。資金援助はできない代わりにと、不器用な俺でもこなせそうなバイト先を紹介してくれたり、いろいろと手を貸してくれた。


 それだけじゃない。しばらく逢えないことで不安に駆られる俺の背中を、藤田さんは何度も押してくれた。


『そんな顔してると穂高に嫌われるよ。案外、逢えない時間がお互いの愛を深めているかもしれないしね』

「藤田さん……ありがとうございます」

『お礼はまだ早いって。ちゃんと魚が捕れるようになったかを、千秋の口から直接聞いてみてほしいんだ。俺はビジネスで動く男だからね。俺からの頼み事、きちんと確認してくれよ』


 穂高さんに逢う理由まで用意して地元から見送ってくれた藤田さんに、深く頭を下げた。泣き出しそうになるのを、必死に堪えながら。


 涙を飲み込んで鈍行列車に乗り込み、一日以上かけて北上を続け、その後フェリーに乗って穂高さんが住んでいる島へ渡った。


「空気が美味しい……」


 本州より湿度の低い初夏の海の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、観光客に混じってフェリーを降りる。どこへ行こうか思案しつつ、海沿いの道路をきょろきょろしていると――。


「っ……」


 その人を見つけた瞬間、心臓をぎゅっと鷲掴みにされた。しなやかな栗色の髪を風になびかせた穂高さんが、偶然にも向こうから走ってきたのだ。


「ちょ、ヤバ……心の準備が――」


 反射的に、近くに停めてあった軽自動車の影へ身を隠した。


 Tシャツの上に胴長という漁師姿。頭にタオルを巻いたその姿が信じられないほど格好よくて、それだけで涙が出そうになる。


「すみません、船長。寝過ごしちゃいました」


 俺のすぐ横を通り過ぎ、港に停泊している漁船へ向かって深く頭を下げる。


「なぁにやってんだ、おめぇは! 成長期のガキじゃあるまいし! はよせんか、置いてくぞ!」

「はいっ! すぐ行きます!」


(ああ……慌ててる穂高さんを、もっと近くで見ていたい)


 そんなことを考えながら、こんな場所に隠れている自分はどう見ても怪しい。不安に駆られて周囲を見回すと、フェリーから降りたのは俺を含めて三人だけ。時刻は夕方五時過ぎで、人影はほとんどない。漁に出る人たちが、建物と船を行き来しているだけだった。


「……よし」


 もっと近くで見たい。その一心で、人の出入りが多い建物の脇に停まっている軽トラの影まで、思い切って走った。


 出航に向けて、懸命に動く穂高さん。夕方とはいえ少し肌寒いのに、半袖のTシャツはうっすらと汗ばんでいる。


「穂高さん……頑張ってください」


 しゃがみ込み、拳を握ってひっそり応援する。逢える日をどれだけ夢見てきたか、その分だけ嬉しさが胸に溢れた。


 やがて、穂高さんを乗せた船がエンジン音を響かせ、港を離れていく。働く姿を見るのは初めてだったけど、サラリーマン時代の疲れ切った表情はどこにもない。その姿に、思わず安堵の息が漏れた。


 見えないとわかっていながら、小さく手を振る。


「……感動しちゃうな、本当に」

「何やってんの? こげなとこで」

「ひっ!?」


 背後から声をかけられ、飛び上がる。振り返ると四、五人のオバちゃんたちが固まって、物珍しそうにこちらを見ていた。


「見かけんコだぎゃ、こげんトコに隠れよって、すっごくアヤシかね」

「い、いえ怪しくないです! 俺は穂高さんの――」


(……元恋人です、なんて言えるはずもない!)


「ほだきゃ? ああ、溝田さんとこでやとっとる、あの若いのの弟か?」

「そ、そうです! 井上千秋って言います! 兄がいつもお世話になってます!」


(ごめんなさい穂高さん。勝手に弟になりました。でも……なんだかしっくりきます)


 立ち上がって深く頭を下げる。


「兄がちゃんと働いているか、見てただけなんです。結構そそっかしい人なので」

「まぁ最初は、大変そうだったわな。何度か海に落ちて、網で引き上げられたらしいよ」

「やっぱり……」

「でも飲み込みは早いって、溝田さん言っとったがね」


 オバちゃんたちは顔を見合わせ、大笑いした。


「これからどうするんじゃ? 船は明日の朝まで帰ってこんよ」

「海を見ながら待ちます。お騒がせしてすみません」


 頭を下げると風邪引かないようにと声をかけて、おばちゃんたちは散っていった。


「……ビックリした」


 怪しまれるどころか、温かさをもらってしまった。


 さっき見た穂高さんの表情。叱られながらも、朗らかに笑って働いていた。都会のギスギスした空気が、ここにはないのかもしれない。


 軽トラの影から出て、海が一番よく見える場所に腰を下ろす。


「今頃、海の上かな」


 夕陽が海に沈み、赤く染まった水面がゆっくりと闇に溶けていくのを、ただ眺めていた。


「こんなとこにおった。寒くねぇか?」


 背中に、毛布がばさりとかけられる。


「……あ」

「飯はどうするんじゃ。ここはスーパーも閉まるの早ぇし、コンビニもねぇぞ」


 昼間会った、年配のオバさんだった。


「いえ、お腹は――」

「若ぇのが腹減らんわけねぇべ。これ、食っとけ」


 アルミホイルに包まれた大きなものを二つ、強引に渡される。


「ありがとうございます。毛布も……すごくあったかいです」

「毛布はそこの建物に返してけれ。漁協のフミちゃんのだ」


 頭をわしゃわしゃ撫でられ、笑いながら去っていく背中に深く頭を下げた。アルミホイルを開くと、大きなおにぎりだった。


 それを食べて毛布に包まり、気づけば眠りに落ちていた。翌朝、船のエンジン音で目を覚ます。


「……帰ってきた?」


 海の向こうから、船が戻ってくるのが見えた。毛布を畳んで建物に入ると、おばちゃんにすぐに捕まった。


「兄貴の船、近くで見なされ」

「い、いえ、それは――」


 そう言う間もなく、背中を押される。そして――。


「井上さ、これ見ろ!」


 目の前に現れた穂高さん。次の瞬間、発泡スチロールの中身が床に散乱した。


「井上てめぇ、何やっとんのじゃ!」

「す、すみません! 俺のせいです!」


 必死に魚を拾い集めながら、穂高さんを見る。呆然と立ち尽くす、その姿。


「千秋……?」

「まったく! そそっかしいんだから」


 魚を箱に戻し、穂高さんの手に押し戻す。


「ちゃんと仕事しなきゃ。皆さん、お騒がせしました!」


 頭を下げ、ようやく場が収まった。


 ……こうして俺は逃げるつもりだった再会を、真正面から迎えることになったのだった。

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