第七章 想い出2
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案内されたのは、一般客が泊まるごく普通のシングルルームだった。
部屋に入るなり、落ち着かない様子で視線を彷徨わせていると父は俺の様子を笑い、椅子を勧めてきた。
「私が瑞穂と、はじめて一夜を過ごしたのがこの部屋なんですよ」
あまりにも唐突な言葉に、どう返せばいいのかわからなくなる。母から父の話をほとんど聞かされずに育ってきたから、なおさらだ。
母は負けん気が強く、芯の通った人だった。そんな母を、父はどうやって射止めたのだろう。
「穂高、不思議そうな顔をしていますね。どうしましたか?」
「すみません。母から、父とどう出会ったのか、まったく聞いていなかったものですから」
父は懐かしむように目を細めた。
「出会いは衝撃的でしたよ。出会い頭に、いきなり平手打ちされました。小さな体から出たとは思えないほど、見事な一撃でした」
――ああ、やっぱり。あの母ならやりかねない。
「昔からなんですね、そういうところ」
思わず漏れた言葉に、父は肩を揺らして笑った。
やがて父は持参していた袋から赤ワインを取り出し、テーブルに置く。
「穂高。君がここに来た理由を聞いてから、これを開けましょう」
「父さん……」
「君の瞳が、私と別れるときの瑞穂と同じ色をしていました。きっと、そういう話だろうと……ですが――」
ワイングラスを並べ、静かに息を吐く。
「君の口から聞かなければ、私は前に進めません。未だ、心は囚われたままですから」
胸元に手を当てて俯く父の姿に、覚悟を決める。
「……母は、先日亡くなりました。苦しまず、眠るように」
一瞬、空気が止まった。
「……長い闘病生活が終わったのですね。苦しまなくて良かっ……」
言葉の途中で、青い瞳から涙が溢れ落ちた。
「……瑞穂……」
「母は言っていました。ジュリオ、あなたに出会えて、たくさんのものをもらったって。返せなくて、ごめんなさいと」
ハンカチを差し出すと、父は受け取りながら首を振った。
「謝るのは私の方です。彼女を傷つけ、苦労ばかりさせた」
「それは俺も同じです。母に、望まない結婚をさせたのは、俺のせいです」
「……望まない、結婚?」
父は驚いたように問い返した。
藤田という男の口車と将来の保証。母親の愛情を利用した取引。
語るたびに、胸の奥が締めつけられる。
「だから母が病気になったとき、俺にできることを全部しようと決めました。母の苦しみは、俺の想像を超えていたはずですから」
拳を強く握りしめる。
それは母のためであり、千秋と共に生きたいと願った結果でもあった。
「瑞穂の息子らしいですね。優しくて、責任感が強い」
「俺は母の息子であり、あなたの息子でもあります。結婚しなかったのは、母を想い続けていたからでしょう?」
「ええ……それもありますし、それ以上の人に巡り会えなかった」
父は穏やかに笑った。
「父さんの中の想いが、俺にも引き継がれている気がします。きっと俺も、この先……」
「穂高……誰かと別れたのですね」
静かな問いに、黙って頷いた。
「Amor magister est optimus.……愛は、最良の教師」
父は頷き、ワインの栓を抜く。
「私も愛から多くを学びました。すべてを投げ打つ覚悟はあったのに……それができなかった」
グラスに注がれる赤が、妙に眩しい。
「今年の初物です。穂高、乾杯しましょう」
「乾杯のイタリア語は?」
「Salute!」
「サルーテ」
グラスが軽く鳴った。
ワインの香りが広がる中、父はふと思い出したように言った。
「君が高校生の頃、日本へ行きましたね。瑞穂には内緒で」
「はい。驚きました」
「実は、君が生まれてすぐに一度……。ですが、妨害されて」
それは三年越しの再会で、桜の季節だったそう。俺に微笑みかけた母の笑みを見かけたのに、目が合った瞬間、それが消えてしまった話を聞く。
「小さな穂高が私の髪を掴んで言ったんです。『おじちゃん、僕とおそろいだね』と」
「……覚えてないですけど、よく言われてました」
周りにはいない栗色の髪。そして、千秋の言葉が脳裏をよぎる。
『穂高さんの髪、金色みたいで綺麗です』
その記憶が、今も胸を温める。
「君には、苦労をさせてしまった」
「今は、父さんの言葉に救われています」
少し間を置いて、問いを投げる。
「どうして高校生のとき、父だと名乗っただけで帰ったんですか?」
「その当時、跡取り問題がありました。君を迎え入れるつもりで」
「……そうだったんですね」
結局、断った理由も今ならわかる。
「これから、どうするのですか?」
「日本で、漁師の修行をします」
「イタリアでも――」
「父さん」
青い瞳に視線をきちんと交わす。
「日本に、いたいんです」
父は静かに理解した。
「Audentem Forsque Venusque iuvat.運も愛も、大胆な者の味方をする。君には、私にない強さがある。どうか抗いなさい」
告げられた言葉に、胸が大きく揺れた。
「……胸に刻みます。でも一人前になるまでは、歯を食いしばって進みます」
「それでこそ、私の息子です」
グラスを重ねる。
その夜は、尽きることなく父と語り合った。愛する人を失った者同士が、互いの痛みをそっと温め合うように――。




